「踏み込む、その一歩」
土曜日。
約束の時間より少し早く、綾子の家の前に車を停める。
エンジンを切って、ひとつ深呼吸。
ほどなくして、綾子が出てきた。
「こんにちは。お迎えありがとう」
少しだけ緊張した声。
「よろしくお願いします」
そう言って、助手席に乗り込む。
「ナビ入れるから、ちょっと待ってね」
エンジンをかけながら言う。
「荷物、後ろに置いていいよ」
綾子がシートの後ろに手を伸ばしたとき——
紙袋に気づいた。
「あ……もしかして手土産用意してくれたの?」
「ああ、うん」
少しだけ照れたように頷く。
「ひとつはコーヒー味のやつ。白石さん好きだし、食べるかなと思って」
一瞬だけ間を置く。
「……っていうのも、奥さん妊娠中なの忘れててさ。慌てて買い直した」
「ふふ」
綾子が、小さく笑う。
日々の会話のなかのひとつを、ちゃんと覚えていてくれたのが嬉しかった。
車が、ゆっくりと動き出す。
しばらくは、静かな時間。
「新田くん、妊婦さんはカフェイン控えた方がいいって、よく知ってたね」
綾子から話しかけてきた。
「学生の頃の友人で、もう結婚して子どもがいる奴もいて…話聞いてたらそうらしいんだ。俺も最初は知らなかったよ。」
車中は、案外話がぽつりぽつりと続いた。
やがて、目的のマンションに到着する。
エントランスの前で、綾子がインターホンを押す。
『……はい』
柔らかい女性の声。
「綾子です」
『はーい、どうぞ』
ロックが解除される音。
エレベーターに乗る。
わずかな上昇の時間が、やけに長く感じた。
部屋の前に立つ。
一度だけ、綾子が小さく息を吸った。
そして、ドアを開ける。
「こんにちは」
玄関に現れたのは——
大きくなったお腹を優しく支える、ひとりの女性だった。ロングヘアで、柔らかい雰囲気。
でも、芯の強さを感じる、綺麗な人。
「いらっしゃい」
にこやかに微笑む。
そのすぐ後ろから現れたのは。
…あまりにも対照的な存在だった。
がっしりとした体格。
背も高い。
圧のある立ち姿。
——兄。
そう呼ぶには、あまりにも“強い”。
綾子が一歩前に出る。
「お兄ちゃん、涼子さん」
そして、少しだけ緊張した声で続けた。
「こちらが、今お付き合いしている……新田昴くんです」
白石が新田に向き直る。
「新田くん、こっちが兄の白石康介で、奥さんの涼子さん」
「兄は三つ上で、涼子さんも同い年」
紹介が終わると同時に——
白石康介が、新田をじっと見た。
鋭い視線。
まるで、値踏みするような。
一瞬、空気が張り詰める。
その空気を、ふっと和らげたのは——
「ごめんね、新田くん」
涼子だった。
くすっと笑う。
「この人、睨んでるように見えるでしょ?違うの。ちゃんと見てるだけ」
「いや、それ睨んでるって言うだろ」
小さく返す康介。
そのやり取りに、わずかに空気が緩む。
新田は一歩、前に出た。
「お兄さん、涼子さん、
はじめまして、新田昴です」
まっすぐに視線を向ける。
「綾子さんと、お付き合いさせていただいています」
その言葉に——
「俺はお前のお兄さんじゃねぇよ」
即座に返ってきた。
低い声。
でも。
どこか、試すような響き。
一瞬の沈黙。
新田は、ふっと小さく笑った。
「……それ、父親のセリフですね」
その一言に——
「ふっ」
綾子が吹き出す。
「もう」
涼子も肩を揺らして笑う。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
けれど——
試されていることだけは、はっきりと分かっていた。
「2人とも上がれ。茶は俺が淹れる。
涼子は座ってろ」
そう言って康介は中へ戻って行った。
「ささ、上がって2人とも。
近所で評判のいいお菓子を買ってきたから。
みんなでいただきましょう」
そういって涼子が招き入れた。
新田は、小さく息を整えてから、靴を脱いだ。




