「揺れる境界線」後編
ランチから戻ると、白石のデスクに一枚の電話取次メモが置かれていた。
何気なく手に取り、内容を確認する。
——ゴールデンウィーク前に発注した商品が、まだ届いていない。
白石は、ほんの一瞬だけ手を止めた。
「……あ」
思い当たる案件だった。
履歴を遡る。
入力担当——福井。
発注書のデータは残っている。
ダブルチェックもしている。
でも——
「送って、ない…?」
小さく、呟いた。
すぐに営業担当へ連絡を入れる。
状況を共有し、客先への謝罪を依頼する。
同時に、仕入れ先へ電話をかける。
「申し訳ありません、至急対応をお願いしたくて——」
事情を説明し、最短での出荷をお願いする。
今回は、白石自身が発注書をFAXで送付した。
——入力はできている。
でも、その先。
メールを送ったか、FAXを送ったか。
そこまでは、見きれていなかった。
受話器を置いた、その直後。
電話が鳴る。
「はい、お電話ありがとうございます」
ワンコールで、福井が取る。
少しだけやり取りをしたあと、顔色が変わった。
「……申し訳ございません」
電話を切る。
「白石さん……」
声が、少し震えている。
「違う会社への納品書が、混ざって届いたみたいで……」
白石は、ゆっくりと頷いた。
それもまた、福井が送付した案件だった。
——重なってる。
そのあとも。
小さなミスが、ひとつ、またひとつと浮かび上がる。
ゴールデンウィーク前後の処理。
忙しさに紛れていたものが、今になって顔を出し始めていた。
福井の手が、わずかに震えている。
「……すみません」
今にも泣き出しそうな声だった。
「大丈夫。今は、ひとつずつ対応しよ」
白石は落ち着いた声で言う。
責めることはしない。
ただ、順番に処理していく。
謝罪、再手配、確認。
ひと通り対応が落ち着いた頃には、フロアの空気も少しだけ静かになっていた。
「福井さん、ちょっといい?」
白石はそう言って、給湯室へと連れ出した。
ドアを閉めると、外の音が少し遠くなる。
「……大丈夫?」
福井は、唇を噛んだまま、こくりと頷いた。
「私もね、もっと確認できたと思う」
静かに言葉を続ける。
「忙しいのを理由に、ちゃんと見れてなかった。ごめんね」
その言葉に、福井は首を振る。
「白石さんは、なにも悪くないです……」
声が、震える。
そのまま、言葉が続かない。
——あのとき。
ふいに、頭の中に浮かぶ。
森の横顔。
電話をしているときの、少し低い声。
誰かと話している姿。
笑ったときの、少しだけ崩れる表情。
——あのときも。
気づけば、目で追っていた。
そのたびに、手が止まっていた。
確認が、後回しになっていた。
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「私……」
ようやく絞り出す。
「ちゃんと、できてたつもりで……」
視界が滲む。
「全然、できてなくて……」
ぽろりと、一粒こぼれた。
白石は、その様子をただ静かに見ていた。
叱ることも、否定することもしない。
ただ、受け止める。
——仕事中は、ちゃんと戻ってこないとね。
さっき自分が言った言葉が、ふと頭をよぎる。
まだ慣れない仕事。
その中で芽生えた、初めての感情。
どちらも、本当のことだ。
「……福井さん」
白石は、やわらかく声をかける。
「ミスは、誰でもするよ」
ゆっくりと、目を合わせる。
「大事なのは、ここからどうするか」
少しだけ、間を置いて。
「一緒に、戻していこ」
福井は、涙を拭いながら、小さく頷いた。
給湯室を出ると、またいつものフロアの音が戻ってくる。
電話の音。
キーボードの音。
誰かの声。
日常は、何事もなかったように続いていく。
その中で。
ひとつの感情が、
少しだけ、痛みを伴って形を変えた。
それが何になるのかは、まだ分からない。
ただ——
簡単に流していいものでは、ない気がしていた。
福井は、まだ涙の跡が残るまま、画面に向き直っていた。




