「揺れる境界線」前編
新田たちが出張へ出てから、フロアは少しずつ落ち着きを取り戻していた。
ゴールデンウィーク明けの慌ただしさもひと段落し、ようやく“いつもの日常”が戻ってきたような空気が流れている。
白石はパソコンの画面を閉じ、隣に視線を向けた。
「福井さん、今ちょっといい?」
「はい!」
少しだけ緊張したように返事をする。
「今日、そんなに立て込んでないし、まだ教えきれてないところやろうか」
「お願いします」
白石は準備していた資料を開きながら、ひとつひとつ説明していく。
通常業務だけでなく、イレギュラー対応や、判断に迷うケース。
「こういう時は、一人で抱え込まなくていいからね。必ず誰かに確認して」
「はい…」
真剣にメモを取る福井の横顔を見ながら、白石は少しだけ頷いた。
——ちゃんと、育ってきてる。
その日の昼。
「福井さん、よかったら一緒にお昼行かない?」
思い切って声をかけると、福井は少し驚いた顔をしてから、
「ぜひ、お願いします」
と、嬉しそうに答えた。
白石はお弁当を持ってきていたが、今日は夜に回すことにした。
近くのカフェ。
向かい合って座るのは、これが初めてだった。
最初は仕事の話から始まる。
「最近、だいぶ慣れてきたね」
「まだまだですけど…でも、前よりは少しだけ」
「うん、分かる」
白石が笑うと、福井もほっとしたように笑った。
少し沈黙が流れる。
カップを持ち上げたタイミングで、福井がぽつりと口を開いた。
「あの…仕事のこととは関係ないんですけど…」
「うん?」
「うちの会社で社内恋愛されてるかたとか、いらっしゃいますか?」
どきり、と心臓が跳ねた。
一瞬だけ、言葉が止まる。
——いる。
頭の中でそう答えながらも、それをそのまま口に出すことはできなかった。
「うーん…どうだろうね」
少しだけ考えるふりをしてから、続ける。
「片山部長は、社内恋愛で結婚されたって聞いたことあるけど」
「え、そうなんですか」
「うん。でも、だいぶ前の話かな」
軽く笑って、ごまかす。
福井は少しだけ視線を落として、
カップの縁を指でなぞる。
「……私」
小さく息を吸ってから、
「森さんのこと、ちょっと気になってて…」
その言葉に、白石はほんの一瞬だけ瞬きをした。
——森くん。
白石は、ふと福井の気持ちが分かる気がした。
仕事の合間にふらりと現れて、軽口を叩くのに、
肝心なところは外さない。
相手の状況を見て、さりげなくフォローに入るところも、
言葉は少ないのに、きちんと伝わるところも。
——ああいうところ、いいよね。
口には出さず、心の中で小さく頷く。
「そうなんだ」
白石は、やわらかく返した。
福井は少しだけ迷うように視線を落としてから、ぽつりと続ける。
「……最近、どうしても」
カップを持つ手が、わずかに揺れる。
「森さんのこと、目で追っちゃうんです」
その言葉は、小さいのに、どこかはっきりしていた。
「仕事中も、気づいたら見ちゃってて……」
「なんか、自分でもよく分からなくて」
困ったように笑う。
白石は、その様子を静かに見ていた。
——ああ、これ。
自分も、少し前に通った感情だと思った。
「……それ、多分ね」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「気になってるってことだと思うよ」
福井が、はっと顔を上げる。
「最初はみんな、そんな感じだと思う」
白石は少しだけ笑った。
「無理に止めようとしなくていいと思う」
「でも——」
一拍置く。
「仕事中は、ちゃんと戻ってこないとね」
少しだけ、先輩の声になる。
「そこだけ、気をつければ大丈夫」
福井は、少し驚いたように目を瞬かせてから、
「……はい」
小さく頷いた。
どこか安心したような、でも少しだけ照れたような表情。
白石は、その変化を見て、ふっと息を抜いた。
——懐かしいな。
そう思いながらも、口には出さない。
今はまだ、このくらいでいい。
カフェの窓の外では、初夏の光が揺れていた。
まだ名前のつかない感情が、
静かに、形を持ちはじめている。
その変化が、どんな形になるのか——
まだ誰も、知らなかった。




