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「卒業の日」 前編

定時後。


橘真由はスカイロビーで、壁際に寄りかかるようにして待っていた。


窓の向こうには、夕方から夜へと変わりかけた街の光。


腕時計にちらりと目を落とす。


——少し遅いわね。



「すみません、電話長引いて遅くなったっす」


振り向くと、森海斗がいつもの調子で歩いてきた。


「別にいいわよ」

肩をすくめる。

「そっちも忙しいの、知ってるし」


森はそのまま、真由の前で立ち止まる。


一瞬。


言葉が途切れる。


「……行きましょうか」


軽く言ったその声に、ほんの少しだけ間があった。


(……?)


視線を感じる。


いつもと同じはずなのに、どこか違う。


けれど真由は、その違和感の正体にはまだ気づかない。



「今日はどこで飲むの?」

歩き出しながら、いつもの調子で聞く。

「このビル周りは結構行ったわよね。たまには別のとこにする?」



——今日で最後。


真由の中では、もう決まっていた。


飲み仲間として並んで歩くのは、きっと今日で終わり。


(……まあ、仕方ないか)


そう思うのに、胸の奥にほんの少しだけ、引っかかるものがある。


「今日は、俺が奢りますよ」


森が前を向いたまま言う。


「予約もしてるんで」


「……は?」


思わず足を止める。


「予約?」


眉をひそめる真由に、森は軽く笑った。


「まあ、いいから」


(……なんなのよ、本当に)


納得はしていないが、そのまま後ろをついていく。




案内されたのは——

同じビルの上階。


けれど、いつもの居酒屋とはまるで違う。


落ち着いた照明。


静かな空気。


ガラス張りの席からは、夜景が一望できる。


(……え、ちょっと待って)


「こちらへどうぞ」


スタッフに案内され、席に着く。


真由は落ち着かない様子で周りを見回した。


「ちょっと……なんなのよ」

小さく声を落とす。


「ここ、結構いいとこじゃない」


森は椅子に腰掛けながら、さらっと言う。


「今日で飲み仲間、卒業なんで」


さらっと。


あまりにも自然に。


「……は?」


「最後くらい、いいでしょ」

そう言って、ふっと笑う。


「それに」

一拍置いて、視線を上げる。


「橘さん、いつもちゃんとしてるから」

まっすぐに、見る。

「こういうとこでも、全然浮かないし」


その視線。


その言葉。


いつもと同じ軽さのはずなのに——

どこか、違う。


真由は一瞬だけ言葉に詰まる。


(……何、この空気)


胸の奥が、わずかにざわついた。


真由は、どこか落ち着かない様子で席に座っていた。


視線が定まらない。


店の雰囲気にも、この距離感にも——慣れない。


(……もう入っちゃったし)

ここで引き返すわけにもいかない。


——今日で、卒業。

そう自分に言い聞かせて、そっとメニューを開いた。


「森くん、何頼むの?」

できるだけいつも通りの声で聞く。


「そうっすね……俺はこれにします」

指でメニューの一角を示す。


真由はちらりと覗き込む。

(……何これ)


カタカナばかりの料理名。

なんとかソース、なんとか風。


正直、よく分からない。


ページをめくっても、同じようなものが並んでいる。


(居酒屋の方が落ち着くわ……)

内心でぼやきながら、メニューを見つめる。


「橘さん、これとかいいんじゃないですか?」

森が自然に口を挟む。


「辛いの苦手ですよね」


「え…?」


「あと、鶏肉、好きでしょ」


さらっと言われて、真由は顔を上げた。

「……そんなの、よく覚えてるわね」


森は肩をすくめる。

「まあ、あれだけ一緒に飲んでたら」


(……そりゃ、そうか)

納得しつつも、どこか引っかかる。



結局、よく分からないまま——

森に勧められたものを、そのまま選ぶことにした。


タイミングよくウェイターが来る。


「注文いいですか」

森が自然に受けて、手際よくオーダーを伝えていく。


迷いがない。


無駄がない。


(……へぇ)

思わず、その様子を見てしまう。


「以上でお願いします」


ウェイターが下がる。


真由はグラスに手を伸ばし、水をひと口飲んだ。


「……結構、スマートなのね」

ぽつりとこぼす。

「知らなかった」


森は小さく笑う。

「今さらですか?」


軽い調子のはずなのに——

どこか、いつもより静かだ。


料理が届くまでの、わずかな時間。


沈黙が落ちる。



その沈黙を、先に破ったのは——


森だった。



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