表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/66

「揺れる境界線」前編

新田たちが出張へ出てから、フロアは少しずつ落ち着きを取り戻していた。


ゴールデンウィーク明けの慌ただしさもひと段落し、ようやく“いつもの日常”が戻ってきたような空気が流れている。


白石はパソコンの画面を閉じ、隣に視線を向けた。


「福井さん、今ちょっといい?」


「はい!」


少しだけ緊張したように返事をする。


「今日、そんなに立て込んでないし、まだ教えきれてないところやろうか」


「お願いします」


白石は準備していた資料を開きながら、ひとつひとつ説明していく。


通常業務だけでなく、イレギュラー対応や、判断に迷うケース。


「こういう時は、一人で抱え込まなくていいからね。必ず誰かに確認して」


「はい…」


真剣にメモを取る福井の横顔を見ながら、白石は少しだけ頷いた。


——ちゃんと、育ってきてる。




その日の昼。


「福井さん、よかったら一緒にお昼行かない?」


思い切って声をかけると、福井は少し驚いた顔をしてから、


「ぜひ、お願いします」


と、嬉しそうに答えた。


白石はお弁当を持ってきていたが、今日は夜に回すことにした。




近くのカフェ。


向かい合って座るのは、これが初めてだった。


最初は仕事の話から始まる。


「最近、だいぶ慣れてきたね」


「まだまだですけど…でも、前よりは少しだけ」


「うん、分かる」


白石が笑うと、福井もほっとしたように笑った。



少し沈黙が流れる。


カップを持ち上げたタイミングで、福井がぽつりと口を開いた。


「あの…仕事のこととは関係ないんですけど…」


「うん?」


「うちの会社で社内恋愛されてるかたとか、いらっしゃいますか?」




どきり、と心臓が跳ねた。




一瞬だけ、言葉が止まる。




——いる。




頭の中でそう答えながらも、それをそのまま口に出すことはできなかった。


「うーん…どうだろうね」


少しだけ考えるふりをしてから、続ける。


「片山部長は、社内恋愛で結婚されたって聞いたことあるけど」


「え、そうなんですか」


「うん。でも、だいぶ前の話かな」


軽く笑って、ごまかす。




福井は少しだけ視線を落として、


カップの縁を指でなぞる。




「……私」


小さく息を吸ってから、




「森さんのこと、ちょっと気になってて…」




その言葉に、白石はほんの一瞬だけ瞬きをした。




——森くん。


白石は、ふと福井の気持ちが分かる気がした。


仕事の合間にふらりと現れて、軽口を叩くのに、


肝心なところは外さない。


相手の状況を見て、さりげなくフォローに入るところも、


言葉は少ないのに、きちんと伝わるところも。




——ああいうところ、いいよね。




口には出さず、心の中で小さく頷く。


「そうなんだ」


白石は、やわらかく返した。




福井は少しだけ迷うように視線を落としてから、ぽつりと続ける。




「……最近、どうしても」




カップを持つ手が、わずかに揺れる。




「森さんのこと、目で追っちゃうんです」




その言葉は、小さいのに、どこかはっきりしていた。




「仕事中も、気づいたら見ちゃってて……」


「なんか、自分でもよく分からなくて」




困ったように笑う。




白石は、その様子を静かに見ていた。




——ああ、これ。




自分も、少し前に通った感情だと思った。




「……それ、多分ね」




ゆっくりと言葉を選ぶ。




「気になってるってことだと思うよ」




福井が、はっと顔を上げる。




「最初はみんな、そんな感じだと思う」




白石は少しだけ笑った。




「無理に止めようとしなくていいと思う」




「でも——」




一拍置く。




「仕事中は、ちゃんと戻ってこないとね」




少しだけ、先輩の声になる。




「そこだけ、気をつければ大丈夫」




福井は、少し驚いたように目を瞬かせてから、




「……はい」




小さく頷いた。




どこか安心したような、でも少しだけ照れたような表情。




白石は、その変化を見て、ふっと息を抜いた。




——懐かしいな。




そう思いながらも、口には出さない。




今はまだ、このくらいでいい。




カフェの窓の外では、初夏の光が揺れていた。




まだ名前のつかない感情が、


静かに、形を持ちはじめている。



その変化が、どんな形になるのか——

まだ誰も、知らなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