「それぞれのゴールデンウィーク」白石綾子編
ゴールデンウィーク初日。
白石は朝から、どこか落ち着かなかった。
今日は、新田と並木通りでデートの約束をしている。
それなのに——
体が重い。
「……やっぱり来たか」
小さくため息をつく。
月のものだった。
無理をすれば出かけられないこともない。
でも、万全じゃない状態で会うのも違う気がして、どうしようかと迷っていた。
結局、そのまま新田に会うことにした。
顔を見た瞬間、新田が少しだけ眉を寄せる。
「白石さん、体調悪い?」
「えっ」
驚くほど、すぐに見抜かれた。
「……ちょっとだけ」
そう答えると、新田はすぐに頷いた。
「じゃあ今日は、外やめよっか。家でゆっくりしよう」
迷いのない言い方だった。
「え、でも…」
今日は新田がA社の契約内定を取ったお祝いを買いにも行く予定だ。
「白石さんが無理するほうが嫌だ」
やさしく、でもはっきりとした声。
その一言で、肩の力が抜けた。
向かったのは、新田の家だった。
白石の最寄りより、新田の方が近い。
マンションの前に立った瞬間、白石は思わず足を止めた。
「……すごいね」
思わず声が漏れる。
新しくて、きれいで、見るからに設備も良さそうな建物だった。
「総合職は住宅手当出るからね」
新田があっさりと言う。
「一般職はないんだっけ?」
「うん」
「でも、それで一人暮らししてる白石さんの方がすごいよ」
さらっと言われて、少しだけ照れる。
確かに一般職で一人暮らしをしている事務員は数少ない。
白石の同期の橘真由も実家から通っているし、金田遥は彼氏と同棲中だ。
オートロックを抜けるとき、
「……お邪魔します」
まだ部屋にも入っていないのに、小さく呟いた。
その横で、新田がくすっと笑う。
部屋は1LDK。
シンプルで、整っていて、無駄がない。
「荷物、適当に置いていいよ」
「ありがとう。先に手、洗わせてもらうね」
洗面台の前に立って、ふと動きが止まる。
——どうしよう。
急に緊張が押し寄せてきた。
恋人の家。
初めて。
二人きり。
……今日、どうなるんだろう。
新田くんは、今日私が月のものって知らないだろうし…
そんなことを考えていると、
「洗えた?次、俺使うね」
ひょこっと新田が顔を出す。
「ま、まだです!まだです!お待ちください!」
思わず声が裏返る。
新田が吹き出した。
「いつもの白石さん、どこ行ったの?」
「ここにいるよ!!」
よく分からない返しをしてしまう。
それで、少しだけ空気がゆるんだ。
リビングに戻ると、新田がテレビで映画を見る準備をしていた。
その間、白石はカーテンを少しだけ開けて外を見る。
「……やっぱり高いね」
7階からの景色は、いつも自分の部屋から見ているものより広かった。
「はい、これ」
振り返ると、ココアが置かれていた。
「ありがとう。新田くんもココア飲むんだ」
「いや、あんまり飲まない」
次の言葉がでてくるまで少しだけ間があく。
「白石さんが会社で飲んでるの見て、買っといた」
胸が、少しだけ温かくなる。
「今度、マグカップも買いに行こっか」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「え!?」
新田が、少しだけ不安そうな顔をする。
「……もう来てくれないの?」
その表情が、あまりにも予想外で。
「ち、違うの!また来ていいんだって思って……!」
慌てて言葉を重ねる。
その様子を見て、新田がふっと笑った。
「よかった」
小さく呟く。
「こっちおいで」
呼ばれて、少し迷いながら近づく。
そのまま、軽く引き寄せられて、新田の隣に座る。
「お腹、痛いでしょ」
そっと手が当てられる。
気づいてくれてたんだ…
「……あったかい」
ブランケットもかけられて、体がじんわり緩んでいく。
新田にもたれかかり、彼の体温と、少し早い鼓動。
ふわっと香る、いつもの匂い。
——落ち着く。
気づけば、そのまま眠ってしまっていた。
目を覚ますと、ベッドの上だった。
「……あ」
時計を見ると、一時間ほど経っている。
薬を飲んだせいか、体もさっきよりずっと楽だった。
寝室のドアをそっと開けリビングに戻ろうとすると、新田が気づく。
「起きた?大丈夫?」
「うん、ありがとう。だいぶ楽になった。
ごめんね、ベッドまで運ぶの重かったよね」
「白石さんみたいな華奢な身体、全然重くないよ」
新田が笑った。
「あの、お手洗い借りていいかな?」
バッグをもってトイレに向かおうとすると、
「こっち」
と案内される。
そして、トイレの棚の一角を指さした。
「妹が前に泊まりに来たときにさ。たまたまそうなって」
「……え」
「それ以来、置いてある。使えそうなのあれば使って」
思わず、言葉が詰まる。
「……ありがとう」
こんなところまで気が回るんだ、と少し驚いた。
リビングに戻って、また新田の隣に座る。
「妹さん、泊りにきたりするんだ…仲良いんだね」
「突然来るときもあるから困ることもあるけど…妹も弟もたまに泊りに来るよ。」
「今日、リクエストのもの買いに行けなくてごめんね」
新田が少しだけ首を振る。
「いや、欲しいものはもうここにあるから」
「え?」
新田が、少しだけ照れたように笑う。
そっと顎に手を添えられる。
親指が、唇に触れる。
「俺の欲しいもの、これ」
一瞬、思考が止まる。
「……だめ?」
小さく聞かれる。
胸の奥が、少しだけ騒ぐ。
「……どうぞ」
そう答えると、新田は優しく、白石の肩に手を置いた。
そして、静かに唇を重ねた。
帰り道。
車の窓の外に、夕暮れの光が流れていく。
隣には、新田がいる。
さっきまでの出来事が、少しずつ現実になっていく。
白石はそっと、自分の唇に触れた。
——あったかかったな。
ただ触れただけなのに、胸の奥までじんわり広がっていく。
それだけで、また少しだけ顔が熱くなる。
その姿を横目で見た新田がふっと笑った。
「お祝いの時以外もしてもいい?」
一瞬、言葉の意味を考えてから、白石は顔を上げる。
「…うん」
「よかった」
新田は前を向いたまま嬉しそうに言った。
ゴールデンウィークは、まだ始まったばかり。
休み中にまた会う約束をした。
白石のマンションに着き、送ってくれた礼を言い降りようとしたところを引き留められた。
軽く腕を引っ張られ、また唇を重ねた。
ーーーこ、こんなところで…!!
さっきよりも少しだけ近い距離に、息がうまくできない。
白石は頬を染めて車を降りた。
「今日はありがとう。気を付けて帰ってね」
「白石さんも、お体お大事に…」
そう言って新田の車は走り出した。
白石はその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。




