追憶のハルマッタン
その192
【アンヘイム~北部ハルマッタン邸】
アンヘイムの北門をくぐり抜けてから数日が過ぎた。
ロスコフたちが組んだ大キャラバンは北部へと続く街道をゆっくりとしかし着実に進んでいた。
先頭を行くのはゲーリック、クーガー、ルーカスの三人の騎士たちであり、その後ろに魔導アーマーと予備パーツや食料、そしてロスコフの膨大な研究機材を満載した六台の幌馬車が続く。
そのキャラバンを護衛するようにマルティーナ一行やアンナの従者たちが周囲を固めていた。
ゴトゴトと幌馬車の車輪が乾いた土の上を転がる心地よいリズムの中、先頭を行く幌馬車でロスコフは窓の外を流れる見覚えのある景色を眺めながら満足げに頷いていた。
「……ふふふ。どうですノベルさん、レザリアさん」
彼は向かいの席に座るノベルとその横に座っているレザリアに得意げに語りかけた。
「この揺れの少なさ! 完璧でしょう! まるで揺り籠の中にいるかのようです!」
その子供のようにはしゃぐ姿にノベルとレザリアは苦笑する。
「ええロスコフ様。確かに素晴らしい乗り心地です。これなら長旅も苦になりませんな」
「そうでしょう、そうでしょう!」
そう二度もいい、ロスコフは胸を張る。
「何を隠そうこの幌馬車の車輪には私が開発した最新式の緩衝機構が組み込まれているのですから!」
彼の脳裏に十三年前の記憶が蘇る。
まだ二十歳だった自分は父と母に無理やり馬車に押し込まれ、アンナとの見合いのためにこの同じ道を進んでいた。
当時の馬車はひどく、車輪には緩衝材などなく石畳を越える度に全身が突き上げられ、本を読むこともままならなかったのだ。
(……あの時私は誓った。いつか必ずこの不快な揺れを完全に無くしてみせると……!)
壮大な戦争の真っ只中に、彼はただ十三年前の自分のリベンジに成功したことを喜んでいた。
「まあ、さすがですわあなた」
隣に座っていたアンナがうっとりと夫の横顔を見つめる。
「貴方様のお作りになった馬車は世界一優しい乗り心地ですわ」
「ははは。ありがとうアンナ。……おっと、もうすぐ見えてくるはずだよ。ハルマッタン伯爵邸が」
その言葉を口にした瞬間、ロスコフの表情から先ほどまでの無邪気さがすっと消え、どこか懐かしむような穏やかなものへと変わった。
ロスコフは遠くに見え始めた屋敷の門を静かに見つめた。
「……この場所こそが、あの日の自分の誓いと、アンナとの未来、そしてワーレン家の技術革新が始まった場所なのです」
彼の脳裏に、半年前の出来事が蘇る。
ラガン王国との戦いが始まる少し前、自らが開発した魔導アーマーのお披露目会に招待客として来ていた義弟のルシアン。その華やかな席で、彼はルシアンからリーゼが病で亡くなったことを聞かされたのだ。
後から詳しく話を聞き大体の事情は理解できたものの、当初は腹が立った。何故知らせてくれなかったのかと。
しかしそれも後で深く考えればもう自分の中で収まってはいた。それがリーゼの願いだったのだから。
ロスコフは、窓の外の風景に亡き義妹の面影を重ねるように、静かに口を開いた。
「……アンナの妹君は残念なことでしたね。……とても活発で素敵な方だったと記憶しています」
そのロスコフのあまりにも優しく、純粋な追憶の言葉。
その瞬間、アンナの中で何かが軋んだ。
喜びと哀しみ、安堵と罪悪感、そしてどうしようもないほどの愛しさ。
全ての感情が一度に押し寄せ、混ざり合い、そしてその全てが打ち消し合った。彼女の思考は完全に停止し、ただ真っ白な静寂だけが胸の中に広がる。
(……ごめんなさい、あなた)
彼女の心の中に浮かび上がったその言葉は、声になることなくただ彼女自身の胸を締め付けた。
