「同じ場所にいたのに」
少しずつ、白石の様子が崩れていくのを見て、森海斗は迷っていた。
——救急車を呼ぶべきか。
それとも。
白石は意識はある。呼びかけにも反応はする。
でも、呼吸が明らかに浅い。
過呼吸に近い。
「……どうする」
小さく舌打ちしそうになるのを堪えながら、スマートフォンを取り出す。
頭に浮かんだのは、一人だけだった。
コール音が鳴る。
『なにー?今から飲みに誘っても遅いわよー。今日は先約あるから』
いつも通りの軽い声。
「……まじか」
一瞬、ためらう。
でも。
「すみません、休みの日に」
声を落として続ける。
「今日展示会なんすけど、白石さん、体調崩して……家に返したいんですけど、迎えに来てもらえませんか」
一拍。
電話の向こうの空気が変わった。
『どこ?』
「ABC会館っす」
『すぐ行く。近いから、20分くらいで』
「……すみません、お願いします」
通話を切る。
森は、白石の方へ視線を戻した。
それから、20分もかからなかった。
「森くん!」
息を切らして駆け寄ってきたのは、橘真由だった。
その後ろには、もう一人、女性の姿。
「橘さん、こっちっす!」
森が手を上げる。
「綾子!」
真由が駆け寄る。
「大丈夫?体調悪い?」
しゃがみ込み、顔を覗き込む。
後ろの女性も様子を見て、眉を寄せた。
「……体調っていうか、顔色やばいね。ちょっと過呼吸っぽい」
「大丈夫、大丈夫」
真由は白石の背中をさすりながら、そっと抱き寄せる。
「ゆっくりでいいから。息、吐いて」
その声音は、驚くほど柔らかかった。
森は一瞬、目を見開く。
——こんな顔、するんだ。
どこか母性のようなものを感じて、少しだけ意外に思う。
「何があったの?」
隣の女性が森に視線を向ける。
森は少し迷いながらも、口を開いた。
「今日、展示会で……A社の、めっちゃ綺麗な女性と、新田さんが」
言葉を選びながら、状況を説明する。
二人が親しげに話していたこと。
そのあと、白石の様子が急に変わったこと。
話を聞いた二人は、顔を見合わせた。
「あぁ……」
小さく、納得したような声。
森は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
——白石さんと新田さん、付き合ってますよね?
聞くべきか、やめるべきか。
もし本人が話していなかったら。
それは、白石を困らせることになる。
「……多分、過去のトラウマがフラッシュバックしたのかも」
隣の女性が、静かに言った。
森は、ふと眉をひそめる。
——この人も、知ってるのか?
「森くん、ありがとう」
真由が顔を上げる。
「連絡くれて助かった」
「綾子、連れて帰るわ。またこっちから連絡する」
そう言って、白石の肩を支えながら立ち上がる。
「タクシーまで、俺運びますよ」
森はそう言って、白石を抱き上げた。
細身な体とは裏腹に、意外と力がある。
タクシーに乗せる。
「ご友人の方も、すみません。休みの日に……ありがとうございます」
森が頭を下げると、
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
「何言ってんのよ」
真由が肩をすくめる。
「毎日同じオフィスにいるでしょ」
「……は?」
「経理部の金田です」
「へ!?」
「それじゃあね。落ち着いたら連絡するわ」
タクシーのドアが閉まる。
走り去る後ろ姿を見送りながら、
森はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
——まじで!?
狐につままれたような顔のまま、ゆっくりと息を吐く。
夕方、16時頃。
展示会も、そろそろ終わりに近づいていた。
「あれ、白石さんは?」
新田が、ふと周囲を見回す。
「白石さん、途中で顔色悪くなって……」
佐藤菜月が言いかけたところで、
「あー、なんか体調崩したみたいで」
森が軽く被せる。
「橘さん呼んで、家に返しました。季節の変わり目ですしね〜」
なるべく、軽く。
新田は一瞬だけ眉をひそめた。
「……それ、いつ?」
「13時くらいっすかね」
その時間を聞いて、
新田の中で何かが引っかかる。
——ちょうど。
川上由梨と二人で回っていた時間。
「あー……」
森が、ぽつりと呟く。
少しだけ、迷うように。
「なんか、過去のトラウマがフラッシュバックしたのかもって、橘さんが」
「……トラウマ?」
新田の表情が、はっきりと変わる。
「森くん、橘さんの連絡先……俺に教えていいか、聞いてもらえる?」
「……了解っす」
白石から見て、何かあったのか。
いや——
自分と由梨は、とっくに終わっている。
今は、何もない。
それなのに。
——そのとき。
隣にいたのは、自分じゃなかった。
白石が崩れた瞬間に、
自分は、別の女性と並んでいた。
その事実が、じわじわと胸の奥に沈んでいく。
新田は、静かに息を吐いた。
——白石さんに何があった?
答えはまだ、見えなかった。




