58.食後のひととき
魔術師ブロードは困難を抱えていた。食器洗いである。魔術ならなんでもできるブロードにとって、家事炊事はとても難しいことだった。
洗剤でぬれたお椀が手からすべり落ち、フローリングの床をバウンドした。お椀は食器棚の正面にぶつかって勢いを失い、動きを止めた。丸くなって寝ていたギリアンは驚いて、俊敏な動きでその場をはなれた。
「ごめん、ミリア。これで三度目だ」
「いいのよ。あのお椀は割れないヤツだから。メラミン製なの」
「そうか。だが、何度も同じ過ちを犯すのは良くないことだ」
ブロードはお椀を拾い上げた。洗剤にまとわりつく形で誇りやギリアンの体毛などのゴミがついていた。心挫ける光景だ。
ブロードは、魔術で失敗したことがゼロとはいえない。だが二回目には必ず挽回していた。体術はそれより努力を要したがそれでも魔術で己を強化しているので大きく失敗したことがない。
それにひきかえ、炊事・洗濯・料理といった家事がこんなに困難なものだとは思いもしなかった。
「ブロードくんにも苦手なものがあるんだね」
ミリアはイタズラっぽく笑った。
「子どもの頃から、身の回りの世話は女中や使用人がやっていた。自分でやったことはこれまでなかった」
「そうだよね。ブロードくん、洗剤の使い方もスポンジの使い方も分からなかったもんね」
それは理由が少し違うのだが、あえて訂正はしなかった。
ブロードは、再びミリアの脇に立って、ミリアが洗剤でみがいた食器を、ステンレスの水桶で洗う。水がはねて、ブロードのエプロンを流れて、ジーンズに注ぐ。片付けが終わったら着替えたほうがよさそうだ。
「ブロードくん、洗う時勢いが良すぎだよ。そっとふれて。例えばそう、ギリアンの背中をなでるときのような強さかな」
「うん」
そう言うそばから、強く食器の水を飛ばしてしまった。
「きゃあっ」
ミリアの顔に水滴が飛んだ。
ブロードは気まずかったが、ミリアは笑いが堪えきれないといった様子だった。
「あんまり笑わないでほしい」
ブロードは言った。恥ずかしさでほおのあたりが熱い。
「ごめんごめん。でもうれしくてさあ。ブロードくんが手伝ってくれることが」
この家で暮らしてきて不思議に思うことが一つあった。ミリアがこの家の雑事を全て受け持っていることだ。叔父の留守を預かっているとはいえ、ミリアはこの家の主人だ。それなのに女中も使用人もいない。
誰か雇わないのか、と聞いたら、そんなの雇ってる余裕なんかないよと笑った。それに家のことだもん、家の人でやらなきゃ――ミリアはそう言った。
凍結世界のほとんど多くのものが、自ら家事をこなす。専用の料理人がいたほうがおいしい食事が食べられるし、専用の家政婦がいたほうが快適な生活が送れるのではないかと思ったが、問題は金銭なのだ。人件費なのだ。かくして、家事労働はそれぞれ自前でやることになる。
凍結世界人の流儀に従うことを信条とするブロードは、自らも家事を手伝うことにした。毎晩・毎朝ミリアと共に台所に立つ。ちなみに昼は面倒なのもあり、カップ焼きそばだったり宅配のもので済ませている。
そう言えば、ブロードの知り合いの貴族たちもそんなことはしていなかった。例えばバーリントンの家もだ。ロスアルドのところは名うての料理人を召し抱えていた。思えば学校も、亜人や妖精を雇って雑事をさせていた。唯一の例外は、平民出のジリアードで、彼は炊事洗濯なんでも一人でやった――案外この世界向きかもしれない。
食器洗いが終わって、ダイニングのテーブルを拭き終わった後、煎餅を食べてお茶を呑んだ。毎日の雑事が終わるといつも九時を過ぎた。
「すまない、ミリア。僕がもう少し効率的にやれていれば。君の足を引っ張っている気がする」
「いいのよ。私も好きでやっているんだから」
ミリアの笑顔は優しかった。温めたミルクの色のように。野原に咲くティモシーの匂いのように。
「ブロードくんが手伝ってくれるから、毎日の家事がちっとも苦じゃなくなったの。総司とか『女の仕事だ』って絶対に手伝ってくれないじゃない。だからこういうのはいいなあって」
ミリアが喜んでくれるので、やってよかったとブロードは思った。
それにしても、総司はたしかにやらなそうだ。とはいえ、自分の世話は自分で焼いているところが総司にあって、そこには一定の敬意を払っていた。
ふと重吾の笑顔が脳裏をよぎった。この前聞いたことをミリアに伝えるべきだろうか? 実の弟が危険な集団に狙われていると知ったら、ミリアはとても心配するだろう。この後すると言っていた勉強も手につかなくなるかも知れない。それでも、家族なら知っておくべきではないだろうか。
「あの、ミリア」
「どうしたの?」
沈黙。ブロードが黙っているとミリアは小首を傾げた。
「ブロードくん?」
「君に言っておくべきことがあるのだが」
その時ブロードのスマホが鳴った。
総司が面倒に巻き込まれている件をミリアに伝えようとするブロード。そのときブロードのスマートフォンが鳴った。




