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拒絶の盾と腐朽の星

空は黒い霧に塗り潰され、大地は静かにその生命を吸い上げられていく。

南門では、魔法なき王国の「陰湿なる暴力」――轟く重火砲と肺を焼く毒油が、鋼鉄の騎士たちを襲っていた。


だが、絶望の淵に現れたのは、叡智という名の最強の盾。

物理的な衝撃すら拒絶する電磁の雷光が、戦場に新たな希望を刻み込む。


しかし、人間同士の血で血を洗う死闘の裏側で、都市アンヘイムは内側から腐り始めていた。

鉄は錆び、水は濁り、正気は崩壊する。

鋼鉄の勝利がもたらす熱狂さえも、天に浮かぶ「黒き星」の鼓動にかき消されていく――。


これは、物理的な限界を超えた絶望に対し、唯一の解答を提示しようとする男と、その鋼鉄の結晶たちの記録である

                 その189




儀式開始:3日目

フェーズ2完了~フェーズ3:【共鳴増幅】


北の平原、ノクレイン軍本陣。

巨大な**《嘆きの黒大釜》**の前で、夜哭の司祭ノクレインが両手を掲げた。

「――啼け。夜の涙よ」

彼の詠唱に応え、大釜に取り付けられた**「黒鉄の漏斗」**が、金属同士が激しく擦れ合う不快な音を立てて開いた。


ブシュゥゥゥゥゥゥ……!

釜の中から、超高圧に圧縮された黒い霧が、まるでダムが決壊したかのような勢いで噴き出した。それは気体でありながら、粘り気のある泥のような質量を持って地を這い、アンヘイムへと殺到する。霧が触れた地面からは、植物の生命力が瞬時に吸い上げられ、どす黒い腐敗の色が広がっていった。


「……来る! 北壁、ギルドの魔法部隊たちよ、防御術式展開せよ!」

北壁を守るリバンティン公国軍の指揮官が叫ぶ。

それに応え、城壁の上に並んだ者たちが、てんでばらばらの武器や杖を構えた。彼らは揃いの装甲を纏った正規騎士ではない。奇抜なローブを纏ったやせ型の男や、あちこち傷だらけの武装をした戦士たちだ。

リバンティン公国がその潤沢な資金に物を言わせ、大陸中の冒険者ギルドから高額な報酬で掻き集めた**「雇われ魔術師」や、リバンティン公国内に席を置く「高ランク冒険者」**たちである。


この大陸において魔法職は大変希少であり、宗教の薄いこの国には僧侶も少ない。それでも、戦争目前だったこの3年の間、金に糸目をつけず時間を掛け、粘り強く説得し集めた「魔法使いたち」。彼らこそが、現在のアンヘイムにおける対魔法防御の唯一の生命線だった。


「契約分は働かせてもらうぜ! 風の障壁ウィンド・バリア!」

「浄化のピュリファイ・ライト!」

都市を包むように光の膜と風の壁が展開され、押し寄せる黒霧を受け止める。


現在、アンヘイムに籠もる兵力は都市防衛1万、公爵たちが率いる兵が大凡四万数千。市民の大部分は地方へと疎開させており、残っているのは疎開を拒んだ5分の1程度の民たちだ。これは、籠城戦における「食料の枯渇」を先延ばしにするための苦肉の策だった。限られた兵と物資で、この巨大な都市を守り抜かねばならない。


一見、障壁は霧を防ぎきったかに見えた。だが、黒い霧は物理的な障壁を「すり抜けた」のではない。障壁に触れた部分から、**ジジジ……**という不気味な放電と共に結界そのものをどす黒く変色させ、組織的に侵食し始めたのだ。

「なっ……!? け、結界が……腐る!?」

雇われ魔術師の一人が血を吐いて倒れる。彼らの契約に、こんな規格外の呪いなど含まれてはいない。霧は都市の上空を覆い尽くし、真昼だというのに、アンヘイムは夜のような暗闇に閉ざされた。太陽が消え、星も無い、黒い霧が空を覆い昼夜の区別が失われている。