(私が理由を話せないせいで、あなたは人ならざる存在である私の“存在の真実”を、
愛する義妹の死として悼んでいる……)
優しい夫の横顔を見つめながら、アンナは内心で懺悔する。
(……完成した器である私の傍に、不完全な半身だったあの子の思い出を抱かせているこの罪を、
どうかお許しください。煌めく瞳を持つ、あの活発な“もう一人の私”を――
あなたは純粋に悼んでくれている。それが、私があなたから真実を奪い、
あなたの隣にいる代償なのだから……)
彼女は何も答えられない。
ただ窓の外を見つめる夫のその優しい横顔を、どこか泣き出しそうでありながら、それでいて微笑んでいるような、自分でも分からない表情で見つめ返すことしかできなかった。
今ではもう見慣れた瞳がほんの僅かに潤んだように見えたのは、幌馬車の揺れのせいだったのかもしれない。
やがて幌馬車の行く手に壮麗な屋敷の門がその姿を現し始めた。
十三年ぶりに訪れる追憶のハルマッタン邸。
そしてその庭のどこかに眠っているはずの**“思い出の彼女”**の墓標が待つ場所だった。
◇
~白百合の墓標~
十三年ぶりに訪れたハルマッタン伯爵邸は、ロスコフの記憶にある姿と寸分違わなかった。壮麗な門をくぐると手入れの行き届いた庭園が広がり、その奥には白亜の屋敷が静かに佇んでいる。
だが彼らを出迎えたのは、記憶の中のアンナの父親ではなかった。
「――これはこれはロスコフ義兄上! よくぞお越しくださいました!」
快活な笑顔で一行に駆け寄ってきたのは、アンナの義理の弟にしてハルマッタン家の現在の当主、ルシアンだった。
「ルシアン殿。ご無沙汰しております。……先日はエイゼンたちが世話になったそうで」
「いえ! 我々こそ命を救われました。……ささ、姉上も長旅でお疲れでしょう。父と母もお待ちかねですよ」
屋敷の中では年老いたハルマッタン伯爵夫妻が涙ながらに娘との再会を喜んだ。
アンナも完璧な笑顔で両親の体を気遣い、“良き娘”を演じる。**だがその心は、過去の記憶をなぞる演技への疲弊を隠し、どこまでも凪いでいた。**彼女にとって彼らはもはや“愛しい夫の義理の両親”という認識以上のものではなかったからだ。
その夜のディナーは和やかな雰囲気に包まれていた。だがその会話の中で、ルシアンがふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば義兄上。半年前のあの魔導アーマーのお披露目会の時のことは今でも忘れられません」
「……お披露目会、ですか?」
「ええ。あの時の姉上は本当に驚くほど快活でいらっしゃった。正直私が知っている昔の姉上はもっと物静かでしたから。……まるでそう……」
ルシアンは少しだけ遠い目をした。「……まるで、もう一人の姉……リーゼ姉様がそこにいるかのようでしたよ」
その悪意のない純粋な追憶の言葉。テーブルの空気が僅かに凍りついた。
ロスコフはふと隣に座る妻の顔を見た。アンナは微笑んでいたが、その完璧な微笑みの奥で彼女の瞳がほんの僅かに揺らいだのを彼は見逃さなかった。
(……やはり、辛いのだろうか)
彼は、妻をその空気から守るため、そして目の前の家族の命を守るため、あえて声を張り、話題を強引に変えた。
「……ルシアン殿、お義父様。今の話よりも、至急お伝えせねばならない、重大な軍事機密があります」
ロスコフの真剣な眼差しに、ルシアンが居住まいを正す。
「……実は、北の国境付近に、5万にも及ぶロマノス帝国の主力部隊が集結しているとの情報が入りました」
「ご、5万ですと!?」
老伯爵が驚きに声を上げる。
