「あの日の自分と重なる影」
白石は、昔のことを思い出していた。
——入社して三年目の春。
中途採用で、新田昴という男性が入ってきた。
年は、同じ。
背が高く、どこか柔らかい雰囲気を持ちながらも、整った顔立ち。いわゆる“イケメン”と呼ばれる部類だった。
片山部長に連れられて各部署へ挨拶に回るたび、若い事務職の女性たちが小さくざわついていたのを覚えている。
同じ部署に配属され、席は三つ隣。
はじめまして、新田昴です。
はじめまして、白石綾子です。
それが、最初の会話だった。
二人の間には、空席が二つ。
それでも、右足元の引き出しを開けるたび、視界の端に彼が入る距離だった。
書類申請の方法や、勤怠システムの入力。
営業と事務で共通している業務は、白石が教えることになった。
新田は、必ずメモを取り、最後には顔を上げて言った。
「ありがとうございます」
まっすぐに目を見て、丁寧に。
それが、少しだけ印象に残った。
やがて——
三ヶ月の研修を終えた新入社員、森海斗が配属される。
席は、白石と新田の間。
自然と、三人で過ごす時間が増えた。
新田の仕事ぶりは、際立っていた。
真面目で、誠実で、それでいて柔軟。
忙しいときほど、周りへの気遣いを忘れない。
同い年なのに、随分とできた人だな、と感じていた。
——いつの間にか。
ほんの少しだけ、目で追っている自分がいた。
でも。
白石は、その気持ちに気づかないふりをした。
自分に、自信がなかったから。
気づいてしまえば、きっと仕事に支障が出る。
そう思って、そっと蓋をした。
——今。
白石は、福井の姿を見ながら思う。
あの頃の自分に、少し似ていると。
新田を気にして、ミスをしたことはなかった。
でも——
気持ちが揺れる感覚は、よく分かる。
福井のデスクには、小さなチェック表が置かれていた。
自分で作ったものだろう。
そこに、赤ペンで書き足された一行。
「送付完了まで確認」
丁寧な文字。
でも、どこかぎこちない。
——頑張ろうとしてる。
その姿が、少しだけ胸に残った。
白石は、席を立った。
そして、田村のデスクへ向かう。
「田村先輩、少し相談いいですか?」
声をかけると、田村は穏やかに顔を上げた。
白石より一回り上。
既婚で、子どもはいないが犬を飼っているとよく話している。
「いいわよ、どうしたの?」
事情を簡単に話すと、田村は小さく頷いた。
「あぁ、福井さんね」
少しだけ、やわらかく笑う。
「なんとなく、見てたら分かるわ」
その一言に、白石は少し驚いた。
「若いうちのミスってね、ちゃんと向き合えたら“伸び代”になるのよ」
田村は立ち上がる。
「ちょっと話してみましょうか」
その日の午後。
田村は福井を呼び、三人で小さな打ち合わせスペースに入った。
「福井さん」
やわらかい声。
でも、どこか芯がある。
「配属されて一ヶ月くらいよね。よく頑張ってるの、ちゃんと見てるわ」
福井が、少しだけ顔を上げる。
「私もね、入社したての頃、全然集中できなくて」
くすっと笑う。
「いろんなミスしたのよ」
その言葉に、福井の表情が少し緩んだ。
「大事なのはね」
田村は続ける。
「どんなミスをしたか、ちゃんと理解すること」
「どんな状況で起きたのか、第三者の目で考えること」
「そして、どうすれば防げるかを、自分で考えること」
一つひとつ、ゆっくりと言葉を置いていく。
「チェック表を作るのも、すごくいいと思う」
福井のデスクにあるものを、きちんと見ていたのだろう。
「今日は、たまたま重なっただけ」
少しだけ優しく、でもはっきりと。
「これを乗り越えたら、ちゃんと自分の力になるわ」
「次は、“できた”を積み重ねていきましょう」
福井は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
顔を上げたときの表情は、少しだけ違っていた。
「切り替えて、頑張ります」
その言葉を聞きながら、
白石は、ほんの少しだけ昔の自分を思い出していた。
——あのとき、もし。
誰かにこうやって言ってもらえていたら。
いや。
きっと、自分は自分で乗り越えたからこそ、
今、こうしてここにいる。
視線の先で、福井がもう一度チェック表を見直している。
その姿は、まだ少し不器用で。
でも、確実に前を向いていた。
日常は、変わらず流れていく。
その中で、
少しずつ、人も変わっていく。
白石は静かにパソコンに向き直った。
——大丈夫。
ちゃんと、進んでる。




