「新しい一年が始まる」
やっと決算を終えて、四月に入った。
年度末の慌ただしさが嘘のように、オフィスの空気が少しだけ軽い。
とはいえ、仕事が楽になるわけではない。
月初処理に、新年度の準備。机の上にはまだ書類の山が残っている。
そんな中、本社では入社式が行われていた。
今年の新入社員は全部で8人。
一般職で事務員が3人、総合職が5人。
総合職は営業や管理部に配属される予定だという。
もっとも、最初の三ヶ月は研修期間で、正式な配属はその後に決まる。
一般職の事務員に関しては基本の社会人研修のみで2週間ほどで配属先が決まり、通常業務を覚えていく段取りだ。
白石たちの部署に直接関わるのはまだ少し先だが、朝からどこかそわそわした空気が流れていた。
「若い子たち、緊張してるだろうね」
白石が書類棚の前で整理をしていると、橘真由がやってきて小声で言う。
「自分たちのとき、覚えてる?」
「……あんまり覚えてないかも」
そう答えながらも、白石はちらりとフロアの入口を見た。
リクルートスーツに身を包んだ新入社員たちが、整列して会議室へ案内されていく。
ぎこちない笑顔と、まっすぐすぎる背筋。
その光景を、自分のデスクから新田も見ていた。
「懐かしいな」
「新田さんも、あんな感じでしたか?
俺、ついこの間のことなのにあんま覚えてないっす」
隣の席の森海斗は入社4年目に入る。
「どうだったかな…俺はもっと顔引きってたかも。」
そう言って笑う。
くるりと椅子をデスクの方に戻す。
その時、白石と目が合った。
特に何も合図などもせず、少し微笑んでパソコンに向かう。
白石も少し気恥ずかしいような、嬉しいような気持ちでやや微笑みながら書類棚の整理に戻った。
春らしい、柔らかい空気。
けれど、白石の胸の奥にはまだ、あの日の給湯室の余韻が残っている。
――手紙に書いてたこと。
あれから、電話はまだ来ていない。
A社の案件で忙しいのはわかっている。
自分だって、仕事に追われている。
それでも。
新しい季節が始まるたびに、何かが動き出す予感がしてしまう。
入社式の拍手が、遠くから聞こえた。
午後。
白石は片山部長から会議室に呼び出された。
半期評価面談なら先月済ませたところなので、いったい何の呼び出しか…
そして、突然切り出された内容に白石は目を丸くした。
「白石、今年の事務職はうちの課に1名配属される予定だ。まだ誰がとは決まっとらんがな。教育係頼めるか?」
白石の部署には事務職が4人いる。
1人は白石の一回り上の田村先輩。結婚しているが子どもはおらず、犬を飼っているらしい。かつて白石の教育係だった。
2人目は白石の3つ下の佐藤菜月。白石が3年目の時に教育係を担当していた。
3人目は派遣社員で、担当することはできない。
もし自分の部署に配属されるのなら、教育係は佐藤菜月だと思っていた。
教育係は基本的に入社の浅い若手に振られることが多い。
これまで覚えた事の流れや意味を新入社員にアウトプットすることで、本人のさらなる成長を促すため。またシスターブラザー制度も含めて、これまではそのようにされていた。
白石も入社6年目となり中堅とは言わないが、まさか自分に出番がくるとは思っていなかった。
一言も返さないまま片山部長は続ける。
「なぜ佐藤では無いのか…と思う気持ちはわかる。だがA社の案件がまもなく正式に契約内定となりそうなんだ。非公開でたのむ。
A社との商売が始まったら、ベテランの田村と佐藤に事務担当とする予定だ。佐藤はこれまで大きな案件を担当していないからな、そっちの方で経験を積ませたい。
それに対し、白石はF社の案件を担当している。こちらも大きな案件だ。」
なるほど、とどのつまり──
A社の案件と教育係を同時に担当した場合の佐藤菜月の負荷。
そして、A社とF社の案件を両方抱えた場合の自分の負荷。
そのどちらも天秤にかけた上での判断、ということか。
白石はそう受け止めた。
「教育係でなくとも佐藤は後輩のこともしっかり見てやるだろうよ。なんせ白石が育てたんだからな。」
「買い被りすぎですよ。」
白石がふっと笑う。
「すまんが、頼む。」
「承知いたしました。
…ただ、この内容を佐藤さんにも伝えてください。
なぜ自分ではないのか、この機を逃すと自分にはその出番がないのではないか…など、彼女を不安にさせたくはありません。」
「もちろんそのつもりだ。
そしたら、次、佐藤呼んできてくれ。」
白石が会議室を出る。
ドアを閉めると、いつものフロアの音が戻ってくる。
キーボードの音、電話の声、コピー機の動く音。
さっきまでの話が少しだけ遠くなって、
それでも胸の奥には、静かに何かが残っていた。
佐藤菜月の席に近づく。
「佐藤さん、部長が呼んでる」
声をかけると、佐藤菜月が顔を上げた。
「はい、今行きます」
その素直な返事に、少しだけ気持ちが引き締まる。
「うん、会議室」
それ以上は言わずに、白石は自分の席に戻る。
パソコンを開きながら、頭の半分で新入社員の教育スケジュールを思い浮かべた。
入社六年目。
まだ教わることの方が多いと思っていたのに、
気がつけば、教える側に立っている。
少しだけ背筋を伸ばして、キーボードに手を置く。
四月。
新しい一年が、始まっている。




