第3話 私にもファンがいるかもしれません
ダンスのトレーナーさんは、いつもいるという訳ではない。だけれど、レッスン室は使うことができる。言えば鍵ももらえるし、自主レッスンは認められているのだ。
陽依さんと会った次の日、私はまたレッスン室へと足を運んでいた。昨日身に着けた技術を確実にするために、自主レッスンすることにしたのだ。
「……あれ?」
という訳で踊ってみた訳だけれど、どうにも上手くいかない。昨日はあんなに綺麗に踊れていたのに、今の私は全然駄目だ。
おかしい。私は昨日、完璧に掴んだはずではないか。たった一日で踊れなくなるなんて、そんなことがあってたまるか。
「こうして、こう……」
違う、こうではない。頭ではそれがわかっているのに、体は上手く動いてくれない。
もう一度、やってみよう。昨日できていたことを忘れてしまうなんて、これでは玲奈様にも陽依さんにも顔向けできない。
「……やめた方がいいと思うけど」
「え?」
私がもう一度挑戦しようとしていると、冷たい声が聞こえてきた。
私は正面にある鏡に目を向ける。そこに人が映っていることに気付いて、私はゆっくりと後ろを向く。
「み、水瀬さん……」
「……こんにちは」
するとそこには、水瀬冴さんがいた。
彼女はPentasのメンバーの一人だ。私と同い年の子で、とてもクールな女の子である。
正直言って、水瀬さんはあまり得意ではない。いや、別に対人関係が基本的に苦手なだけだが、少なくとも陽依さんのように、心が軽くなるようなことはない。
「こんにちは……えっと」
「新曲の練習でしょ?」
「え? あ、うん。そうだけど……」
水瀬さんの端的な質問に、私はゆっくりと頷いた。
確かに今やっているのは、新曲の振り付けだ。しかしよくわかったものだ。まあ、私がやっているのが難しい所だし、印象に残っているのかもしれない。
でも水瀬さんなどは、ここも卒なくこなしていたような気がする。
「練習しても、無駄だと思うよ」
「え?」
そんな水瀬さんから飛んできたのは、とても鋭い言葉だった。
私の体から、血の気が引いていく。そうだ、昨日の私は調子に乗り過ぎていたのだ。本当はわかっている。私なんかには、無理だということは。だって私は――
「ちょ、ちょっと、佐藤さん……」
「うぇ? あっ……」
すうっとした感覚の直後、私はバランスを崩していた。立ち眩みというのものだろうか。私は急に立っていられなくなった。
その瞬間、水瀬さんの体が動いた。彼女は素早くこちらに近づき、そのまま私の体を支えてくれる。
「……だ、大丈夫?」
「あ、うん。あ、ありがとう、水瀬さん」
水瀬さんに支えてもらったお陰で、倒れずに済んだ。
気が付くと足に力が入っていた。これなら一人でも立てそうな気がする。
恐らく私は、ほんの一瞬だけ立ち眩みしてしまったのだろう。そうでなければ、いくら水瀬さんでも私の体を支えられる訳がない。
「よ、良かった……急に倒れるなんて、びっくりさせないで」
「あ、うん」
水瀬さんは、私の体を支えながらため息をついた。
迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ない。水瀬さんがいなければ、どうなっていたことか。
そう思いながら私は、あることに気付いた。水瀬さんは片腕を私の背中に回している。そしてもう片方の腕も私の体に触れているのだが、それが問題であった。
「あのね、水瀬さん。本当に、助けてくれて嬉しいんだけど……」
「佐藤さん? ……あれ? これは」
私が声をかけると、水瀬さんもそれに気付いたようだ。
彼女の手は、私の胸を掴んでいる。咄嗟に抱きかかえたため、結果として触れてしまったのだろう。
