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「辞めないで」

三月の終わり、給湯室の空気はいつもより重かった。


「……私、辞めようかなって思ってるの」


湯気の立つマグカップを両手で包みながら、橘真由の先輩事務員、三崎(みさき)はぽつりと言った。


真由は息を呑む。


「どうしてですか」


「子どもの発熱で急に休んだり、早退したり……事務のみんなに迷惑かけてるでしょ。空気も悪くなるし。私のせいで、って思うとさ」


笑おうとして、うまく笑えない顔だった。


真由は首を振る。


「迷惑なんて、思ってないです」


「優しいね、真由は」


「違います。……私、入社したときから先輩にどれだけ助けられたか」


資料の作り方も、電話の取り方も、失敗して落ち込んだ夜も。

いつも隣にいてくれた。


「辞めないでください」


声が震える。


「ライフステージが変わったら働きづらいのはわかります。でも……子育てが落ち着いたら、長く働ける大事な存在になるじゃないですか。今の若い子たちは、それがまだわからないだけです」


気づけば、涙がこぼれていた。


先輩は少し驚いたように目を丸くして、それから柔らかく笑った。


「……ありがとう」


それだけ言って、マグカップを持ったまま給湯室を出ていった。


入れ違いに、壁にもたれていた人影が動く。


「……胸、貸しましょうか?」


低くて、少し茶化すような声。


「森くん……聞いてたの?」


「たまたまっすよ。ほんと、たまたま」


真由は涙をぬぐいながら、少しだけ笑った。


「泣き顔、レアっすね」


「うざ…」


「でも、ああいうの言えるの、かっこいいと思いますよ」


不意に真面目な声になって、真由は一瞬だけ視線を逸らした。




数日後


営業三課、真由の部署のメンバーは会議室に集められた。


上長が前に立ち、三崎がその少し後ろに立つ。

だれもが、『あぁ、三崎さん辞めるのかな…』と思った。


上長が資料を置き、静かに口を開く。


「来月から、三崎さんには時短勤務に移行してもらう。二時間短縮だ。仕事の割り振りは、事務メンバーで改めてミーティングを行う」


ざわ、と空気が揺れる。


「三崎さんからも一言」


三崎は立ち上がった。


「皆様、これまでご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。正直、退職も考えていました」


真由は息を止める。


「ですが、主人に背中を押されて……そして、可愛い後輩に大切なことを教えられて。まだここで頑張りたいと思いました」


真由の目が熱くなる。


「今は子どもも小さく、急な休みや早退でご迷惑をおかけします。でも、それは永遠には続きません。いつか落ち着く時が来ます」


一度、言葉を区切る。


「もし今、私が辞めてしまったら。将来、今の若い子たちが同じ立場になったとき、同じ轍を踏むかもしれない。それは避けたい。助けたい。恩を返したい」


まっすぐな声だった。


「これからも、よろしくお願いします」


拍手が起きた。


これまで愚痴をこぼしていた若い事務員も真剣な顔をしていた。

今のことばかり見て自分たちの未来など、考えてもいなかったと気付かされ、先輩の想いにも気付かされた。


真由は、泣きながら笑った。



その夜。


「――っていうことがあったのよ」


居酒屋のテーブルで、真由はグラスを置く。


向かいの森海斗は、ふっと口角を上げた。


「よかったっすね」


「うん……ほんとに」


「橘さんが泣いた甲斐、あったじゃないですか」


真由はジョッキを持ち上げて顔を隠す。


「泣いてない」


「いや、号泣でしたよ」


「森くん!」


くすくす笑う。


ジョッキを軽く掲げながら海斗が言う。


「でも、ああいう人が残る会社は、強いっすよ」


「……どういう意味?」


「未来があるってことです」


真由は一瞬、言葉を失う。


騒がしい店内の中で、胸の奥が少しだけ温かくなる。


先輩が残る未来。

自分も、ここで積み重ねていく未来。


グラスを合わせる音が、静かに響いた。



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