一方、南の魔導アーマー整備工場。

ラージン翁は、北の空が暗転するのを窓越しに見ていたが、彼にそこへ駆けつける余力はなかった。

「……北が始まったか。だが、儂の手は空いておらん!」

彼は、次々と運び込まれる損傷した魔導アーマーの修理指揮と、パイロットたちのローテーション管理で手一杯だった。70歳を超えた老体には、魔導アーマーの回転率を維持する為、整備調整する作業の指示だけで限界なのだ。

「……耐えよ、アンヘイム。金で買える盾も、鉄の盾も、全て使い潰してでも……ロスコフ様が戻られるまで、持ちこたえるんじゃ」


一方、儀式の源泉である大釜の周囲では、異様な光景が繰り広げられていた。

儀式の出力を上げるため、**【感情醸造師】**たちが、列をなす【成り果て】の兵士たちを、次々と釜の中へ蹴り落としていたのだ。

「燃料投入! 炉の温度を上げろ!」

兵士たちは抵抗しない。虚ろな目で、自ら煮えたぎる黒き血の中へと沈んでいく。**ジュワァァ……という肉が溶け、脂肪が焼ける不快な音と、「感謝……感謝……」**という狂信的な感謝の言葉が混じり合い、新たな怨念となって霧の濃度を高めていく。四万の軍勢は、戦わずして自らを削り、都市を呪うための薪となっていた。



アンヘイム南門、最前線。

ズゥゥゥン!!!

地響きと共に鼓膜を震わせる猛烈な衝撃が襲った。ラガン軍の陣地に据えられた大口径の重火砲による斉射である。黒色火薬の爆発に伴う凄まじい音圧と、物理的に城壁を砕こうとする暴力的な弾丸が、南門周辺を地獄へと変えた。


ガギンッ!!

その砲撃の混乱に乗じて突っ込んできた攻城槌の一撃が、マルコの纏う量産型【グラディウス】を捉え、大きく後退させた。衝撃は魔導神経網マギ・ニューラル・リンクを通じて身体にダイレクトに突き刺さり、マルコは激しい眩暈に襲われる。

足元の石畳が質量に耐えきれず砕け、膝の関節部から金属が悲鳴を上げるような嫌なきしみ音が上がった。


「ぐぅ……ッ! クソッ、盾の固定具が緩んできやがった!」

マルコが脂汗を流しながら悪態をつく。感覚フィードバックにより、アーマーの損傷がそのまま自身の肉体の不自由さとして伝わってくる。

開戦から数日。彼らは文字通りの極限状態にあった。旧型の燃費の悪さは回転を速める、その間が戦線の維持を難しくしていた。全力戦闘を行えば、魔力は見る間に減っていく。そのため彼らは、魔力が切れかけるたびに城壁のすぐ裏へ戻り、予備の魔晶石を急ぎ交換しては、休む間もなく即座に前線へ舞い戻るという地獄のローテーションを繰り返していた。


「マルコさん! 右翼、押されています、このままでは抜かれてしまいます!」

「分かってる! しかしここも死守しなきゃならねぇ! 構ってる余裕はないんだ。」

レオンハルトの悲痛な声に、マルコが歯噛みする。機体の応答速度が低下し、自分の意思と動作にわずかなラグが生じ始めていた。目の前には、ラガン軍の終わりのない波。厚みのある装甲にも凹みが見え始めていた、交換したばかりの魔晶石も、激戦で力を使う為、その輝きが失われて行くスピードが早かった。


(……ここまでか。だが、ここは一歩も通しはしねえぞ……!)

マルコが覚悟を決め、最後の魔力を振り絞ろうとした、その時だった。


ゴォォォォン……!