「はい。そして奴らが王都アンヘイムを目指すなら、交通の要衝であるこのハルマッタン領を避けては通れないでしょう。……ここは、敵の大軍が通過する道となります」
ロスコフは、テーブルに拳を置き、懇願するように続けた。
「我々が北で時間を稼ぎますが、万が一にも奴らがここへ到達した場合、屋敷などひとたまりもありません。……どうか、早急に領民を連れて、南へ避難する準備を進めてください」
その夫の、真摯で、そしてさりげない優しさに、アンナの胸の奥がきゅっと熱くなった。
(……ああ、あなた。……私のために、そしてあの子の家族のために……)
彼女は込み上げてくる愛しさを必死に抑え込み、ただ美しく微笑みながら夫を立てる妻を演じ続けた。
◇
翌朝。
出発の準備が整う前の僅かな時間、ロスコフは一人で庭園の片隅へと向かっていた。ルシアンに案内されたその場所には、ひっそりと一つの墓標が立っている。白百合の花が手向けられたその墓標には**“リーゼ・ハルマッタン”**の名が刻まれていた。
ロスコフは静かにその前に膝をつき、手を合わせる。
アンナは少し離れた木陰から、その光景をただ黙って見つめていた。夫と“かつての自分”だけの時間。それを邪魔する権利は、今の自分にはない。
(……あそこに眠っているのはリーゼではない。私が捨てた、人間としての弱さ、分裂したもう一つの意思の記憶の残滓。……あなたは、その『抜け殻』を悼んでくれているのね……)
ロスコフはしばらく目を閉じていたが、やがて静かに立ち上がると墓標に語りかけた。
「……リーゼ様。貴女のお姉様は私が必ずお守りします。……だから、どうか安らかに」
その言葉を聞き、アンナは心の中でそっと自嘲した。
(……いいえ、あなた。守られているのは私の方なのです。
本当は“リーゼ”と呼ばれたあの子は、私の失われた半身。
あなたが悼んでいるその死は、私が隠している真実の影にすぎない。
あなたの優しい誓いさえも、私は自分の罪を覆い隠すための盾にしてしまっている……)
そして彼はゆっくりと振り返った。木陰に佇む妻の姿を見つけると、彼は何も言わず彼女の元へと歩み寄る。そしてその華奢な手を優しく取った。
ロスコフはただ穏やかに微笑み返す。その瞳が語っていた。
**“君が一番辛いだろう。……もう大丈夫だよ”**と。
アンナは何も言えず、ただ夫のその温かい手に導かれるまま、繋いだ手に僅かに力を込め握り返した。
二人は言葉を交わすことなく、ただ静かにその場所を後にした。
もう後ろを振り返ることはなかった。旅はまだ続く。ゆっくりしている時間はないのだから。
キャラバンが再び動き出す直前、ロスコフは隣に座るノベルに静かに語りかけた。
「……エイゼンたちとは、これで暫く音信不通ですね」
「ええ。向こうは敵地、しかも敵の本拠地、都なのです。不用意に伝書鳩などを飛ばせば、それだけで彼らの潜伏を敵に教えるようなもの。……彼らが任務を果たし、自らの足で帰還するまで、我々に届く報せはありません」
ノベルは南の空を見上げ、短く答えた。
「ロット・ノットへたどり着くだけでも、まだ最低でも数週間はかかるでしょう。……彼らを信じて待つほかありません」
「ええ。……彼らの武運を祈りましょう」
ロスコフは前を向いた。北へ向かう自分たちの戦いと、音信不通となった南での戦い。二つの戦線が同時に動いている重みを感じながら、彼は馬車の出発を命じた。
◇
その日の夜、ルシアンは自室で一人、今日の出来事を思い出していた。
(……だが、今の姉上は、なぜかあの時のお披露目会の時よりも、ずっと暗い光を宿しているように見えた。あの異常なほどの快活さは、何かの仮面だったのだろうか……?)
