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「線を引くということ」

営業三課。


福島は、今日も真由のデスクの前に立っていた。


「橘さん、この資料のここの数字なんですけど——」


「それ、マニュアルの3ページ目に載ってるわよ」


間髪入れずに返される。


「あ、はい……すみません」


頭を下げながらも、福島はどこか嬉しそうだった。


——また話せた。


そんな空気が、微かに滲んでいる。



それが一度や二度ではなかった。


誰に聞いてもいいようなこと。

少し調べれば分かること。


それでも福島は、必ず真由のところに来る。


真由は淡々と答える。

必要以上の言葉は返さない。


けれど内心では——


(……いい加減にしてほしいんだけど)


小さくため息をついていた。



その様子を、少し離れた席から見ていた男がいる。


森海斗。


ひょいと立ち上がり、真由のデスクに寄る。


「橘さん、先月のF社売上管理表なんですけど——」

F社は営業一課も三課も取引がある。


会話をしながら、ふと視線を感じた。


横。


福島がこちらを見ている。


いや——


正確には、真由を見ている。



へぇ。


森は心の中で小さく呟いた。




午後。


外出のタイミングが重なり、森、福島、そして福島の先輩社員の三人でエレベーターに乗り込む。


軽い沈黙。


スカイロビーで扉が開いたところで——


「あ、ごめん。ちょっと電話出るわ」


先輩社員がそう言って、その場を離れた。


残されたのは、森と福島。



一瞬の間。



「福島」


森が先に口を開いた。


「はいっ」


少しだけ緊張した声。



森はエレベーターホールの窓の外を一度見てから、ゆっくりと視線を戻す。


「橘さんのとこ、よく行ってるよな」


ド直球。



福島の心臓が、ドクンと跳ねた。


「……え、あ……はい。分からないことが多くて」


「分からないことは、いい」


森は遮るように言う。


「でもな、それ——“誰に聞くか”はちゃんと考えろ」



静かな声。


でも、逃げ場はない。



「橘さん、忙しい人だし。お前の教育担当でもない」


「……はい」


「それに」




「仕事と関係ない視線、あんまり分かりやすく向けんなよ」



福島の呼吸が止まる。



——バレてる。



「……すみません」


小さく絞り出すような声。



森はそれ以上、責めることはしなかった。


「別に責めてるわけじゃない」


少しだけ肩の力を抜く。


「最初はみんな、誰かに目いくもんだしな」



その言葉に、ほんの少しだけ救われる。



でも——



「ただ」


森の目が、真っ直ぐになる。


「ここは会社だ」



短い一言。


それだけで、十分だった。



「まずは仕事で信頼取れ。話はそれからだろ」



福島は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」



さっきまで胸の中にあった、淡い期待。


もしかしたら——という、甘い感情。



それが、すっと現実に引き戻される。


(……俺、何しにここ来たんだっけ)


答えは、分かっている。



仕事だ。



「失礼します」

姿勢を正し、頭を下げる。


森は軽く手を上げて、その場を後にした。



残された福島は、深く息を吐く。

——ちゃんと、やろう。


さっきまでとは違う感情で、そう思えた。



オフィスに戻ると、自然と足は自分のデスクへ向かっていた。

橘真由の方を見ることは、もうなかった。


福島と先輩社員が戻ってきてから——


さっきまで感じていた視線が、ふっと消えた。


(……来ない)

真由はキーボードを打ちながら、小さく息を吐く。


ふっと、肩の力が抜けた。



そのとき。


社内チャットのポップアップが、画面の端に現れる。


——森海斗


(……森くん?)


真由と森の席は、島をいくつか挟んで向かい合う配置だ。


真由は一度だけ顔を上げ、視線を送る。


ちょうど同じタイミングで、森もこちらを見ていた。


一瞬だけ目が合う。


すぐに逸らして、真由はチャットを開いた。


『今日、夜空いてます?

 飲みに行きませんか?』


(……何言ってんのよ)

心の中で呟きながら、指を動かす。


『大切な人と前向いていくんでしょ?

 もう飲み仲間は卒業よ』


送信。


すぐに返信が来る。


『話、聞いてほしいです

 それと、聞きたいことがあります』


「……もー、本当に」

思わず小さくこぼれる。


(みんな、なんなのよ……)


ため息ひとつ。


それでも——


『わかったわ』

短く返した。


チャット画面を閉じる。

何事もなかったかのように、仕事へ戻る。



定時まで、あと一時間。


カタカタと響くキーボードの音の中で——

ひとつだけ、引っかかる。


——聞きたいことって、何だろう。


その疑問だけが、頭の隅に残ったまま。


気づけば、時計の針は定時に近づいていた。



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