背後の城門が開き、大気を震わせる重厚かつ鋭い駆動音と共に、三つの影が飛び出して来た。

「――そこまでだ、マルコ! 下がって休んでいろ!」

「えっ……!?」


新手の先頭に立つ機体が、乗り込み時300キロを超える質量を滑らかに制御し、マルコの前に割り込む。直後、ラガン軍の投石機から放たれた巨大な爆砕弾が、その機体を真正面から直撃した。

「危ねえッ!!」

マルコが叫ぶ。今の消耗した機体なら、直撃すればどうなるか分からない程の威力がありそうだ。だが――。


バチィッ!!

着弾の瞬間、青白い雷光が膜のように激しく弾けた。爆発による凄まじい衝撃波と破片が、電磁的な反発によって物理的に霧散し、機体を寄せ付けない。土煙の中から現れたその機体は、傷一つなく、平然とそこに立っていた。


「……は?」

マルコが、そして周囲の兵士たちが、呆気にとられて口を開ける。物理的な防御姿勢すら取っていない。ただそこに「在る」だけで、重火器の一撃を完全に無効化したのだ。


その新型機――**《セントリス・フォルティス》**の面頬バイザーが上がり、中から頼もしい笑い声が響いた。

「へっ! どうだマルコ! これが俺たちの新しい力だ!」

「く、クーガー!? それに……」


左右に展開した機体からも、聞き慣れた声がする。

「遅くなりました。……ですが、もう安心です」

冷静沈着なルーカス。そして、中央の機体からは、威厳ある隊長の声が響く。

「待たせたな、諸君! ロスコフ様が帰還された! この魔導アーマーは、主が徹夜で仕上げてくださった**『特製品』**だ!」

「……隊長!? それに、ロスコフ様が、帰ってきた……!?」


その言葉が、戦場に稲妻のように駆け巡った。情報の届かぬ最前線で戦い続けていた兵士たちの目に、信じられないという驚きと、希望の光が宿る。

「へっ……へへっ! そう来なくっちゃな!」

マルコが、機体内部で拳を固く握りしめる。すると、傷ついた鋼鉄の指がそれに呼応して、ギチリと音を立てて拳を作った。

「聞いたか野郎ども! 侯爵のお帰りだ! この**『化け物じみた機体』**があれば、まだまだ戦えるぞォッ!!」

「おおおおおおっ!!」


歓声が上がる。頼れる隊長たちの帰還。そして何より、「生みの親」であるロスコフが戻り、この圧倒的な力を授けてくれたという事実。それは疲弊しきっていたアンヘイム軍の士気を、爆発的に回復させる何よりの起爆剤となった。



鋼鉄の遠征 ~鉄壁の証明~


アンヘイム南門の開閉装置は、悲鳴を上げるほど酷使されていた。門が僅かに開くたび、黒煙を上げ、装甲を歪ませた傷だらけの魔導アーマーが転がり込み、入れ替わるようにして、整備し直された鋼鉄の機体たちが戦場へと躍り出る。

ロスコフとレザリア、そして工場の職人たちが不眠不休で送り出す**《セントリス・フォルティス》**。その数は、最初は見誤るほど少なかった……しかし、時間が経つにつれ、十、二十と確実に増え始めていた。


「突撃ぃぃぃッ!! 敵の機体が入れ替わった隙を突け!」

ラガン王国軍の騎馬隊長が号令をかける。重装騎兵の一団が、長いランスを構えて、交代したばかりのセントリスへと殺到した。金属の質量と馬の速度が乗った一点突破。旧式の装甲ならば、貫通は免れない必殺の突撃だ。


だが、待ち受けるアンヘイムの騎士は、回避行動すら取らなかった。ただ腰を落とし、300キロを超えている自重を地面に根ざさせ、正面から受け止める構えを取る。

ドォォォォォンッ!!

