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裏アカで同僚のアイドルの推し活していたことがばれました  作者: 木山楽斗


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第2話 アイドルに前向きになりました

「……佐藤、今の動きは良かったぞ?」

「あ、ありがとうございます、先生。その、次は……」

「ふむ、少し休憩だ。大分疲れているみたいだしな。まあ、今ので感覚は掴めたろう? とりあえず今は休んでおけ。ああ、私は少し席を外させてもらう」

「あ、はい。わかりました……」


 玲奈様との話を終えた後日、私はダンスレッスンを受けていた。

 全身が汗でびしょびしょだ。だけど今日、私は初めて先生に褒めてもらえた。

 何故だかわからないが、体が以前よりも軽い。不思議な感覚だ。あの日玲奈様と話してから、私の中で何かが変わったということだろうか。


「……紬ちゃん、お疲れ様」

「わっ!」


 自らの変化を噛み締めて、少し格好つけていた私は、背後から聞こえてきた声に驚いた。

 私はゆっくりと、後ろを向く。するとそこには、卯月(うづき)陽依(ひより)さんがいた。

 彼女はPentasのメンバーの一人だ。皆の優しいお姉さん、それが陽依さんである。


「陽依さん、こ、こんにちは」

「うん、こんにちは、紬ちゃん。今日は一緒にレッスンみたいだね?」

「あ、はい。そうみたいですね。あはは……」


 Pentasのメンバーは、それぞれ別の学校に通っている。社長の方針により、基本的には学校優先であるため、一緒にレッスンするかは場合による。どうやら今日は、私と陽依さんとの予定が合致していたらしい。

 それは果たして、喜んでいいことなのだろうか。模範的コミュ障である私にとって、他者の存在は良いものという訳でもない。


「とりあえず座ろうか。紬ちゃんはもうレッスンを受けたみたいだし、疲れているよね? あ、隣に座ってもいい?」

「あ、はい。どうぞ……」


 陽依さんに促されて、私は椅子に座る。確かに疲れが溜まっているようだ。座ったことでそれがよくわかった。

 しかし心配だ。陽依さんとちゃんと話せるだろうか。私の貧弱な会話デッキでは、彼女を楽しませるなんてことは、無理かもしれない。


 とはいえ、相手はあの陽依さんだ。優しいなんて言葉では足りないくらいには優しい彼女となら、今の私も話せる可能性があるかも。

 そう思っていた私は、聞こえてきた音に少し驚くことになった。それは陽依さんが、等間隔に置かれていたはずの椅子をこちらに寄せた音である。


「紬ちゃん?」

「……あ、すみません」


 その音を聞いて、私は反射的に自分が座っていた椅子を体ごとずらした。端的に言ってしまえば、距離を詰めようとしてきた陽依さんから逃げたのだ。

 それは大変に失礼なことだろう。ただ別にこれは、理由なく逃げたという訳ではない。私は今、汗びっしょりなのだ。


「で、でも、ほら、私は今汗びっしょりで……その、臭いとか気になるので近づかれると、まずいと言いますか」

「ああ、そっか。気付かなくてごめんね」

「いえ、謝っていただくようなことではないですけれど……」

「そうだ。背中を拭いてあげようか? 自分じゃ拭きにくいでしょう?」

「背中……」


 陽依さんの言葉に、私は思い出す。そういえば、背中にも汗はたっぷりと滲んでいる。

 それはもちろん、自分では拭きにくい。まさか陽依さんは、初めからそのつもりで椅子を?