ルシアンの脳裏に、ふとした違和感が過る。
リーゼ姉様が亡くなった時と、姉上が急に快活になった時。この二つの出来事が重なっていることに、何か意味があるのではないか。
かつて見た姉上の瞳の奥に宿っていた、リーゼ姉様と同じ輝き。それが今は完全に消え失せている。
(……まさかな)
彼は首を振ってその思考を打ち消した。だが、彼の心に生まれた小さな疑念の種は、完全には消え去ることなく根を下ろしている。
それはやがて、彼を探偵役として物語の深淵へと導く、最初の一歩となるのかもしれなかった。
**~巨人の足跡~**
ハルマッタン伯爵邸を出立した一行は、再び北へと向かう街道を進んでいた。数日間の休息は彼らの心身を回復させたが、目的地である国境地帯はまだ遠く、幾日も掛かるだろう。
幌馬車の中の空気は、以前より少しだけ重かった。ロスコフはあの一件以来、口数が減り、工房から持ち出した資料に没頭する時間が増えている。
**その複雑な計算式と向き合っているのは、この旅の切り札である魔導アーマーの危険な運用リスクを、少しでも抑えるためだった。**
アンナもまた、そんな夫の邪魔をしまいと、ただ静かに寄り添っていた。
その沈黙を破ったのは軍師ノベルだった。彼は広げていた羊皮紙の地図から顔を上げ、ロスコフに語りかける。
「……ロスコフ様。そろそろですな」
「……ええ」ロスコフは資料から顔を上げ、頷く。「レザリア殿の予測が正しければ、この先の渓谷地帯……そのどこかでジル殿たちが活動しているはず」
ノベルが斥候を走らせて数時間後――
彼らは、荒ぶる自然の爪痕が刻まれたかのような、異様な地形に直面する。
街道が、ない。
街道だったはずの場所が、まるで巨大な獣に喰み千切られたかのように抉り取られ、深さ数十メートルの断崖絶壁と、無数の凹凸が連なる悪路へと変貌していた。
これには、馬を駆っていた騎士たちからも驚きの声が上がる。
「なんだ、これは……! まるで大地そのものが暴れた跡じゃねえか……!」
クーガーが、そのあまりの光景に呆然と呟いた。
ロスコフは冷静に断面を分析し、告げる。
「……天災ではない。意図的に創られたものだ」
ノベルは静かに頷いた。「……どうやら我々は、得体の知れぬ縄張りに足を踏み入れたらしい」
それは、ジルとタンガが創り上げた帝国軍を迷わせる**“巨大な迷路”**。
地形そのものが、秘術によって組み替えられた要塞だった。
だが、ロスコフは見抜く。崖の向こうに、僅かに残された一本の道を。
それは破壊し忘れではない。――意図的に残された**“進むべき目印”**だった。
その確信に応えるかのように、崖の向こうに人影が現れた。“岩壁”のジルだ。
彼は一瞬、ロスコフたちの姿を確認すると、安堵したように息を吐き、その両腕を大地に叩きつけた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
凄まじい地響きと共に、断崖の両岸から巨大な岩盤がせり上がり、空中で一つの橋となる。
それは常識を超えた光景――まるで仲間を迎えるための仕掛けのようだった。
「……よくぞ来てくだすったな、ロスコフ様。……待ちくたびれましたぜ」
その声には出発前の覇気がなく、深い疲労の色が滲んでいた。
橋を渡り、一行はジルとタンガとの合流を果たした。だが、再会の喜びよりも先に、彼らのボロボロの姿が一行を戦慄させた。
「……ジル殿、タンガ。無事で何よりです。……ですが、その傷は」
ロスコフの言葉に、ジルは苦く笑った。
「へへっ、これでも精一杯やったつもりなんだけど。……相手が悪すぎたんだ。」
焚き火を囲む野営地で、タンガが無骨な顎を掻きながら唸る。
その顔には、先日の恐怖がまだ影を落としていた。
「初めは警戒しながら、敵が来たらその場を離れて別の場所でやってたんだ。
けど少しずつ、ロマノス兵も巻き込み削ったほうがと思ってよ……でもおかしいんだ。俺たちがちょっかい出しても、本気で追ってきやしねえ。
