南への調査隊と北部への鋼の鉾
その191
開戦から50日目。
ワーレン家の仮邸宅、その談話室。
暖炉の中で静かに爆ぜる薪の音だけが、部屋の重苦しい沈黙を破っていた。
テーブルを囲んでいるのは、ロスコフ、ノベル、ラージン翁、そしてエクレアとレザリアたちだ。
テーブルの上には二つの資料が置かれている。
一つは、タンガが命懸けで鷲に託した報告書。
そしてもう一つは――先日、エクレアたちの手によって禁呪で浄化され、今は客室で安らかに眠る騎士オクターブの体から摘出された、《黒き血》の分析記録だ。
北からもたらされた『第十三軍団』とカリスト・エルグレイン将軍、そしてその背後に蠢く**“ノクレイン司祭”**の影。そのおぞましい内容が、目の前の黒い液体の分析結果と合致し、彼らの思考を深く蝕んでいた。
「……つまり敵は戦争をしているのではなく、**“収穫”をしているのだと」
ラージン翁がその深い皺の刻まれた顔をさらに険しくさせ、唸った。
「ジルたちが大地を揺らせば民が恐怖し、それが供物となる。我々が兵を殺せば、その断末魔が供物となる。……我々が戦えば戦うほど、敵は“豊作”**となる。……これほど冒涜的な戦いがあるか」
「まさに外道ですな」
エクレアが静かに同意する。その視線は、かつてオクターブを蝕んでいた黒い小瓶へと向けられていた。
「以前、儂がこの血を解析した時、その『絶望の濃度』に位階があると言ったのを覚えておるか?」
「ええ」ノベルが頷く。「一般市民から搾り取る『数の絶望』、騎士などから搾り取る『誇りの絶望』……でしたな」
「うむ。タンガの報告と照らし合わせれば、その意味がより明確になる。……奴らは、一般兵の断末魔で“量”を稼ぎ、オクターブ殿のような高潔な魂で“質”を稼いでおるのじゃ。まるで大量の薪で炉を燃やし、選び抜かれた鉱石だけを溶かして、何か特別なものを鋳造しようとしているかのようにな」
ロスコフはただ黙って報告書を見つめていた。彼の科学者としての脳は、このあまりにも非論理的で理解不能な敵の行動原理をどう数式に落とし込めばいいのか、答えを見つけられずにいる。
殺せば殺すほど相手を利する。こんな矛盾した戦いをどうすれば……。
その行き詰まった空気を破ったのは、軍師ノベルの声だった。
「……一つだけ。この状況を打開するための鍵があるとすれば」
彼は顔を上げ、ロスコフに告げる。
「それは、まさに我々が救い出し、保護している**“生還者たち”**です。彼らの記憶と、彼らを救った『光』こそが、敵の理を解き明かす鍵となりうる。……ロスコフ様。マルティーナ様とシャナ殿にお越しいただくよう、お願いしてはいかがでしょう」
数分後。
ノックの音と共に、マルティーナとシャナが談話室へと入室した。マルティーナの表情は穏やかだったが、その瞳の奥には女神の分身としての揺るぎない光が宿っている。
「……話は聞きました」
マルティーナは席に着くと静かに口を開いた。
「あなた方が今、直面している敵の正体。……それは、オクターブをあのような姿に変えた者たちと同質。いいえ、それよりもさらに狡猾で組織化された存在のようですね」
シャナがその言葉を引き継ぐ。彼女の声には、仲間を傷つけられた怒りの炎が燻っていた。
「オクターブがうなされていた時、彼はうわ言のように呟いていました。『古き誓いは忘れよ』……『大いなる恩寵が汝を新たな器へと作り変える』と。……あれは、奴らが彼に植え付けようとした呪いの言葉だったのです」
「……器……!」
レザリアがはっと息を呑んだ。
その瞬間、談話室にいた全員の脳裏で、バラバラだった情報が一つのおぞましい結論へと収束し始めた。エクレアがその結論を言葉にする。