 そう思って陽依さんの顔を見てみると、柔和な笑みを浮かべていた。その笑顔は可愛すぎる。これをこの距離で見ているのに、ただなんて本当なのだろうか。


「ひ、陽依さんに背中を拭いていただくなんて、そんなご迷惑をかける訳には……」

「そんなに重苦しいことではないと思うけどな~。それにこれは、私のわがままみたいなものだし」

「わ、わがまま?」

「一応これでも、先輩ですから。後輩の面倒を見てあげたいって思っちゃうんだ。先輩ぶりたいって、言えばいいのかな?」


 陽依さんは語りまで優しすぎる。ぽかぽかするその喋りには、どんな悪人だって毒気が抜けるだろう。

 そして全人類が、彼女の妹ないしは弟になる。だって私ももう、頼んでもいいかなとか、思っちゃっている訳だし。


「お願いいたします」

「ふふ、僭越ながら務めさせていただきます。それじゃあ、背中を向けて?」

「は、はい……」


 私は椅子を横に座って背中を向けた。すると服の中に、手が入ってくる。

 陽依さんに、背中の汗を拭いてもらっている。その事実に、私の体は一瞬静止した。しかしこれではいけない。私も前の汗を拭かなければならないのだから。


「紬ちゃん、痛くはないかな?」

「あ、はい。大丈夫です……あの、もういいかもしれません」

「ううん。風邪を引いたらいけないから、しっかりと拭いておかないと……というか、一回着替えた方がいいかもね?」

「えっと、この後もレッスンを受ける予定ですから……」


 私は自分が思っていた以上に、汗をかいていたのかもしれない。陽依さんがいくら拭いても、汗が拭い切れないらしい。

 いや、これは違うか。単に私がこの状況に、さらに汗を流しているだけのような気がする。それはきりもなくなるか。なんて呑気に考えている場合ではない。


「レッスン、頑張ったんだね。紬ちゃん、褒められていたみたいだし……」

「え? き、聞いていたんですか?」

「うん。最後の方はちょっと見ていたよ。ダンスの切れ、すごかったと思う。私も動ける方ではないから、評価できる側じゃないけど」

「いえ、陽依さんに褒めていただけるなんて恐縮です」


 陽依さんからの賞賛の言葉に、私の心は踊った。

 ああ、気分がいい。人に褒められるとは、こんなにもいいものなのか。

 いやこの場合は、相手が陽依さんだからか。誰に褒められても嬉しいけれど、彼女のような人に褒められたら、自己肯定感が上がりまくる。


「えー、紬ちゃんが褒めて欲しいなら、私いくらでも褒めてあげるよー」

「え? いくらでも? ただで、ですか?」

「え? あ、うん。私が褒めるのにお金なんて発生しないよー」


 陽依さんの賞賛がただ? そんな馬鹿なことがあってたまるか。アイドルなのに。

 でもただなら、褒めてもらおうかな。しかし何を褒めてもらえばいいのか、私は褒められるようなことはしていない。


「……人に褒められるようなことを、これからいっぱいしたいと思います」

「紬ちゃん? 急にどうしたの?」

「ああいえ、こちらの話です」


 帰りにごみ拾いでもしてみようかな。あれって勝手にやってもいいものなんだっけ? まあ拾う分にはいいのかな。

 でも陽依さんに褒めてもらえるなら、いいことをしようと思える。これは大きな発見だ。この事実を広めていけば、世界平和も実現するかもしれない。


「……紬ちゃん、今日はいっぱい喋ってくれるね?」

「ほえ?」


 そこで私に、とても鋭い言葉が投げかけられた。

 やっと収まってきていたはずの汗が、再び噴き出してくる。

 今日はいっぱい喋ってくれるね? そうだ、そうだった。私はこれまで、こんなにも陽依さんと言葉を交わしたことがあったけ?