激突の瞬間。鋼鉄の装甲表面に、複雑怪奇な幾何学模様が青白く発光した。


「なっ……!?」

騎兵の腕に、殴りつけたはずの衝撃が返ってこない。ランスの穂先が触れた空間に**“雷光の膜”**が瞬時に展開され、物理的な運動エネルギーを完全に霧散させてしまったのだ。勢いを殺された騎兵たちは、物理法則に逆らうような拒絶にバランスを崩して次々と落馬し、そこをセントリスの鉄拳によって薙ぎ払われる。


「……なんなんだ、あれは?」

後方の小高い丘に陣取っていたラガン王国第五軍団長、ディートフリート将軍は、手元の遠眼鏡スコープを持つ手を止めた。彼の冷徹な観察眼が、戦場の異変を捉えていた。

「……弾かれたのではない。衝撃が『消された』のか?」


彼が見ているのは、先ほど前線に投入された数騎の魔導アーマーだ。敵の攻撃が当たるその瞬間だけ、装甲が発光し、幾何学模様の防壁が浮かび上がる。どんなに重い一撃を受けても、中の人間が揺らぐことすらなく、機体は不動の岩のようにそこに在り続ける。

「……厄介な。新たな技術か? あるいは秘術による強化か」


ディートフリートは眉をひそめたが、まだ焦りはなかった。戦場全体を見渡せば、その「光る機体」の数はまだ少ない。圧倒的な数の暴力で押し潰せば、いずれ魔力が尽きて止まるはずだ。そう判断した。

「……構わん。第五軍、攻城部隊、斉射用意。あの光る機体を重点的に狙い放て!」


ディートフリートは冷酷に命じた。ラガン王国には、魔法使いなどという高尚な戦力は存在しない。この国にあるのは、奴隷兵や、犯罪を免除する代わりに兵に志願させられた者、盗賊上がりの狡猾な戦術、そして物量のみだ。

「**焼夷毒油しょういどくゆ**だ! 焼き殺せ!」


号令と共に、後方の投石機から無数の素焼きの壺が放たれた。中身は、粘度の高い黒い燃焼油に神経毒を混ぜ合わせた最悪の化学兵器である。壺が魔導アーマーに直撃して砕け散り、そこへすかさず数千の火矢が降り注ぐ。

ドォォォォォン!!

紅蓮の炎が巻き上がり、前線を包み込む。


「へっ! ざまあみろ! 鉄の塊なんざ、中で蒸し焼きにしてやらぁ!」

ラガン兵たちが下卑た歓声を上げる。魔法が使えぬ彼らにとって、化学的な火攻めこそが最大の対アーマー戦術だった。だが、彼らの狙いは単なる焼却ではない。激しい燃焼によって発生する黒い毒煙を、魔導アーマーのわずかな吸気口から操者の肺へと送り込むことにある。


(ガハッ……! ゲホッ!!)

旧型の機体に乗り込んでいた兵士たちが、肺を焼くような異臭に絶叫し、手足の痺れに身をよじらせる。フィルターを通り抜けてくる神経毒が、操者の意識を混濁させ、肉体を内側から破壊していく。


だが――その絶望的な光景の中、鋼鉄の巨人が悠然と歩み出てきたのだ。

バチィッ! バチィッ!

油壺が着弾した瞬間、**『自動反射回路リアクティブ・シールド』**が過剰に反応し、装甲表面に高出力の雷光を走らせていた。その電磁的な衝撃波が、粘りつく毒油を物理的に霧散させ、炎ごと吹き飛ばしていた。


「……馬鹿な。火が……効いてないのか?」

ディートフリートが目を見開く。耐熱性能ではない。着弾の瞬間に発生する反発力が、物理的な汚れや化学物質すらも寄せ付けない**「拒絶の盾」**として機能している。


「……熱くねえ! ロスコフ様の機体は、炎すら通さねえ!」

マルコが歓喜の声を上げ、炎を纏ったまま突進する。


しかし、激闘が続く中、物量作戦の裏でラガンの真骨頂である暗殺工作が始まっていた。

大軍勢による正面突破に意識を奪われている隙に、音もなく城壁を登る**「壁這いの工作兵アサシン」**たちが、魔導アーマーの死角へと潜り込んだのだ。彼らは影のように機体に張り付き、関節部――魔導神経網の接合部という急所を狙い定める。

その手にあるのは、火薬を用いた小型の**「穿孔爆弾せんこうばくだん」**だ。


「……今だ」

工作兵が静かに呟き、装甲の隙間に爆薬を仕掛けようとしたその瞬間――。

バチィィッ!!