これに関しては、不可抗力でしかない。別に気にするようなことではない。そもそも、同性同士である訳だし。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、気にしないで。別に、こんなことなんでもないし……」
「いやこれは、私の不注意でしかないから……」
「水瀬さん? んぅ……」
「あっ……」
そこで水瀬さんは、指を動かした。何度か指を動かした後、彼女は目を丸くする。その行為は水瀬さんにとっても、想定外のことだったらしい。
その後彼女の頬が、少し赤くなった。多分私の方も、そうなっているだろう。なんだか顔が熱いような気がする。
「ご、ごめんなさい。私は、なんということを……」
「う、ううん。その、反射的にそうなっちゃっただけだろうし……」
「う、うん……いや、反射的だろうがなんだろうか、こんなことしたら駄目だよね? その、本当にごめんなさい。今、手を離すから」
「うん……」
謝罪の言葉を口にした後、水瀬さんは私の胸から手を離した。
それから彼女は、その手を掌を上にして所在なさそうに宙に浮かべていた。水瀬さんの視線は、その手と私の胸に交互に向いている。流石に私の胸には、かなり遠慮がちにだが。
そこで私は、水瀬さんの手が動いていることに気付いた。彼女は掌を閉じたり開いたりしている。その動きは、先程あったことを連想させた。
「……」
「あの、水瀬さん?」
「え? あ、その……」
「もう一人でも立てるから大丈夫……」
「そ、そう……椅子に座った方がいいよ。そこまでは連れて行く」
「うん、ありがとう……」
私の言葉で冷静になったのか、水瀬さんは椅子がある方まで支えようとしてくれた。私はそれに甘えて、椅子の方まで歩いていく。
私は、水瀬さんに補助してもらいながら椅子に座る。もう立てないなんてことはないけれど、座るとやはりかなり楽になった。
「水も飲んだ方がいいと思う」
「な、何か何までありがとう」
「別に……」
私の隣に椅子を並べて座った水瀬さんは、言葉を途中で途切れさせた。
彼女は何かを考えるような仕草を見せる。その横顔は綺麗だ。玲奈様といい、顔立ちが整っている人は、こういった所作まで様になる。
「……待って」
「……はい?」
私が水瀬さんを見つめていると、意外な言葉が返ってきた。
待って、というのは何に対する言葉だろうか。よくわからない。でもとりあえず、私は動きを止める。
「もしかして、私のせいで倒れたの?」
「え?」
「……練習しても無駄とか、言ったから」
水瀬さんの言葉に、私は思い出す。そういえば、そんなことを言われていたっけ。
そうだ、私はその言葉を聞いてくらくらしてしまったのだ。それは的を射ている言葉ではあるけれど、あまりにも切れ味が鋭すぎて。
「あ、えっと……」
「やっぱりそうなんだ……ご、ごめんなさい」
「ああいや、別に大丈夫。練習しても無駄なのは、多分本当だし……私、少し調子に乗っていたのかな? ダンス、できるとか思っちゃって」
「ち、違うから!」
そこで水瀬さんは、大きな声を出した。私が玲奈様にしたように、それは急な大声である。
それに私がびっくりしていると、水瀬さんが距離を詰めてきていた。彼女は椅子を引いて身を寄せて、私の顔に自分の顔を近づけてきている。
「別に、佐藤さんにダンスができないとかそういう意味じゃないから」
水瀬さんは、綺麗だ。まつ毛も長い。それを見ていると、先程までとは別の意味で夢み心地になりそうだ。
しかし、水瀬さんが言っていることはどういうことだろうか。先程の言葉は、私にダンスができないという意味に他ならないと思うのだが。
「そ、それなら、どういう意味なんですか?」
「……今の佐藤さんは、疲れているでしょう?」
「疲れている? まあ、倒れそうになった訳だし、そうなんですかね?」
「そういうことではなくて、その、さっき練習している時も疲れがあったんじゃないかって思って……」
「疲れ? そうでしたかね……」