「……あ、あの、すみませんでした」

「え? あ、謝ることではないよ。私、すごく嬉しいし」

「いえ、調子に乗っていました……」


 玲奈様と話して、少しばかり仲良くなれたから、私は調子に乗っていたのかもしれない。

 まるで陽依さんとも友達みたいに、同じグループの仲間みたいに話して、何をやっているのだろうか。一気に現実に引き戻されて、萎えてきた。


「こ、ここ最近と色々とあって、何か勘違いしていたというか……」

「勘違い? 私を誰かと間違えていたって、ことかな?」

「いえ、陽依さんはこの世にただ一人しかいない、とても良い人です」

「え? あ、ありがとう……じゃなくて、どういうこと?」


 陽依さんは、私の言葉に対して疑問を抱いているようだった。

 優しい彼女からしてみれば、私に話しかけるのも当然のことなのかもしれない。でも、それは違うのだ。世界の理とは、そんなに簡単なものではない。


「私、まるで陽依さんと友達みたいに、話してしまって……」

「うん……うん? えっと、紬ちゃんは私のことを友達だと思ってくれていないの?」

「え? あ、いや、それは……」


 訳を話そうとしていた私は、振り返って陽依さんの顔を見た。

 すると、とても悲しそうな顔をする彼女の顔が目の中に入ってきた。陽依さんは目に入れても痛くない人だけれど、この表情は流石に激痛だ。

 私は自分の浅はかさというものを思い知る。陽依さんに友達じゃないなんて言ったら悲しませるということは、考えるまでもなくわかることだっただろうに。


「あの、私は後輩じゃないですか? だから、馴れ馴れしくし過ぎたというか……」

「え? ああ……そ、そんなの気にしなくていいよ。私達は同じグループの仲間でしょ? 先輩後輩なんて気にせず、気軽に接して欲しいな」

「でも、さっき陽依さんは先輩ぶりたいって……」

「あ、あれは言葉の綾だよ。私はただ、紬ちゃんと仲良くしたいなって、思っているだけ」


 私が咄嗟に放った言い訳を、陽依さんは受け入れてくれたらしい。

 しかし実際の所、先輩後輩関係は気にするべきことではあるだろう。陽依さんの芸歴は長い。彼女は、子役だった期間があるのだ。


「でも、陽依さんは大先輩というか……」

「あ、それはあんまり言わないで欲しいかも……そうやってからかわれること、偶にあるんだけどね? どうしていいかわからなくなるか」

「あ、そうでしたか……失礼しました……」

「そ、そんなに怒っている訳ではないよ? あんまり気にしないでね?」


 陽依さんにとって、それは突いていけないことだったらしい。私はまた後悔する。なんで余計なことを言ってしまうのだろうか。

 とはいえ、引きずってしまっては陽依さんを心配させる。気持ちを切り替えなければ。


「えっと、それで紬ちゃんには何があったのかな?」

「あ、その、ですね……まあ、玲奈様と色々とありまして」

「玲奈様?」

「あっ……」


 陽依さんからの質問に、私はとりあえず大まかに答えて誤魔化そうと考えた。

 しかし口走ってしまった。その呼び方を。玲奈様、そのように呼ぶのがどういった存在かは、陽依さんも知っているかもしれない。

 仮に知っていなかったとしても、普通ではないと思うだろう。つまり私は例によって、迂闊な発言をしたということである。


「玲奈様って、玲奈ちゃんのファンがよく言う呼び方だよね? 紬ちゃん、玲奈ちゃんのファンだったの?」

「あ、えっと、そうですね……まあ、ファンかもしれません」

「うん? 別に隠すようなことではないと思うよ。私も玲奈ちゃんはすごいなって思って、尊敬しているし……あれ? そういえばこの前のライブ……」

「あっ……」


 陽依さんは鋭いので、点と点を線で繋げてしまった。

 私が玲奈様のファンである。にも関わらず、彼女の単独ライブに来ていなかった。関係者席で他の三人は見ていたというのに。


「紬ちゃん、この前のライブは来ていなかったよね? ファンなのに……」

「いえ、これには深い訳があってですね……」

「用事があったの? 残念だったね」

「え? あ、はい、そうですね……」


 また玲奈様の時のように、私の不可解な行動が咎められる。そう思っていた私は、陽依さんの反応に驚く。

 でもよく考えてみれば、それは当然の反応であった。玲奈様と違って、陽依さんは私が会場にいたことを知らない。来ていなかったと思うのは当たり前だ。


「いつから玲奈ちゃんのファンなの?」

「え? それはデビュー当時から、ですかね」

「玲奈ちゃんのデビューって言ったら、今から三年前だよね?」

「はい、そうなんです。初めて見た時から、すごいなって思っていて……ステージの上で堂々と歌う玲奈様は、かっこよかったなぁ」


