「先輩みたいになりたい」前編
4月も三週目に入り、基礎研修を終えた一般職の新入社員たちは、それぞれの部署で教育係のもと仕事を学び始めていた。
経理部では佐倉が、持ち前の真面目さで丁寧に教えていると評判だった。
白石の部署でも、白石がパソコン操作から一つずつ確認しながら指導しているらしい。
そして橘真由のいる部署では、入社三年目の香川が教育係を任されていた。
香川の隣には、新入社員の岡山が座っている。
「えっと…この伝票は、このフォルダに入れて…で、こっちは…」
自分では説明しているつもりなのに、言葉がうまくまとまらない。
岡山は真剣な顔で頷いているが、手は止まったままだった。
「あ、ごめん、もう一回言うね」
もう一度説明する。
さっきよりゆっくり話しているはずなのに、余計に分かりにくくなっている気がした。
自分の仕事も、まだ終わっていない。
画面の端に開いたままのメールが、ずっと気になっていた。
教育係なんて、そんなに大変なものじゃないと思っていた。
でも実際にやってみると、思っていたよりずっと難しい。
自分とはまったく違う人間に、自分が当たり前だと思っていることを伝えるのは、こんなにも時間がかかるのかと驚いた。
そして何より、自分の仕事が全然進まない。
…私も、白石さんに相談しておけばよかった。
先週、ブースBで白石と佐倉が話しているのを見かけた。
教育係について質問している様子だった。
あのときは、そこまで大げさなものなのかと思っていた。
──でも今ならわかる。
香川が教育係を簡単だと思ってしまった理由は、自身の教育期間にあった。
入社したばかりの最初の一週間、担当だったのは三崎だった。
本当は橘真由が教育係の予定だったが、インフルエンザで休んでしまい、急遽三崎が担当になったのだ。
三崎は、最初から最後まで落ち着いていた。
一つずつ順番に教えてくれて、分からないところは必ず止まって説明してくれた。
それでいて、自分の仕事もきっちり終わらせて、いつも定時で帰っていた。
一週間後、真由が復帰して教育係が元の予定通りにと交代した。
正直、最初は少し苦手だった。
見た目が派手で、距離の取り方が分からなかった。
でも仕事が始まると、真由はいつも先に気付いた。
「どしたー?どっかで躓いた?」
声をかけようと思った瞬間に、そう言われる。
その一言で、どれだけ助かったかわからない。
結局、自分は大きなミスもなく教育期間を終えた。
…あの時は当たり前だと思ってた。
今、隣で岡山が不安そうに伝票を見ている。
自分の教え方が悪いのかもしれない。
でも、どう直せばいいのかも分からない。
気付けば、ため息が出ていた。
そこへ真由が声をかけてきた。
「香川、T社のやつ、いったん全部もらおっか?」
「え?」
思わず顔を上げる。
T社の仕事は、今抱えている中で一番手間がかかる案件だった。
正直、喉から手が出るほど助かる。
でも、それをそのまま渡していいのか迷った。
「…でも、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。前にやってたし」
真由は軽く笑った。
「っていうか、相変わらず人に頼るの下手ね」
何も言い返せなかった。
「はいはい、ちょっと休憩しましょ」
そう言って真由は、香川と岡山の背中を軽く押して給湯室へ連れて行った。
紙コップにお茶を入れながら、真由が言った。
「二人とも初めてなんだから、最初からうまくいかなくて当たり前よ」
香川は思わず俯いた。
「岡山さんは初めての社会人でしょ。香川は初めての教育係。しかも自分の仕事しながら教えるのって、かなり大変なのよ」
「でも…佐倉さんとか、白石さんとか、ちゃんとしてます」
言ってから、しまったと思った。
真由は少しだけ笑った。
「人と比べるのは上手ね」
図星だった。
「人にはそれぞれキャパがあるし、見えないところで業務調整してもらってるかもしれないでしょ」
少し間を置いて、真由が聞いた。
「香川の教育係、誰だった?」
「…橘さんと、三崎さんです」
「わかってんなら、頼りなさい」
そう言ってから、真由は岡山の方を向いた。
「岡山さん、はきはき返事できてていいわよ。敬語もちゃんとしてるし」
岡山は驚いた顔をした。
「まずは電話対応からやってみよっか。取り次ぎだけでいいから。私たちも助かるし、練習にもなるし」
「は、はい!」
さっきまでの空気が、少しだけ軽くなった気がした。
席に戻る途中、香川は小さく息を吐いた。
三崎も、真由も、あの時は当たり前のようにやっていた。
でも今ならわかる。
自分の仕事をしながら、人に教えて、気にかけて、支える。
そんなこと、簡単にできるわけがない。
先輩って、すごい。
本当に、偉大だと思った。