水瀬さんの説明に、私は先程までの状態を思い出す。
言わてみれば、今日は昨日と違って体が重かったような気がする。あれは疲れていた、ということなのだろうか。
「昨日はレッスンだったよね? 多分、その時頑張ったんじゃない?」
「そ、そうですね……」
「その疲れが、多分取れていなかったんだと思う。だから今日は練習なんてしないで、ゆっくり休んが方がいいって、言いたかったんだけど」
つまり水瀬さんとしては、「(今日は昨日の疲れが溜まっているだろうから)練習しても、(成果は出ないし)無駄だと思うよ」と言いたかった訳だ。
実際に、私は昨日できていたことすらできなくなっていた。水瀬さんの言う通り、今日の練習には意味がないのかもしれない。
つまり私は、勘違いしてしまった訳だ。それで倒れそうになったなんて、なんとも情けない話である。
「そういうことだったんですね。勘違いして、ごめんなさい」
「……佐藤さんが謝ることではないと思う。私も言い方が悪かったし」
「でも、私が早とちりしちゃっただけですし……はあ、昨日は本当に頑張り過ぎちゃったな」
「……何かあったの? 佐藤さんがやる気を出すなんて意外」
「え? あ、うん……あれ? 水瀬さん?」
一度離れていた水瀬さんの顔が、再度近づいてきた。
彼女はもしかしたら、今の言葉を気にしているのだろうか。やる気を出すなんて意外、それが私を責めているかのように、自分で受け取ってしまったらしい。
私としては納得できることだっため、受け流した言葉なのだが、先程のこともあるので、水瀬さんは気にしているのかもしれない。
「別にこれは、責めているとかではなくて、佐藤さんはアイドルに対してモチベーションがないんじゃないかと思っていて、理想と現実とかに打ちのめされているのかなって」
「まあ、それはそうでしたね。理想と現実、とかではなかったかもしれませんが……」
「てっきり、もうやめるものだと思っていたけれど……」
「そうですね。そのつもりでした」
私はとりあえず、水瀬さんの言葉に頷いた。
ただ頷いてから、あっさりし過ぎていないか心配になってきた。やめるやめないの問題は、結構深刻なものである。こんな軽い感じで返事して良かったのだろうか。
とはいえ、水瀬さんは予測していた訳だし隠しても無駄だ。彼女はその辺りに関しては、割り切っているのかもしれないし。
「……別にやめて欲しかった訳ではなくて」
「あ、うん……」
水瀬さんは、私の言葉を受けて焦っているように見えた。
割り切っている、ということではなさそうだ。また私に、端正な顔を近づけて来ているし。
その顔が近づいてくると、私の思考も乱されてしまう。水瀬さんには自分の顔が良いことを、もっと自覚して欲しい。
「この世界、大変なこともあるし、合わないならやめるのも手だと思うし……だから別に、やめて欲しかった訳ではないから」
「そ、そうですか……」
照れる私を余所に、水瀬さんは必至の弁明を続けていた。
水瀬さんは、やめて欲しかった訳ではないという言葉を強調している。そこだけは勘違いして欲しくない、ということなのだろう。
その勢いに、私は完全に気圧されていた。水瀬さんとも今まで喋ってこなかったが、こんな人だったのか。てっきりもう少し、クールな人なのだと思っていたけれど。
「……何? 私に言いたいことがありそうな顔をして?」
「うぇ? あ、その、こんなに喋るのは初めてのことだと思いまして……」
「それはそうかもね。まあ、今までは喋ろうとは思わなかったし……」
言葉を発してから、水瀬さんは考えるような仕草を見せた。
それを見ながら、私は考える。もしかして、今の言葉もまた気になったということだろうか。私が倒れかけたことで、水瀬さんは敏感になっているのかもしれない。
「喋ろうと思わなかった、というのは、別に悪い意味ではなくて……」