 玲奈様は、デビューした当時からすごい人であった。歌もダンスも上手くて、堂々としたその振る舞いは、誰をも魅了していた。

 かくゆう私も、魅了された一人である。デビュー当時からずっと玲奈様を追いかけてきて、今に至った訳だ。


「そっか。紬ちゃんは、玲奈ちゃんのことが大好きなんだね?」

「え? あ、その、か、語り過ぎちゃいましたね……」

「いいよいいよ、もっと聞かせて。ああ、Pentasに入ったのも、それがきっかけ?」

「そうですね……はい、玲奈様に憧れて、オーディションを受けたんです。受かるなんて、思っていませんでしたけれど」


 陽依さんの質問に答えながら、私は当時のことを思い出す。

 玲奈様を中心としたグループを作る。その企画が打ち出された時は、本当に驚いたものだ。


 広く募集されていたこともあって、私は軽い気持ちで応募してしまった。当時の私は、玲奈様に恐れ多くも自分を重ねて、彼女のようになりたいと思っていたのだ。

 そして何故か私は、書類審査を通り面接も通って、結果としてメンバーの一人に選ばれた。今考えても、それはまったく持って意味がわからないものだ。


「……どうして私なんかが、受かったんだろう?」

「え?」

「あ、いえ、その……」


 私は思わず、素直に疑問を口にしてしまっていた。

 それを聞いて、陽依さんは驚いているようだ。当たり前である。そんなことを聞かれたって、陽依さんにわかる訳もない。

 背中を拭く手も止めているので、相当驚いているようだ。いやそもそも、そろそろ流石に汗も引いてきているのだが。


「……紬ちゃん、紬ちゃんがどうして選ばれたのかは、私にはわからないかな?」

「そ、そうですよね? あの、気にしないでください。ただの独り言ですから」

「そうかな? 紬ちゃんは、自分が選ばれたことに悩んでいるんだと思う。わからないよね、その気持ちは私にもわかるよ」

「……え?」


 陽依さんの優しい口調が、少しだけ変わっていた。

 言葉に刺があることが、すぐにわかった。普段は本当に優しい口調だからこそ、如実にそれが現れたのだろう。

 でもその刺すらも、私に向けられたものではないような気がする。そう、それは言うならば自虐的な刺であった。


「でもね、選ばれたことにはきっと、意味があるんだよ。気の迷いとか、そういうことじゃなくて、紬ちゃんには紬ちゃんも知らないような魅力があるって、ことだと思う」

「み、魅力、そんな私には……」

「ないって思う? でもそれなら、紬ちゃんは、オーディションに受からなかった子達の前でも、同じことが言えるのかな?」

「それは……」


 陽依さんは、元の優しい口調に戻っていた。だけど、諭すような、まるで小さな子供に言い聞かせるように呟いたその言葉に、私は血の気が引いていた。

 だってそれは、あまりにも核心めいた言葉で、私の自虐的な意思だとか、そういったものを完膚なきまでに打ちのめすようなことだったから。


 確かにそうだ。私が選ばれたことによって、Pentasに入ることができなかった人達は何人もいる。

 その人達に魅力がない訳がない。私なんかよりも輝いている子達が、いくらでもいただろう。

 だからこそ選ばれたのは間違いだと、思うことはできる。でも、それは選ばれなかった人達への侮辱に他ならないのではないだろうか。


「あ、ごめんね。なんだか説教みたいになっちゃったかな?」

「い、いえ、そんなことは……」

「紬ちゃんを傷つけたい訳じゃないんだ。でも、理解してもらいたいことがあって……紬ちゃんは、とっても可愛い女の子だよ?」

「か、可愛い? ど、どうしてそうなるんですか?」

「それは自分じゃそう思っていなかったって、ことだよね? ほら、そういうことが実はたくさんあるのかもしれないよ?」


 陽依さんは、ゆっくりと私の服の中から手を抜く。背中を拭くのは、これでおしまいということなのだろう。

 でも私は、陽依さんの方を向けなかった。今は顔が真っ赤になっているだろうから、とても顔向けできる状態ではない。

 可愛いなんて、面と向かってそう言われたことなどはない。こういう時にどう返せばいいのか、私にはわからなかった。


「か、可愛いだなんて、そんな……わ、私なんかよりも陽依さんの方が可愛いですよ?」

「え? あ、あー、ありがとう、紬ちゃん」

「いや、本当に陽依さんは可愛いです。『天子の声色』の頃から……」

「……え?」


 居たたまれない気持ちを誤魔化すつもりで返した私の言葉に、陽依さんは声を出した。

 本当に驚いているような声色で、私の言ったことが余程予想外のことだったらしい。

 しかしながら、私は別に変なことを言った訳ではない。『天子の声色』、それが陽依さんが初めて出た映画なのだから。