だども、ジルさんがドッカンと大地を揺らすとよぉ……どこからともなく**“真っ黒い坊主”【記憶摘出官】**とか呼ばれてた連中が現れてだなぁ、何かを拾い集めてる気配があったんだ」
「……【記憶摘出官】……」
ノベルが静かに呟く。
「奴らは恐怖や混乱といった負の感情を……糧にしているのでしょう」
「そうなんだ。そして奴らの本陣には……もっとヤバいのがいる」
タンガは震える声で、先日目撃した砦の惨状と、カリストの脅威を語った。
「……リバンティンから奪ったあの砦は、もう砦じゃねえ。巨大な**“加工場”**になっちまってた。
……今も、死んでいった兵士たちの“うめき声”が聞こえてくるみてぇで、とても苦しいよ。」
その言葉に、最も若い騎士ルーカスが青ざめた。
「魂が……囚われている、とでも言うのですか……?」
ロスコフは地図上の砦を指差した。その瞳には、静かで燃えるような怒りの炎が宿っている。
「……間違いない。あの砦こそが奴らの**“儀式場”**だ。奴らは、リバンティンの兵士たちの魂すら弄んでいる」
「ならば、我々がやるべきことは一つですね」
ノベルが促す。
ロスコフが決然と顔を上げた。
「この地で行われている冒涜的な儀式を終わらせる。……大元であるカリスト・エルグレイン将軍を叩きます!」
一行は決意を固めた。冒涜的な儀式を止め、囚われた仲間たちの魂を解放する。
ジルの秘術で幌馬車隊を崖の向こうへ渡らせ、一行は再び駒を進めた。
◇
砦へと続く平原の手前。ロスコフの一行はその歩みを止めた。
「……ロスコフ様。ここから先は何が起きるか分かりません。……“彼ら”に目覚めてもらう時かと」
「……ええ。その通りですね」
ロスコフは頷くと、三人の騎士へと向き直った。
「―――ゲーリック隊長、クーガー、ルーカス。……搭乗準備を」
「「「はっ!」」」
号令を受け、三台の巨大な幌馬車が隊列から離れる。側面パネルが開け放たれ、固定具に縛られた三体の鋼鉄の巨人が姿を現した。ゲーリック、クーガー、ルーカスの【セントリス】型魔導アーマー3体だ。
「―――搭乗、開始!」
ゲーリックの号令と共に、三人の騎士はそれぞれの機体へと向かう。
召使いたちが機体を上下に分離させ、鋼鉄の棺が開かれる。まず、ルーカスが下半身の装甲へと足を滑り込ませた。
屈強な召使いたちが野戦用ジャッキのハンドルを渾身の力で回し、100kgを超えるかという上半身パーツがゆっくりと持ち上がっていく。
**(……このプロセスには致命的な運用リスクがあるのだ)**
ロスコフは遥か後方の幌馬車から、その光景を見つめながら心の中で呟いていた。**『もしジャッキの停止機構が作動しなかった場合、搭乗者は中から出られないまま圧殺される。また、緊急脱出機構はまだ未完成だ』**
彼は独り言のように、そしてノベルに向かって小声で続けた。「……ルーカス、今から教える呼吸法を忘れるな。魂の共鳴を安定させるために、吸う息と吐く息の比率を 4:6 に保て。意識を機体の中心に集中させろ」
「今だ、ルーカス!」
ゲーリックの檄が飛ぶ。頭上に鋼鉄の断頭台がぶら下がる恐怖の中、ルーカスは躊躇なくその僅かな隙間に上半身を滑り込ませた。
**ゴウンッ!**という地響きに似た重い衝撃と共に上下のパーツが結合される。
「ぐっ……!」
ルーカスが息を詰める。(この痛みこそ、俺たちが仲間を、故郷を守るための覚悟だ……!)装着の度に全身を襲うこの衝撃に耐えるのも、騎士の務めだった。
ゲーリックとクーガーも同じ手順で搭乗を終え、腰のロックボルトが締め上げられる。これで、もう中からは出られない。
三人の騎士がそれぞれの機体の中で深く息を吸い込み、背中の【マスターシギル】に意識を集中させた。
―――『魔導神経網』、接続開始。
キィィィィィィン……!
三体の魔導アーマーの全身に刻まれたシギルが一斉に蒼白い光を放ち、そのモノアイが生命を宿したかのように紅く灯る。
ゴウ……ン……!
