「“意外と”って、よく言われます」後編
午前十時過ぎ。
外出した新田の席は空いたまま、フロアにはキーボードを叩く音だけが静かに広がっていた。
森海斗は、画面に表示されたF社案件の資料を見つめたまま、眉を寄せる。
——あれ。
数値の並びに違和感がある。
昨日まとめたデータと合わない。
もう一度確認してから、小さく息を吐いた。
「……マジか」
このまま提出すれば、先方に出す見積もりが変わる。
気づかれない可能性もあるが、気づかれたら信用に関わる。
森は椅子を引いた。
「ちょっと確認してくるか」
隣の営業三課でもF社と取引しているはずだ。
森は二つ隣の島へ向かった。
ただ、普段ほとんど関わらない部署だ。
誰が担当なのかわからない。
「すみません、F社の担当アシスタントってどなたっすかね?」
一番端デスクにいた事務員に聞く。
「えっと…F社は橘さんが担当していますよ!」
手のひらで差された方向に見覚えのある姿が入る。
茶髪に巻き髪。
華やかなネイル。
細身のパンツスーツ。
橘真由だった。
——うわ、よりによって橘さんか。
美人だがすこしギャルっぽく、気が強そうなタイプに見える。
苦手、というほどではない。
ただ、これまであまり接点がなかった。
しかし今は、そんなことを言っている場合ではない。
「橘さん」
声をかけると、真由は画面から目を離さずに返事をした。
「んー?」
数秒遅れて顔を上げる。
「あ、森くん。どしたの?」
近くで見ると、思ったより落ち着いた目をしている。
森は一瞬だけ言葉を選んだ。
「F社の管理表って、橘さん管理っすよね」
「うん、そうだよ」
「この数値…そっちの部署の分が先月分と合ってなくて」
真由はすぐに椅子を寄せ、森の画面を覗き込んだ。
距離が少し近い。
甘い香りがかすかにしたが、森は意識を画面に戻す。
「どれ?」
指差した箇所を見て、真由の視線が一瞬鋭くなる。
「……あー」
その声色が変わった。
さっきまでの柔らかさではない。
仕事の声だ。
「これ、こっちの営業側の更新が先月末で止まってる」
「やっぱそうっすよね」
「こっちは今月分反映してるからズレてるんだ」
キーボードを素早く叩きながら、真由は淡々と言う。
「このまま出したら、先方に出る数字変わるね」
「ですよね」
「危なかった」
そう言って、真由は軽く息を吐いた。
「森くん、気づいてくれて助かった」
さらっと言われて、森は一瞬言葉を失う。
「…いや、たまたまっす」
「たまたまじゃないよ」
画面を見たまま、真由が言う。
「ここ普通気づかない」
その言い方はお世辞じゃなかった。
ただ事実を述べているだけの声だった。
森は少しだけ居心地が悪くなり、視線を逸らす。
「…よく言われるんすよ」
「何が?」
「“意外と”細かいとこ見るよねって」
真由の指が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「あー…」
小さく笑った。
「わかる」
森は思わず目を向ける。
真由は椅子の背にもたれ、肩の力を抜いた。
「私も言われる。“意外と”仕事できるんだねって」
少しだけ、苦笑い。
「意外と、って何だよって思うよね」
森は思わず吹き出しかけて、こらえた。
「…思います」
「見た目で判断されるの、まあ慣れてるけどさ」
真由は画面に視線を戻しながら続ける。
「仕事まで軽く見られると、さすがにちょっとね」
その声は淡々としていたけど、
ほんの少しだけ本音が混じっていた。
森は数秒黙ったあと、ぽつりと言う。
「俺も同じっす」
真由の手がまた止まる。
「チャラそう、ってよく言われるんで」
「…ああ、確かに」
即答だった。
森は苦笑する。
「否定しないんすね」
「でも」
真由がこちらを見る。
「さっきの気づき方見てたら、全然チャラくないよ」
その視線はまっすぐだった。
森は少しだけ照れくさくなり、
頭をかいた。
「…どうも」
真由は小さく笑い、再びキーボードを叩き始める。
「じゃ、数字修正しとく。五分で終わる」
「助かります」
デスクを離れようとして、森は一瞬だけ振り返った。
さっきまでの
“美人で派手な事務の人”
という印象が、少しだけ変わっていた。
——ちゃんと仕事見る人だ。
そして多分、
自分と同じように
“意外と”
と言われ続けてきた人。
森は何も言わず、自分のデスクへ戻る。
背後でキーボードの音が、
さっきより少しだけ近く感じた。