機体表面の反射回路が、微小な接触さえも「物理的な侵害」として検知した。青白い電撃が工作兵の身体を貫き、彼らは悲鳴を上げる間もなく、弾かれたように地上へと叩き落とされた。


「ひっ、化け物だ!」

「逃げろ! 焼き殺されるぞ!」

自分たちが放った火に巻かれる恐怖と、暗殺術すら通用しない無傷の鉄の巨人に、ラガン兵の士気が崩壊し始める。


そして、時間が経過するごとに、戦場の様相が変わっていった。工場のフル稼働により、前線の魔導アーマーが次々とV2(フォルティス)へと置き換わっていく。当初は点在していた「光る機体」が、やがて線となり、強固な面となってラガン軍の前に立ちはだかり並び始めたのだ。

「……おい、どうなってやがる!?」

第三軍のヘーゲンス将軍が、焦燥の声を上げる。

「あいつら、いつまで経ってもバテやがらねえ! 攻城兵器も火攻めも効かねえし、倒しても倒しても、新しいのが湧いてきやがる!」


「……馬鹿な。あれほどの防御機能を備えた兵器を、一体何体持っているというのだ」

ディートフリートの額に、冷や汗が伝う。

「ええい、退くな! 押せ! 押し潰せ!!」

第四軍のパタロワ将軍が、半狂乱で叫ぶ。彼らには、もう後がない。ここで「勝てないから引く」という選択肢を選べば、待っているのは本国ロット・ノットの評議会による断罪だ。


「……引けぬ。引けば待っているのは負け犬としての死!」

ディートフリートが剣を抜き、叫んだ。「あの壁を破らねば、我々に明日はない! 死ぬ気で食らいつけ! 敵の魔力が尽きるのが先か、我々の血が尽きるのが先か、根比べだ!」


万単位の軍勢が、死兵となって城壁に殺到する。それを迎え撃つのは、ロスコフたちの知恵と技術の結晶、V2へと進化させた魔導アーマーだった。

鉄と鉄、意志と意志がぶつかり合い、火花と血飛沫がアンヘイムの空を焦がしていく。


だが、その激戦の最中にも、北の空を覆う「黒い霧」は、刻一刻と濃度を増していた。

南門の勝利の熱狂は、長くは続かなかった。


翌朝――儀式開始から4日目。

フェーズ4【影響拡大(侵食)】へと移行した黒い霧は、もはや視界を遮るだけの煙ではなかった。それは確かな殺意を持った「意思ある毒液」となり、アンヘイムという都市の肉体に深く、静かに根を下ろし始めていたのだ。


黒い霧はもはや、単なる視界を遮る煙ではなかった。それは意思を持つ毒液となって、アンヘイムという都市の肉体に深く、静かに根を下ろし始めていた。

「……水が!」

一人の女性が、絶叫と共に手に持っていた木桶を取り落とした。

ガシャン、と激しい音を立てて桶が転がり、中身が石畳にぶちまけられる。そこにあったのは、透き通った水ではない。どろりとした粘性を持ち、油のように虹色の不気味な光沢を帯びた、漆黒の液体だった。


鼻を突くのは、古い墓地から漂い出すような腐敗臭と、刺すような硫黄の香り。地下水脈までもが霧に汚染され、都市の生命線である水源が「呪いの奔流」へと書き換えられた瞬間だった。

異変は、無機物にも等しく訪れた。

街を支えていた堅牢な石造りの家屋が、まるで老人の脆い骨のようにミシミシと不吉な軋み声を上げ始める。壁には、血管が破裂したかのような黒い亀裂が走り、そこからどろりとした影が染み出していた。