「水瀬さん、大丈夫、私はわかっていますから。あの、倒れかけたのは私が気にし過ぎて、しかも早とちりしただけのことですから」
「……そうじゃないと思う」
「え?」
私の言葉に、水瀬さんは強い否定の言葉を返してきた。
それも鋭い言葉ではあったが、彼女は考えるような仕草を見せない。つまりこれは本当に、強く否定しておきたいということだろうか。それはなんというか、自虐めいた意思がある気がする。
「私は、昔から口下手みたいだから」
「口下手、ですか?」
「一言多いとか、逆に少ないだとか、色々と言われてきたことがある。気を付けようとしているんだけど、今日も失敗してしまったみたいだし」
「失敗だなんて、そんな……」
「でも、私の言葉で佐藤さんは傷ついた。それは事実でしょう?」
「それは……そうかもしれませんが、でも私が気にし過ぎの早とちりし過ぎなのも、原因ですから」
水瀬さんは、確かに口下手な所があるのかもしれない。
でも私の場合は、受け取る側にも問題があるといえる。私は水瀬さんの言葉を勝手に解釈して勝手に傷つき、倒れかけたのだ。
それは偏に、私がダンスをきちんとやってこなかったことが原因だといえる。自分に自信があれば、倒れるなんてことはないはずだろう。
「私は、人に原因を求めたくはないって思ってる。今、佐藤さんは……そう、私に対して優しくしてくれているけれど、それに甘えちゃいけないと思うから」
「それを言うなら、私が水瀬さんの優しさに甘えることになっちゃいます」
「それならお互い、悪い所を直していくってことで。でも今回は本当にごめんなさい。佐藤さんを傷つけてしまったのは、謝らせて。私はひどいことを言った。それは事実だし」
水瀬さんは、私にまた顔を近づけてきた。
謝りたいという彼女の真摯な気持ちは、伝わってくる。それを受け取らないのは、良くないような気がした。
例え私が自分に非があると思っていたとしても、ここは何か手打ちということにしておいた方がいいだろう。そうしなければ、水瀬さんが引きずってしまいかねない。
「わかりました。謝罪を受け入れます。そうですね、えっと、ジュース一杯とか」
「ジュース? それはどういうこと?」
「それで手打ちということにしましょう。何か買ってくれませんか?」
「手打ち、なるほど……」
私はあえて、金銭というわかりやすい示談の形を取ることにした。
真面目な水瀬さんには、多分こうした方がいいのではないだろうか。私の数少ない対人経験からそう思ったのだが、現金過ぎるだろうか。
「……ジュース一杯というのは、軽いと思う」
「え?」
「ご飯、そう、一度奢るとか、そういう方がいいんじゃない?」
やはり私は、手段を間違えたのかもしれない。水瀬さんの返しは、あまり予想していなかった。これは彼女の財布に痛手を与えかねない。
でも今更、ジュース一杯では引き下がってくれない雰囲気だ。これ以上のものを渡される前に、同意した方がいいかもしれない。
「わ、わかりました。それなら今度、何か奢ってください」
「うん、それで手打ちだね。ああ、でも……」
「いいえ、それで手打ちです。それ以上されると、こちらの方が申し訳なくなってしまいますから」
「そう? まあ、そう言うなら……」
もう二度と、水瀬さんの前で倒れるのはやめよう。彼女が償いのドツボにはまり兼ねない。こちらの方が申し訳なるし、しっかりしなければ。
でも、案外心配はないのかもしれない。だって今の私は、水瀬さんがどういう人かもうわかっている。
彼女は優しい人で、それから真面目というか生真面目だ。これからは彼女の言葉の裏にある優しさを見つけられるような気がする。
「……そういえば、佐藤さんはどうして急にやる気を出したの?」
「え? ああ、それについてはまだ話していませんでしたね」
「うん。できれば聞かせてもらいたい、かな。私もいつ壁にぶつかるかわからないし」
