「綾子の過去のトラウマ」
週末になっても、綾子の調子は戻らなかった。
仕事はこなせている。
でも、心の奥に引っかかったものが、どうしても取れない。
正直、自分でも困っていた。
誰に相談すればいいのかも分からない。
このままずっと、こんな状態が続くのかもしれない
——そんな不安がよぎる。
そのとき、ふと頭の奥に浮かんだ言葉があった。
「綾子!次に付き合うやつは、先に俺に会わせろ!」
——お兄ちゃん。
ずっと奥にしまい込んでいた記憶が、ゆっくりと開いていく。
白石康介。
綾子の三つ上の兄。
大学時代は空手部の主将で、曲がったことが大嫌い。
妹に対してやや過保護なところはあるが、頭も良く、周囲からの信頼も厚かった。
大学四回生の頃、就活を終え、単位もほぼ取り終えていた彼は、バイトか、部活の後輩指導で道場に顔を出す日々を送っていた。
ある日の夕方だった。
真っ青な顔の綾子が、見知らぬ男二人に連れられて歩いているのを見かけた。
違和感は一瞬だった。
次の瞬間には、走り出していた。
「おい、お前ら誰だ」
片方の男の胸ぐらを掴む。
相手は二人。
だが、見た目で分かる。
力では負けない。
逃がすつもりもなかった。
「話せ」
低く押し出す声。
壁に押し付けるようにして問い詰める。
男は明らかに怯んだ。
やがて、押さえつけられたまま、途切れ途切れに話し始める。
綾子が付き合っていた男が、元カノとよりを戻したこと。
そして綾子に暴言を吐き、挙げ句「こいつ暇だから遊んでやれ」と二人に押し付けたこと。
一瞬で血が上る。
今すぐ殴り飛ばしたい衝動を、奥歯で噛み殺す。
——違う。先にやることがある。
男たちの学生証を無理やり出させ、写真を撮る。
すぐに近くに住んでいた同回生の副主将へ連絡し、二人を引き渡した。
そのまま、綾子を家まで送る途中、公園に立ち寄る。
ベンチは雨で濡れていたので、代わりにブランコに座らせた。
「綾子、大丈夫か」
目線を合わせるようにしゃがむ。
顔色は少し戻っていたが、目はどこか焦点が合っていない。
「何があったか、話せるか」
しばらくの沈黙のあと、綾子はぽつりぽつりと話し始めた。
初めてできた彼氏だった。
優しいところが好きだと言ってくれた。
前向きなところがいいと言ってくれた。
そんなふうに言われたのは初めてで、嬉しくて、会うのが楽しみで、何度もデートをした。
キスもした。
でも——今日。
彼が、見知らぬ綺麗な女の子と歩いていた。
友達だと思って声をかけた。
するとその女の子が「この子誰?」と聞いた。
彼は、あっさりと言った。
「知らねーよ。ブスでもないけど、美人でもないな」
頭が真っ白になった。
それでも、問いただした。
「私と付き合ってたんじゃないの?」と。
彼は苛立ったように言った。
「彼女の前で変なこと言うな」
そのあと、たまたま通りかかった彼の友人二人に——
「こいつ暇だから、遊んでやれ」
逃げなきゃ、と思った。
でも、体が動かなかった。
怖くて、何も考えられなかった。
「……そしたら、お兄ちゃんが来てくれて」
そこまで言って、綾子の声が震えた。
「私、付き合ってなかったんだって」
ぽろりと、涙が落ちる。
「大好きだったのに。もう、知らない人なんだって……」
「ブスじゃないけど、美人でもない、って」
「綾子!」
康介の声が強く響く。
「そんなクズの言葉、真に受けるな」
頭に手を置いて、ぐしゃっと撫でる。
「お前はいい子だ。兄ちゃんが保証する」
まっすぐな声だった。
「次に付き合うやつは、先に俺に会わせろ」
その言葉は、強く、深く、綾子の中に残った。
——全部、思い出した。
そういえば、新田と付き合ったとき、その約束を守っていなかった。
心のどこかで、見ないふりをしていたのかもしれない。
金曜日の帰り道。
綾子はスマートフォンを取り出し、兄に電話をかけた。
三コール目で繋がる。
「綾子か?どうした」
落ち着いた声。
康介は一昨年結婚し、今は妻が臨月に入っている。最近は定時で帰ることが多いと聞いていた。
「お兄ちゃん、ちょっと相談したいことがあって……」
ゆっくりと、今回のことを話す。
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いたあと——
「綾子」
低く、でも柔らかい声。
「その男、一回連れて来い。俺が話す」
少しだけ、息が軽くなる。
「……ありがとう」
「ただし、うちに来い。今は家離れられないからな」
臨月の妻を一人にできない、という理由だった。
「うん、もちろん」
むしろ、ありがたかった。
女性としての意見も、聞けるかもしれない。
綾子はスマートフォンを握りしめながら、小さく息を吐いた。
止まっていた何かが、少しだけ動き出した気がした。