「陽依さん、私は何か失礼なことを言ってしまったでしょうか?」

「え? あ、違うよ? その、『天子の声色』のことを言われると思っていなかったから」

「陽依さんの初出演作ですよね?」

「そうだけど、『ひだまりの食卓』の方が有名だから」

「ああ、あれも良かったですよね」


 陽依さんが世間を賑わせた作品といえば、確かに『ひだまりの食卓』だろう。

 でもあれは明るすぎる作品で、私の趣向には正直そこまで合っていない。先に見たのも『天子の声色』だったし、私にはそちらの印象の方が濃い。


「『天子の声色』は知る人ぞ知る作品だから、それを紬ちゃんに言われるなんて思っていなかったな」

「そ、そうですか……」

「うん、今のファンの中でも知らない人はいるし……紬ちゃんがそこまで見てくれていたなんて、嬉しいな。結構昔の作品だし」


 陽依さんの声が、少し弾んでいた。私の世間一般とはずれている趣向が、良い方向に働いたということだろうか。

 しかしなんだか、勘違いさせてしまっているかもしれない。私は陽依さんのファンではあるが、古参とかコアなファンだとか、そういうものではないし。


「えっと、私は陽依さんのファンです。けど知ったのは最近で、中学の頃に見たんです。当時は『ひだまりの食卓』すら見てなくて……『天子の声色』を見て、それで有名な作品ということで『ひだまりの食卓』を見てですね」

「え? それってもしかして、私が目当てで見てくれたってこと?」

「そうですね……はい、そうです」


 名作として知られている『ひだまりの食卓』だったが、私は普通なら別に見ることもなかっただろう。別に面白い作品だったけれど。


「なんだか嬉しいな。うん、紬ちゃんが私のことをそんな風に思ってくれていたなんて、知らなかったなー」

「そ、そうですね。今まで話したことはありませんでしたから……」

「えっと、ファンサービスとか、した方がいいのかな?」

「いえ、そんな悪いですよ……こうして背中を拭いてもらっただけで、充分ですから」


 私がファンだったことが、陽依さんにとって喜ばしいことであったなら良かった。

 ただだからといって、ファンサービスまでしてもらうなんて、それは気が引ける。そもそも陽依さんに背中を拭いてもらった時点で、私としては感無量だ。

 いや我ながら本当に、とんでもないことをしてもらったものである。考えるとまた汗が出てきそうだ。陽依さんに、背中を拭いてもらうなんて……


「そっか。そうだよね。私がファンサービスしたいからって、それを押し付けるのは良くないか」

「……え? ファンサービスしたいんですか?」

「うん。だって、子役をやっている時は、そういうことはあまりしてこなかったから。Pentasになってからも、まだそこまでファンサービスする所はないでしょ?」

「まあ、それは確かに……」


 Pentasは現在の所、ライブ活動などを中心として行っている。そこもファンとの交流の場ではあるが、逆に言えばそのくらいだ。握手会とか、そういった催しはまだない。

 そうだ、握手会とかあるかもしれないのだ。それは私としては、大きな問題といえる。いざそのような場になった時に、耐えられるものだろうか。

 そもそも私にファンなんていないということは置いておいて、これからアイドルをやっていくなら学んでおく必要がある。それなら陽依さんと練習するのも、悪くないのかもしれない。


「陽依さん、ファンサービスってどういうものをするつもりなんですか? 参考までに教えてもらえると嬉しいんですけど、具体的には?」

「え? あ、そうだね。言わてみれば、何も考えてなかったなぁ……えっと、紬ちゃんは何をして欲しいのかな?」

「私がして欲しいこと、ですか。なるほど……」


 陽依さんから質問を投げかけられて、私は考えることになった。

 言われてみて気付いたことだが、私は玲奈様や陽依さんのファンであった。その私がして欲しいこと、それはつまりファンがして欲しいこと、ということになるのかもしれない。

 しかし考えてみると、案外困ってしまった。思えば私は、玲奈様の握手会などにも恥ずかしくて参加したことがないし、あまり想像ができなかった。


「と、とりあえず握手とか……」

「握手? それくらいなら、いくらでもしてあげるよ?」

「い、いくらでも? それは流石にファンサービスが旺盛過ぎるような……」

「だって私と紬ちゃんの仲だもん」


 私が後ろを振り返ってみると、陽依さんが笑顔を浮かべていた。その笑顔はなんというか、眩しすぎる。

 前々から思っていたことではあるが、陽依さんは光の人だ。人との距離をいとも簡単に詰めてくる。私には到底無理な芸当だ。やはり天才子役と言われるような人は、持っているものから違うのだろうか。