「壁?」
「アイドルに憧れはあったし、今でも立派なアイドルになりたいって思ってる。でももしかしたら、いつかはそんな意思がなくなるかもしれない。そういう時のために、備えておきたくて」
「なるほど……」
水瀬さんは、本当に生真面目な人だった。彼女のモチベーションが下がる。そんなことがあるようには思えないけれど。
でも水瀬さんの不安を解消できるというなら、教えてあげたい所だ。私が何故急にレッスンに打ち込めるようになったのか、それは――
「……佐藤さん?」
「あ、ごめんなさい。その、色々と考えていたんだけど」
「うん」
「求めてくれる人がいたから、だからやる気になったんだと思う」
「それは、ファンってこと?」
「ファン……」
私の言葉に、水瀬さんは真っ直ぐに答えを返してきた。
ファン、それは確かに求めてくれる人の呼び方だ。私も自分で言っていて、一番にそれを考えた。
でも玲奈様は、私のファンなのだろうか。彼女が求めているものは、違うような気がする。
「ファンとは少し、違うかもしれないかな。でも、そうだよね。ファンの顔を思い浮かべればいいのかも」
「え? どういうこと? 佐藤さんはファンじゃない人に求められているの?」
「いや、私にファンなんていないし……」
私は水瀬さんの疑問に対して、首を横に振った。
Pentasの不動の最下位人気、それが私だ。ファンなどという存在は、私にはいない。
よく覚えているのは、最初のライブの時のことだ。あの時ステージの上で、私は光の海を見た。
でもそこには、私を応援する光なんてなかった。その時にわかったのだ。自分がいる場所が場違いだっていうことに。
「……そんなこと、ないと思うけど」
「……え?」
「ファンがいないなんて、そんなことはないって言ったの。佐藤さんのファンもいるよ、絶対に」
水瀬さんはそこで、また鋭い言葉を発していた。
彼女は、今回も迷っていないらしい。その目は真っ直ぐに、私の方を見据えている。
しかしその自信は、一体どこから来るのだろうか。私にファンがいるなんて、それはなんとも希望的な観測だ。
「ど、どうしてそう言えるの?」
「私にもファンがいるから」
「水瀬さんは……ファンがいて当たり前だよ」
「ううん。そんなことはない。だって、私は……佐藤さんと同じだよ。最初のライブのこと、覚えているでしょ?」
「それは……」
私は、水瀬さんの言葉にひどく驚いていた。私がつい先程思ったことを、彼女が言った。そこには大きな意味がある。
そうだ。そういえばあの時、あの光の中に、水瀬さんの光はあっただろうか。少なくとも、私の記憶にそれは残っていない。
「あの時私は、自分にファンなんていないって思った。多分、今の佐藤さんと同じように。でも後から知ったことだけれど、あの時からファンだったって言ってくれる人はいたの。ファンレターが届いて、それを初めて知って……」
「あの時から……」
「きっと、佐藤さんにだって、そういう人はいるんだと思う。まだあなたに、声は届いていないけれど……」
水瀬さんの言葉に、私は下を向く。彼女の主張、それは理解できる。知らないだけでファンがいると、考えることはできるのかもしれない。
でも私は、すぐに納得することはできなかった。言葉が届いていない以上、それが幻想であるという考えは消えてくれない。水瀬さんはファンレターが来たから、そう思えるだけだ。
「信じられない? それなら言ってあげる」
「み、水瀬さん?」
水瀬さんは肩に手を置き、少し強引に背筋を伸ばさせた。
彼女の端正な顔が、また目の前にある。その顔はとても真剣で、私は少し驚いた。しかし、その意図がわからない。
「無駄なんて言ってしまったけれど、それでも今日努力する佐藤さんは、素敵だったと思う」
「す、素敵?」
