32.猫のギリアン
小箱のなかに入っていたのは、丸く上げられたパンだった。ブロードは猫に「ギリアン」という名前を名付けることにする。
背中を丸め、猫は小箱に視線を注いでいた。そのしっぽは、尻の後ろで踊りを踊るようにくねっていた。
箱を手に取った。ずいぶんと軽く、空箱のように思ったが、耳元に近づけるとカサカサとかすかに音がした。中を開けると甘い匂いとともに揚げたパンが現れた。大きさは子供の手のひらほどで、輪っか状になっているのだが、それでもパンだ。
「くれるのか?」
猫にたずねる。猫はにゃあと鳴いた。肯定しているようだった。
「これから死にに行くだけの弱者に施しとは、お前はギリアンのようなやつだな。そういえば見た目も少し似ているかもな。メガネをかければ完璧にギリアンだ」
誰かの食べ残しだと思われる。それでも、プライドはどこへやら、このえもいわれぬ香りをひとたびかいでは我慢せずにはいられなかった。箱の中のパンを取り出し、二つに分ける。一つは自分に。もう一つはギリアンに。
「うまい!」
思わずうなった。過剰なまでの甘さ。過剰なまでの油っぽさ。下賎な料理だと思っていたが、これが空腹に効くのである。ここまで美味たるパンがこの世にあるのだとは。
なにものも、食べてみるまでは分からないものだ。ギリアンの主張していたクズ肉の寄せ集めも食べてから評価を下すべきだ。それなのにブロードは彼と彼の好きなものを罵倒してしまった。
「ギリアン、告白させてくれ。僕は傲慢な人間だ」
ギリアンはというと、必死にパンにかじり付いている。
「魔術師としての己の力量におぼれ、まわりの者の意見に耳をかたむけなかった。自分しか見ていなかった。だからミリアの本当の思いにも気づかなかったのだ。異世界で死にゆくにあたって、ようやく知ることになるとはな。間抜けにすぎる。笑えてくるだろう、はは」
ブロードの言葉の意味を知ってか知らずか、猫はにゃあと鳴いた。
灰色の町に夜の兆しが現れた。西の空が薔薇色に染まりはじめる。この夕暮れの景色は世界が変わっても、変わらずに美しい。
強い眠気が襲ってきた。今日は疲れすぎた。マントのフードをまぶかにかぶり、草むらに横たわる。
生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。右の腋の下に何者かが体重をかけてきた。血の通った温もり。薄目を開けて見てみれば、そこにいたのは案の定ギリアンだった。ギリアンの背中をひと撫でする。毛並みが柔らかくて心地よかった。
意識が深く沈んでいく。
――生きよう。誰でもいい。指輪を売ろう。金にしてくれる平民がいるだろう。ちょっとした金になるはずだ。
その晩、夜中に一度起こされた。けたたましい轟音に揺り起こされたのだ。
ブゥーン! 轟音は一回や二回ではなかった。化け物のほえ声か? 人の肉を食らおうと真夜中を徘徊する凶悪な生き物か?
何の役にも立たないとも思いつつ、懐から銀の杖を取り出し、音のする方へとそっと歩みを進めた。途中枯れ枝を踏んでしまい、パキリと音がなった。敵にバレないかとヒヤヒヤした。
草むらのかげから、向こうの風景をみやった。すると、灰色の道の上で数人の凍結世界人(あるいは亜人)がガヤガヤと声を上げていた。
「なんだこれは?」
そこに姿を現した奇怪なものたちの姿に、ブロードは目を剥いた。
ブロードの眠りを妨げた奇怪な者たちの姿とは……?