ゲーリックの機体が最初にゆっくりと巨体を起こした。続いてクーガー、ルーカスの機体も。大地を踏みしめ立ち上がる三体の鋼鉄の巨人。その圧倒的な威容に、シャナがゴクリと喉を鳴らした。
「……これが……リバンティン公国の、切り札……」
ロスコフは静かにその光景を見つめていた。自らが生み出した子供たちが今、目覚める。
その誇らしさと、彼らを死地へ送り出す罪悪感を胸に、彼は静かに告げた。
「―――我々の誇りを、見せてやれ。……行け」
「さあ、歓迎しよう、異端の者たちよ。その気高い魂……我が主への**“最高の供物”**として捧げるがいい」
その声はどこからともなく平原全体に響き渡った。
ロスコフたちがはっと顔を上げると、陥落させられた国境砦の最も高い城壁の上に一人の男が立っていた。純白の鎧に身を包んだカリスト・エルグレイン。
彼は眼下のちっぽけな抵抗者たちを見下ろし、ゆっくりとその冒涜的な黒炎剣を抜き放った。
そして、その黒い刀身を曇天へと高々と振りかざす。
――瞬間。
剣の切っ先から禍々しい**“黒い炎”が立ち昇り、空に亀裂を入れるかのように天を焦がした。その炎は物理的な熱ではない。魂を直接凍てつかせる“絶望の冷気”そのものだった。
その冷気が狼煙のように砦全体に伝播すると、砦の至る所で眠っていた無数の魂たちが、その“祝福の合図”**に呼応した。
「――饗宴を、始めよ」
カリストの静かな命令が響き渡ると同時、ロスコフたちの足元の大地そのものから無数の腕が突き出し、腐臭を撒き散らしながら**【F級成り果て】**の軍勢が溢れ出してきた。
「来るぞ!」
ノベルの絶叫が響く。
だがその腐臭を放つ津波の前に、三体の鋼鉄の巨人が敢然と立ちはだかった。
「怯むな! 隊列を維持しろ! ルーカス、中央! クーガー、右翼! 私が左翼を抑える!」
ゲーリックの号令一下、三機の魔導アーマーが分厚い**“鋼鉄の壁”となる。
これは単なる防御陣形ではない。ゲーリック率いる三機の魔導アーマーが展開する分厚い前衛隊列であり、腐臭を撒き散らす【F級成り果て】の軍勢を「叩き潰す」圧倒的な物理的な破壊力をもって「面」を制圧**する役割を担う絶対的な防波堤だ。
**ゴウッ!と風を切り裂き、ゲーリックの駆るセントリスが巨大な両手剣を横薙ぎに振るった。
グシャァァァッ!
それは斬るというよりも“叩き潰す”という表現が正しかった。これこそ魔導アーマーが持つ圧倒的な“物理的な破壊力”**だった。
だが、その一方的な蹂躙は長くは続かなかった。
平原の霧の中から、影が滑り出るかのように数体の黒い騎士が音もなく戦場へと舞い降りたのだ。
【E級成り果て:堕騎】。
一体の堕騎が獣のような速さでルーカスのセントリスの死角へと回り込む。
「ルーカス! 後ろだ!」
ゲーリックの警告は間に合わない。ルーカスの思考は敵の動きを捉えていたが、彼の未熟な**“精神”が思考を“鋼鉄の肉体”へと伝達する、そのごく僅かな“遅延”**が命取りとなった。
キィィィィィィンッ!
甲高い金属音と共に、堕騎の長剣が魔導アーマーの**“膝の関節部”を正確に切り裂いた。
火花が散り、ルーカスの機体が大きく体勢を崩す。
「がっ……! 生身の左脚に直接のダメージ! ……ぎゃあ、畜生、本当に切られた様な感覚だ……!」
経験の浅いルーカスには、まだこの鋼鉄の巨人を手足のように操るだけの“シギルとの共鳴力”**が足りていない。
「くそっ、ちょこまかと!」
クーガーが一体の堕騎を拳で薙ぎ払おうとするが、その動きにも僅かな焦りが生じ、大振りな動きを簡単に見切られ、逆に腕の動力パイプを切りつけられた。
次々と露呈していく弱点。そして、その**“未熟さ”が最も顕著に現れたのがルーカスだった。
「た、隊長……! すみません……! エネルギーの消費が激しくて……! このままでは……!」
高機動の堕騎に翻弄され、無駄な動きを繰り返した彼の機体。その魔晶石だけが異常な速度で輝きを失い、“魔力の枯渇”が始まっていた。
(俺のせいで……! このままじゃ、隊長たちにまで負担がかかる……!)