「だから言いたくなった。無理しないでって、だって私はこれからも、佐藤さんにアイドルを続けて欲しいから。何が言いたいかわからない? 私は佐藤さんを持って見ていたいってこと」
「水瀬さん、それって……」
「うん。私はもう、佐藤さんのファンだってこと」
いつもクールな水瀬さんは、そこで笑みを浮かべた。
その笑顔は、子供のように純粋なもので、彼女が言ったことが気遣いで出た嘘ではないことが伝わってきた。
でも私は、ファンができたことに喜んでいる場合ではなかった。だって目の前でそんな顔をされてしまったら――
「佐藤さん? どうかしたの?」
「え? あ、その……」
「私、ちょっと熱くなり過ぎた、かな? 引いてる?」
「ううん。そういう訳ではないけど……」
水瀬さんの言葉に辛うじて答えながら、私は脳裏に焼き付いた笑顔を思い出す。
あんな顔を見せられて、ファンにならないなんて無理な話だ。元々水瀬さんには憧れもあったけれど、それは今日この時、推しという言葉に変わった。
そうやって改めて水瀬さんの方を見ると、彼女のことがとても可愛く見えた。水瀬さんは元々可愛かったけれど。自分の中で何かが変わったというか。
いや、水瀬さんはどちらかといえば綺麗というべきかもしれない。とにかく顔が良い。玲奈様もそうだが、アイドルってすごいものである。
「私も水瀬さんのファンになっちゃった……」
「え? ファン?」
「うん。だって水瀬さん、すごく優しいんだもん」
そして何よりも、水瀬さんは優しい人であった。
彼女の言葉で、私の心は随分と軽くなった。ファンになったということが、嘘か誠かはわからない。でもそう言ってくれたことが、私にとってはとても嬉しいことだった。
だから今は、水瀬さんの言葉を信じられる。私にもファンがいるのだと、そう思うとなんだかやる気と勇気が湧いてきた。
「べ、別に佐藤さんを励ますために、言った訳ではないから」
「えっと、それは……」
「本当にファンになったからああいっただけで……」
「ああ、なるほど……」
水瀬さんの言葉選びの下手さというものも、なんだか可愛らしく思えてきた。
いつかは彼女のその言葉に裏にある優しさや気遣いを、気付けるようになりたい。私はそう思った。
「さてと……水瀬さん、そろそろレッスンの時間だよね? 私もなんだかやる気が出てきたし、もうちょっと頑張ろうかな?」
「……いや、佐藤さんはもう帰って休んだ方がいいと思う」
「え?」
「無理してレッスンしても無駄だって、言ったでしょ? 何より倒れかけたんだから。これ以上レッスンするなんて、私が許さない」
私が意気込んでいると、水瀬さんが真剣な顔でそう言ってきた。
その語気は強いが、それは私を心配しているからだろう。それは私にとっては、ありがたいことだった。
水瀬さんの言葉はもっともである。まだ動けそうではあるが、倒れかけた以上無理をするべきではないのだろう。水瀬さんに、これ以上心配をかける訳にもいかない。
「わかった。それなら今日はもう帰ろうかな……」
「うん。そうした方がいいと思う。あ、タクシー呼ぼうか? さっきの話じゃないけど、私がお金を出すから」
「だ、大丈夫、迎えを頼むから」
水瀬さんはなんというか、どこまでも律儀な人であった。
私はゆっくりと立ち上がり、自分の荷物を取りまとめる。とりあえずレッスン室からは出て行こう。そうしなければ、水瀬さんの心配が収まらない。
「……えっと、水瀬さん、またね?」
「うん、また……気を付けて帰って、ね?」
「うん、そうする。水瀬さんも、頑張ってね?」
私はそう言って、レッスン室から出て行った。
とりあえず着替えて、家に帰るとしよう。この高揚する気持ちはもったいないけれど、今は我慢だ。
体を休めて、元気になったら、また頑張るとしよう。玲奈様のためにも、ファンのためにも、立派なアイドルになりたいから。




