「コーヒーの湯気」
三月の忙しさは、まだ終わらない。
午後三時を回っても、営業部の電話は鳴りやまない。
資料の確認、見積の修正、決算前の数字の詰め。
白石綾子は、ふっと息を吐いた。
「……ちょっと休憩」
誰に言うでもなく呟き、給湯室へ向かう。
この時期になると、片山部長が社員用にドリップコーヒーをストックしてくれる。
「せめてカフェインで乗り切れ」という無言の応援だ。
カップにフィルターをセットし、ゆっくりとお湯を注ぐ。
ふわりと広がる香りに、肩の力が少し抜けた。
そこへ、マグカップを持った橘真由が入ってくる。
「おつかれ〜」
「おつかれ」
綾子は笑う。
「真由は今日も残業?」
真由は一瞬、間を置いてから答えた。
「いや、最近はちょっとマシ」
「え?」
「周りの子が積極的に手伝ってくれてさ」
マグカップを棚に置く。
「なんかね、森くんがフォローしてくれてたみたい」
綾子の手が、ほんのわずかに止まる。
「フォロー?」
「うん。三崎先輩が慌てて帰った日あったじゃん」
保育園からの呼び出し。
バタバタと荷物をまとめて頭を下げて帰る背中。
「そのあと森くんが、ふらっと来てさ」
真由は少し笑う。
「“子育てってすげーっすよね”って」
綾子は顔を上げる。
「それで?」
「“それをフォローするのも、みんなで子育てしてるみたいで日本の未来明るくないっすか?”とか言ってた」
思い出して、真由が小さく吹き出す。
「何それ」
「でしょ? 何言ってんだろって思ったけど」
少しだけ声が柔らぐ。
「でもさ、ああいう言い方されると、悪口言いづらいじゃん」
確かに。
“迷惑”ではなく、“未来”に変換される。
空気が、変わる。
「チャラいけど、あいつ地味に男前だよね」
真由がさらっと言う。
綾子はコーヒーを一口飲む。
心も温まる。
「……そうだね」
「でさ」
真由が何気ない顔で続ける。
「綾子、ホワイトデーのお返し何もらったの?」
あえて。
誰からかは聞かない。
綾子は黙る。
そして、着ていたニットの首元を軽く引っ張った。
「これ…ネックレス。小さいパールがついたやつ」
小さなパールが胸元で揺れた。
「え!綾子めっちゃ似合ってるじゃん!
てか、ガチのお返しじゃん!
やるなー、影の同期!」
「え!!!」
白石が目を丸くする。
先月の体調不良の時に、真由は連絡をくれた。
続けて同期に代わると言って、同期ではない中途入社で同い年の新田に代わったことを即座に思い出す。
「ん?真由様の目は誤魔化せないよ?」
白石は頬が赤くなった。
「応援してるからね」
そういって、ウインクをし、真由は先に給湯室を出た。
新田が出張から帰ってくるのは来週。
どんな顔をして会えばいいのか…
あれから連絡もできていない。
それでも毎日ネックレスは着けていた。




