「託された想い」
子ども部屋に入ると、やわらかい空気が広がっていた。
整えられたベビーベッド。小さなバウンサー。水通しされた肌着が、可愛らしく収納されている。
その光景に、ほんの少しだけ現実から切り離されたような感覚になる。
「……大丈夫よ」
涼子が、白石の顔を覗き込むようにして言った。
「新田くん、いい人ね」
白石は小さく頷く。
「はい。すごく、大切な人です」
その言葉に、涼子はにこりと笑った。
「これ、可愛いですね」
白石がベビーベッドのモービルを指差す。
「康介はああ言うけどね。性別が分かれば、色とかも揃えやすいのにって思っちゃうのよ」
少し困ったように肩をすくめる。
「もちろん、どっちでもいいの。ただ……動けるうちに準備しておきたくて。名前もね」
その声には、確かな“迎える覚悟”があった。
「何か必要なものがあれば、私も買いに行きますよ」
白石が言うと、涼子は「ありがとう」と優しく返した。
この部屋に立っていると、不思議と想像してしまう。
——いつか、自分にも。
そんな未来が、来るのだろうかと。
その頃、リビングでは——
静かな時間が流れていた。
康介はコーヒーを一口飲み、ゆっくりと口を開く。
「俺と綾子は、同じ大学だ」
低い声。
「公立。母親を事故で亡くしてるからな。親父にこれ以上負担はかけたくなかった」
新田は黙って聞く。
その事実は、聞いていた。
だが——
その先は、知らない。
「綾子が一回生、俺が四回の頃だ」
そこから語られたのは、白石の過去だった。
言葉のひとつひとつが、重い。
新田は、拳を握りしめたまま聞いていた。
やがて話し終え、康介が言う。
「……これが、俺の知ってる全部だ」
沈黙。
新田は、すぐに言葉を返せなかった。
胸の奥に、いくつもの感情が渦巻く。
——あのとき、俺は。
白石の前で。
何も知らずに、川上由梨と並んでいた。
“特別”に見える距離で。
奥歯を噛み締める。
康介は、その様子を静かに見ていた。
「展示会のことは、綾子から聞いた」
新田が顔を上げる。
「ただし、あいつの話だけだ」
一拍。
「お前のことを話すとき、俺がキレないように、だいぶ庇ってたぞ」
その言葉に、新田の胸が締め付けられる。
「お前はあの場の主役だ。A社の案件をまとめた人間だしな。元カノと並んでいても不自然じゃない状況だったって」
淡々と続ける。
「自分が勘違いしてるだけだ、ってな」
康介は、ふっと息を吐いた。
「……まあ、俺も大人だ。簡単にはキレん」
静かに言い切る。
新田は、少しだけ考えてから口を開いた。
「……白石さんと、二人でちゃんと話します」
それが、今出せる答えだった。
康介は何も言わず、コーヒーを飲み干すと立ち上がる。
そのままキッチンへ向かいかけて——
足を止めた。
振り返る。
「深く考えすぎるな」
低い声。
「人間なんて、どんな顔してても何考えてるか分からん。本人にしかな」
一歩だけ視線を寄越す。
「だから話すんだ。気が済むまで」
新田は、わずかに目を見開いた。
「……ありがとうございます」
自然と、そう言葉が出た。
「…それと、もう一つ」
康介が続ける。
「酒飲んで運転したことはあるか」
「ないです」
即答。
「酒は?」
「付き合いで飲むことはありますが、酔うほどは飲みません」
「……そうか」
短く頷く。
新田の中に、ひとつの記憶が浮かんだ。
「昔……交通事故を見たことがあります」
ぽつりと話し始める。
「お盆で、親戚の家に行く途中でした。大きな池のある公園の角で……同じくらいの歳の女の子が、“お母さん、お母さん”って泣いてて」
声が、少しだけ低くなる。
「次の日、新聞を見た父が言ってました。あの事故は飲酒運転で横断歩道を渡る母子に突っ込んで、母親が亡くなったって。それも、ここから遠くない場所です」
あの泣き声は、今でも忘れない。
康介が、静かに聞く。
「……それ、何歳のときだ」
「12歳くらいです」
「昼頃か」
「……はい」
沈黙。
そして。
康介が口を開いた。
「その泣いてた子は、綾子だ」
新田の思考が、一瞬止まる。
——繋がった。
胸の奥が、強く締め付けられる。
あのときの泣き声と、今の白石が重なる。
「俺は中三だった」
康介は続ける。
「綾子は小学生だ。まだ、幼かった」
一拍。
「だから俺が守るって決めた」
大きな体。
低い声。
それでも、その言葉はまっすぐだった。
「昴」
初めて、名前で呼ばれる。
「綾子を守れ」
短く、それだけ言って。
康介はキッチンへ戻っていった。
やがて——
子ども部屋の扉が開く。
「ただいま」
白石の声。
顔色は、少し戻っていた。
涼子との会話のおかげか、ほんのりと柔らかい表情をしている。
「新田くん、そろそろ帰ろうか」
覗き込むように言う。
「……うん。いい時間だね」
二人は立ち上がる。
玄関で、涼子が優しく微笑む。
「また、赤ちゃんが生まれたら遊びに来てね」
「はい、ぜひ」
新田が頭を下げる。
その横で——
「昴、約束守れよ」
康介が低く言った。
「はい」
迷いなく、頷く。
外に出る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
静かな空気。
「……お兄ちゃん、昴って呼んでたね」
白石が、ふっと笑う。
「うん」
短く返す。
少しだけ、間が空いて。
「白石さん」
ハンドルに手を置いたまま、言う。
「このまま、どこかで話せないかな」
白石は、迷わず頷いた。
「……うん。私も、そう思ってた」
車が、ゆっくりと走り出す。
今度こそ——
二人で、向き合うために。




