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「ホワイトデーの夜」

三月中旬。


営業部も事務も、全員が少しずつ疲れている時期だった。


数字に追われ、納期に追われ、決算に追われる。


そんな金曜日の夕方、森がひょいと真由のデスクに顔を出した。


「橘さん、明日空いてます?」


「え、なに急に」


「飯」


「は?」


「愚痴、聞きますよ」


真由は一瞬だけ目を細めた。


「なんで?」


「なんとなく」


軽い調子。けれど目は真面目だった。


少し迷ってから、真由は笑った。


「いいよ。どうせ暇だし」


――そして土曜日。

ホワイトデー。


駅近くのイタリアンは、思ったより落ち着いていた。


「で?」


席につくなり真由が言う。


「何が“愚痴聞きますよ”なわけ?」


森は水を一口飲んで肩をすくめる。


「最近、機嫌悪いときあるじゃないですか」


「は?」


「顔には出してないけど」


真由はグラスを置いた。


「……出してないならいいじゃん」


「俺、わりと見てるんで」


その言い方に、少しだけ照れが混じる。


しばらく沈黙。


やがて真由がため息をついた。


「……別に大したことじゃないんだけどさ」


ぽつり、と始まる。


同じ部署の事務の先輩。小さな子供がいる。

この激務の中、保育園からの呼び出し。体調不良。


急いで帰る背中。


その後の空気。


「また?」「今週何回目?」


小声で言う他の事務員。


聞こえるように言わないけれど、聞こえる距離。


「その人、私が入社したときめちゃくちゃ助けてくれたんだよね」


真由はフォークでパスタをくるくる巻く。


「分かりやすく優しくてさ。なんもできない私に、ちゃんと教えてくれた」


森は何も挟まない。ただ聞く。


「子どもが熱出すのなんてさ、本人が一番焦ってるに決まってるじゃん」


声が少し強くなる。


「なのに“迷惑”みたいな空気出すの、意味わかんなくて」


グラスを持つ指に、少し力が入る。


「自分だってさ、いつどうなるかわかんないじゃん。結婚するかもしれないし、子どもできるかもしれないし、親の介護だってあるかもしれないし」


一気に吐き出す。


「なのに、“今”困らせてる人を悪者みたいにするの、無理」


森がようやく口を開く。


「最近、残ってること多かったですもんね」


真由が顔を上げる。


「え?」


「その人の分、結構フォローしてたでしょ」


図星だった。


「……別に」


「別に、って顔じゃないです」


森は少し笑う。


「俺、あの先輩好きですよ」


「え?」


「ちゃんと子どもの話するし、ちゃんと謝るし。逃げない人じゃないですか」


真由の肩の力が、少し抜ける。


「橘さんも」


「は?」


「逃げない人」


真由は目を逸らす。


「……うざ」


「褒めてます」


料理が運ばれてくる。


少しだけ空気が柔らぐ。


しばらく食べ進めてから、真由がふと思い出したように聞いた。


「ていうかさ」


「はい」


「今日、なんで誘ったの?」


森はフォークを置いた。


「橘さん、なんかたまってそうだったし」


「……」


「食事はホワイトデーのお返しっすよ」


さらっと言う。


真由が瞬きをする。


「え、あれ? 受け取ってたの?」


「受け取ってましたよ。ちゃんと」


バレンタインの日に配った、小さなチョコ。


「だから今日はその分」


少しだけ照れたように視線を外す。


「愚痴込みで」


真由は、ふっと笑った。


「なにそれ」


「安いでしょ?」


「だいぶ」


でも、悪くない。


店の外はまだ少し冷える夜。


真由はグラスを持ち上げる。


「じゃあ、お返しありがと」


「どういたしまして」


グラスが軽く触れた。


仕事はまだ続く。


忙しさも、理不尽も、消えない。


それでも。


今日くらいは、少しだけ軽くなっていい。


ホワイトデーの夜は、静かに更けていった。


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