 ともあれ、せっかく握手してもらえるのだし、してもらっておいた方がいいのかもしれない。

 私は陽依さんの方を向く。すると彼女は察してくれたのか、手を差し出してくれる。私はタオルで手の汗をしっかり拭ってから、陽依さんの手を握る。


「えっと、会えて嬉しいです、陽依さん」

「改めてそう言われると、なんだか変な感じかも。でも、私も嬉しいよ、紬ちゃん。ファンと会えたことが、紬ちゃんと会えたことが……」


 陽依さんの手は、温かくて柔らかかった。彼女はその手で、私の手をしっかりと握ってくれる。

 言っていることも相まって、なんだか感動してしまう。いや、ここは普通に感動してもいい時か。何と言っても、私は今、あの陽依さんと握手しているのだから。


 それにしても、陽依さんは本当に良い笑顔である。ひだまりのような眩しいその笑顔には、私も思わず気持ちの悪い笑みを浮かべてしまいそうだ。

 こんな笑顔で会えて嬉しいなんて言われて、舞い上がらないファンはまずいないだろう。陽依さんのファンサービスは強烈だ。


「これからも紬ちゃんが、仲良くしてくれると嬉しいな」

「え? あ、はい。それはもちろんです」

「ふふ、ありがとう、紬ちゃん……あ、今のはファンサービスではないかな? 個人的なことを言っちゃったね」

「いえ、それは大丈夫です。と、とても嬉しかったですから」


 陽依さんに仲良くしてもらえるなんて、そんなのは光栄の極みである。私はほぼ反射的に、彼女の言葉に頷いていた。

 ただそれから気付いた。私などと仲良くすることは、陽依さんにとって何も有益にならないのではないかと。

 私となんて話していても楽しくはないだろうし、一体どうすれば良いのだろうか。もう少し会話術など勉強しておくべきかもしれない。


「紬ちゃん、少し表情が硬くなったね? 私と仲良くするのが嫌、かな?」

「え?」

「嫌だったら、無理をしなくてもいいからね? 一人が好きとかなら……」


 私の懸念が態度に出ていたようで、陽依さんが心配そうな声でそう言ってきた。

 それに私は、少し焦る。そんなつもりはないというのに、陽依さんとの距離が一気に遠のいてしまいそうだ。

 楽しいとか楽しくないとか、そういうことを考えるのはやめにしよう。だって、陽依さんに仲良くしてもらいたいし。会話術などに関しては、追々身に付けていくしかない。


「あ、いや、そういう訳ではなくて、ですね? 何を話していいかなと思いまして……陽依さんと私とでは、趣味や趣向なども違うと思いますし」

「えっと、そうなのかな? そうでもないかもしれないけど……うーん、それじゃあ、まずはその辺りから話して欲しいな。紬ちゃんのことをもっと知りたいから」

「そ、そうですね。それなら……あっ」

「紬ちゃん? ああ、もうレッスンの時間みたいだね」


 陽依さんとの関係を前向きに考えた私は、彼女に自分のことを話そうとした。

 しかしそれを私は、途中で止めることになった。レッスン室の中に、トレーナーが入ってきたからだ。それはレッスンの再開を意味している。残念ながら、これ以上の話はなしだ。


「……紬ちゃんのことは、また今度聞かせてもらうね?」

「あ、はい。そうですね……」

「できれば、もう少し落ち着いてゆっくりと話せるといいな。いつかお茶しよ?」

「は、はい。いつか……」


 陽依さんの言葉に、私はゆっくりと頷いた。

 陽依さんとのお茶、それはなんとも魅力的な催しだった。それだけでこの後のレッスンも、頑張れそうなくらいに。


 でももしかして、今のは社交辞令という奴だろうか。流れ的には、そう思えなくもない。

 いや、陽依さんならきっと本気だ。私と仲良くしたいと思っていることだって、嘘じゃない。

 そうでなかったら悲しいので、私はそう思うことにした。それは間違っていないと思う。だって陽依さんは、陽依さんなのだから。

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