騎士たちが誇りに思う鋼の剣や鎧は、どれほど丁寧に油を差して手入れをしていても、一夜にして赤黒い錆に覆われた。それは単なる酸化ではなく、金属という物質そのものが拒絶され、鱗のようにパラパラと崩落していく、癌のような腐食だった。


政務院の隣に位置する魔導アーマー整備工場は、いまや戦場以上に腐った悪臭が漂っていた。

「報告します! 予備パーツ倉庫の床が腐って抜け落ちました! 保管していた予備装甲板の半分が腐食しています!」

「前線から戻った操者たちが……錯乱しています! 『黒い泥に沈む夢を見た』と叫びながら、自分の皮膚を剥ぎ取ろうとして……ッ!」


工場内には、崩落した金属片が立てる轟音と、正気を失った男たちの呻き声が充満していた。

指揮を執るラージンは、脂汗にまみれた顔を拭い、震える手で机を叩いた。喉の奥から絞り出すような、絶望的な呻きが漏れる。

「……南の敵なら鋼鉄の盾で弾ける。だが、この腐敗の呪いはどうすればよいのじゃ……! このままでは、敵に破壊される前に、アーマーそのものが錆びついて動かなくなる……!」


都市側もまた、なりふり構わず抗っていた。

リバンティンの財力によってギルドに頼み掻き集められた「傭兵魔術師」たちが、街の至る所に**《白霊木はくれいぼく》**の杭を打ち込んでいた。光の神〖ラーナ神〗を信仰する神聖モナーク王国より輸入されたその聖木は、邪気を吸い寄せる性質を持つ極めて高価な希少種である。

本来ならば聖堂の柱として数百年受け継がれるべき至宝だが、公国はそれを単なる「使い捨てのフィルター」として土に突き刺した。魔導アーマーの心臓である魔晶石を温存するため、金で買える「身代わり」を消費し続け、時間を稼ぐという、贅沢で残酷な消耗戦だ。


「次だ! 杭を寄越せ! 急げ、また一本喰われたぞ!」

黒霧の海へ打ち込まれた真新しい白木は、触れた端から業火に炙られたが如く変色していく。穢れなき白が絶望の黒へと蹂躙され、ひび割れた音と共に無惨な炭の粉となって散っていく。一本で平民の命が買えるほどの白木を、底なしの暗闇へひたすらに焚べていく。それは文字通り、山なす金貨を無為な灰へと変えるだけの、空虚な作業であった。


屋内だけは辛うじて清浄な空気が保たれていたが、それは嵐の前の静寂に過ぎない。

ふと北の空を見上げれば、そこには最悪の予兆が形を成していた。

黒い霧が巨大な渦を巻き、その中心に、凝縮された闇の結晶体――**「黒い星」**のような物体が浮かんでいた。


ドクン。

ドクン。

それは心臓のように脈打っていた。視覚的な動きだけではない。その鼓動は低周波の振動となって大気を震わせ、アンヘイムに住むすべての者の胸腔に直接響き渡る。


闇結晶生成装置。

あれが完成し、都市の中心へと落とされた時、外部の壁など意味をなさない。アンヘイムの防衛網は内側から粉砕され、都市そのものが「黒い星」の一部となるだろう。


「……ロスコフ様。……どうか、急いでくだされ」

ラージンは、腐食して固着し、開かなくなった鎧戸を杖で強引にこじ開けた。隙間から見える北の空は、もはや夜というよりも、「虚無」に近い色に染まっている。


この都市が「腐った廃墟」という名の新しい地図に書き換えられるまで、残された時間はあと幾日もないだろう。

戦いはもはや、物理的な防衛線の限界をとうに超え、不可避の破滅へと加速していた。




ここまで読んで下さりありがとう、引き続き次を見かけたらまた読んでみてください。 

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