魂力の低さはそのまま“燃費の悪さ”にも直結する。その事実は、貴重なエネルギーを浪費しているという罪悪感**となって、さらに彼の操作を焦らせていた。
「……くっ早すぎる。」後方の幌馬車の影から顔を出し戦況を見ていたロスコフが悔しげに呟いた。「……今の彼の技量では、高機動戦闘はまだ荷が重すぎた……!」
その危機的状況を城壁の上から眺めていたカリストは、満足げに微笑んでいた。
「……見ろ。あれが人の作る鉄の器の限界だ。未熟な精神ではただの鉄屑に等しい。なんと脆く、なんと愚かしい」
彼の足元では、先ほど砕け散った成り果てたちの骸から、黒い靄のようなものが立ち上り、カリストの鎧へと静かに吸い込まれていく。手下が倒されれば倒されるほど、この地に満ちる絶望は濃くなり、彼の力へと変換されるのだ。彼にとって、この戦いはすでに勝利が確定した儀式に他ならなかった。
その時、一体の堕騎が好機と見て、後方の幌馬車隊へと狙いを定めた。その先にはマルティーナがいる。
「――しまっ……!」ノベルの声が悲鳴に変わった。
幌馬車の影で柱のように佇んでいたゲオリクは、その光景をちらりと一瞥したが、動こうとはしなかった。彼の目は、自分が動くまでもないことを既に悟っていたからだ。
堕騎がマルティーナの元へと到達する直線上に、“三つの影”が割り込んだ。
一人は**“風”。疾風と化したロゼッタが神速の剣技で堕騎の足を止め、動きを封じる。
もう一人は“壁”。今回はアーマーに乗らず、生身でタワーシールドを構えたリバックが、堕騎の渾身の一撃を完璧に受け止めた。
ガギィィィィィンッ!
「……ここは、俺たちの仕事場だ」リバックは鋼鉄の如き腕で盾を押し返す。
その一瞬、強引にこじ開けられた隙を、“閃光”が逃すはずもなかった。
「――合わせるわよ、まだ眠そうにしている鋼鉄さん!」
マルティーナの傍らから飛び出したシャナが、魔導アーマーの無骨な肩を足場に跳躍する。機体の挙動はまだ不安定で、足場としての信頼度は低い。しかし、シャナは長年背中を預けてきたリバックの「盾」のタイミングを、魂のレベルで理解していた。
機体の駆動音が悲鳴を上げる中、シャナの放った【血月の槍】が、堕騎の鎧の隙間を寸分の狂いなく貫いた。
幌馬車のロスコフの隣で、その光景を凝視していたノベルが息を呑む。
「……あの3名はお見事です。前の魔導アーマーの制圧範囲(面)はまだガタガタで、機体との呼吸も合っていない。それなのに……! あの三名の『点』の連携が、機体の不完全さを力づくで埋めている……!」
ノベルは、機体から溢れ出す不安定な魔力の波動を読み取っていた。
「あれが……我らが目指さねばならぬ“共鳴の戦術”のお手本でしょう……!」
本来、この戦術は魔導アーマーによる「面」の制圧を基盤とし、遊撃隊の三つの影――ロゼッタの「風」、リバックの「壁」、シャナの「閃光」が脆弱な「点」を貫くことで完成する。
だが、現在の彼らはまだ、機体に内蔵された「シギル」と己の「魂」を完全に調和させるには至っていない。本来なら戦術そのものが破綻してもおかしくない状況だ。
それを繋ぎ止めているのは、三人が長年の死線で培ってきた、互いへの絶対的な信頼のみ。
不器用な魔導アーマーの挙動すらも、「癖のある相棒」として強引に戦術の中に組み込んでいるのだ。
「共鳴力」という名の、魂と鋼鉄の融和。
それはまだ、産声を上げたばかりの荒々しい雷鳴のように、戦場に響き渡っていた。
「……ほう」
城壁の上から見下ろすカリストが、初めてその目に興味の色を浮かべた。「ただの寄せ集めではないのか。……良い。良い素材だ。その絆が断ち切られる瞬間こそ、最高の供物となる」
彼はそう呟くと、再び腰の黒炎剣の柄にそっと手を置いたが、それを抜くことはしない。まるで最高のワインが熟成するのを待つ主人のように、ただ静かに指で柄を撫でている。
彼の興味はもはや目の前の小競り合いにはない。その美しい魂たちがもがき苦しみ、そして最高の“悲鳴”を上げる、その**“瞬間”**だけを待ち望んでいるのだから。
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