「もう一度、話すために」
新田は、給湯室にいた。
A社の案件は無事に上市し、滑り出しは上々。社内でも評価は高く、忙しさも手応えも、十分すぎるほどあった。
それでも——
胸の奥にかかったままの靄は、消えない。
あれから二週間。
白石とは、仕事以外の会話をしていない。
連絡も取っていない。
ーー目すら、まともに合っていない。
この距離が、いつまで続くのか。
分からない。
それでも——待つしかない。
綾子が何か言ってくるそのときまで。
どんな言葉でも受け止める。
できることなら、そのまま抱きしめたい。
——もし、それが別れだったら。
一瞬よぎった想像に、思わず息が詰まる。
新田は小さく頭を振った。
考えるな。
「新田くん、お疲れさま」
その声に、顔を上げる。
給湯室の入り口に、白石が立っていた。
一瞬、心臓が跳ねる。
まるで、あの日の逆だ。
「白石さん、お疲れさま」
声が、少しだけ上ずった気がした。
——ちゃんと、笑えてるか。
自分でも分からないまま、言葉を返す。
白石は、ほんの一瞬だけ息を整えてから、まっすぐに新田を見た。
「あの……ごめんなさい。連絡できなくて」
静かな声。
でも、逃げていない。
「急なんだけど……今週の土日、どっちか空いてますか?」
一拍。
「話が、したくて」
新田の中で、何かがほどけた。
今すぐ抱きしめたい衝動を、ぐっと押さえる。
「どっちも空いてるよ」
できるだけ、落ち着いた声で。
「場所も、時間も、全部合わせる。何時間でもいい」
少しだけ、間を置いて。
「俺に聞きたいことがあるなら、全部話すよ」
まっすぐに、目を見る。
「白石さんと、ちゃんと話したい」
白石の瞳に、じわりと涙が浮かぶのが見えた。
気づいたときには、手が伸びていた。
頬に触れて、そっと涙を拭う。
白石は、その動きを拒まなかった。
「……ごめん。手が勝手に」
はっとして、すぐに手を引く。
指先が、少しだけ震えていた。
白石は、小さく首を振る。
「ううん……ありがとう」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「場所と時間、連絡するね」
その笑顔は、どこか覚悟を決めたようで。
でも、確かに前を向いていて。
久しぶりに見た気がした。
涙に濡れた瞳が、光を受けてわずかに揺れる。
その奥にあるものを、新田はまだ知らない。
ただ——
この時間が、もう一度動き出したことだけは、確かだった。
白石からのメッセージは、残業中に届いていた。
『急でごめんなさい。
明日、14時に私の兄の家に来てくれませんか?
住所は——
過去の恋愛でトラウマがあって、話したいのだけど、一人で全部話せる自信がなくて…』
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
——来た。
胸の奥で、何かが静かに動く。
新田はゆっくりと息を吐き、スマートフォンを握り直した。
『連絡ありがとう。了解です。
お兄さんの家、車の方が良さそうだね。もし嫌じゃなかったら、一緒に行かない?
車の中は、無理に話さなくていいから。』
送信。
ほどなくして返ってきた。
『うん、一緒に行きたい。ありがとう。』
短い一文。
それだけで、十分だった。
オフィスを出る。
夜の空気が、少しだけ肌に触れる。
新田はそのまま駅とは反対方向へ歩いた。
手土産をどうするか…。
考えながら、店に入る。
並んでいる焼き菓子の中から、コーヒー味のフィナンシェが目に入った。
無難で、誰にでも合う。
一度は手に取る。
——いや。
ふと、白石の言葉を思い出す。
「お兄ちゃん、結婚してて。今、奥さん妊婦さんなの」
手が止まる。
コーヒーは、控えているかもしれない。
静かに、棚へ戻した。
代わりに、体に優しそうな素材を使った焼き菓子の詰め合わせを手に取る。
甘さも、控えめなもの。
これなら、いい。
レジに向かい、会計を済ませる。
袋を受け取ったあと——
一瞬だけ迷って、もう一度棚を振り返る。
さっきのフィナンシェ。
少し考えてから、それも一箱、手に取った。
——これは。
白石に渡そう。
明日、きっと緊張するだろうから。
彼女が甘いものも、コーヒーも好きなことを知っている。
店を出る。
手にした袋が、わずかに温かい。
新田は夜道を歩きながら、小さく息を吐いた。
——ちゃんと、向き合おう。