「……ノクレイン司祭とかいう男。そしてその奥にいる“何か”。……奴らは兵士や民の絶望を**“餌”として喰らい、そしてオクターブ殿のような質の高い魂を“器”**として作り変えようとしている。……何のための?」
沈黙。その答えを導き出したのはロスコフだった。彼はそれまで黙って聞いていたが、その瞳にもはや混乱の色はない。科学者としての探求の光が宿っていた。
「……もし、彼らが我々の想像を超える何か……例えば、**“神”**のような存在を、この世界に降臨させようとしているのだとしたら?」
それはあまりにも飛躍した仮説。だが全ての辻脟が合ってしまう唯一の答えだった。
エクレアが以前語った「世界の理を地獄へと書き換えるテラフォーミング」という推論が、現実味を帯びて彼らにのしかかる。
「……なるほど」ノベルは頷いた。「餌で力を蓄えさせ、器でその顕現を促す。……そしてカリスト将軍の軍隊は、その**“儀式”を遂行するための“祭壇”**そのもの。あるいは彼の軍の陣形そのものが、特定の場所で巨大な魔法陣を形成しているのかもしれません」
敵の目的が見えた。ならば打つべき手は一つ。
ロスコフは顔を上げ、全員を見渡す。
「――我々がやるべきことは二つあります。
一つは、敵の**“収穫”を止めること**。ジルとタンガには引き続き敵の進軍を妨害してもらっているが、彼らだけでは限界です。**“恐怖”を与えればそれが餌になるのであれば、我々は“恐怖以外の何か”**で彼らの足を止めなければなりません。兵士たちには誇りを守り抜いて死ぬ姿を敵に見せつけろと。民衆には恐怖に叫ぶのではなく、団結して歌えと伝えて下さい。絶望以外の感情でこの戦場を飽和させる事が必要なんです。」
そしてもう一つは、と彼はマルティーナへとその視線を向けた。
「……敵の**“儀式”そのものを破壊すること**。マルティーナ様、オクターブ殿を救ったあなたのその**“揺るぎない光”は、シャナ殿が言う『黒い泥のような呪い』に対する我々の唯一の防護壁**となるかもしれません。あなたの存在そのものが、敵の儀式を感知し乱すための戦略的“武器”だと私は思っているのです」
ロスコフは力強く続けた。
「オクターブ殿が抗った、『古き誓いを忘れよ』という言葉。……ならば我々が対抗する武器は物理的な力だけではない。……“決して忘れぬ意志”、“揺るがぬ誇り”、そして“受け継がれてきた記憶”。これから行うのはただの防衛戦ではありません。兵士一人ひとりの魂から**“餌”としての価値を奪い取る、精神的なカウンターアタックだ**」
それは新たな戦略の産声だった。
ただ敵を殲滅するのではない。
敵の**“目的”を理解し、その“理”**そのものを逆手にとって打ち破る。
絶望の淵から初めて一筋の光が見えた瞬間だった。
◇
二つの戦線
絶望の淵から初めて一筋の光が見えた瞬間だった。
だがその光を現実のものとするための道筋はあまりにも険しい。
「……つまり我々がやるべきことは二つ」
ロスコフが締めくくる。
「**“儀式”の破壊と“収穫”**の妨害。……そしてそれを成すための、魔導アーマーの改良にある」
しかしその言葉にノベルが厳しい現実を突きつけた。
「……ロスコフ様。忘れてはおられませんか」
ノベルは厳しい視線を主君に向ける。
「我々の背後には未だラガン王国軍が睨みを利かせています。アンヘイムの守りを空にするわけにはまいりません。……北へ割ける魔導アーマーは良くて数機。それが限界でしょう」
ロスコフは静かに頷いた。
「……分かっています。だから今回は少数精鋭で行くつもりです」
翌日。ワーレン家の練兵場。
そこには三機の魔導アーマーとその搭乗者たちが集っていた。
隊長であるマスターナイトのゲーリック。その右腕であるクーガー。そして戦死したケルギギスの後任として、新たに抜擢された若き騎士、ルーカス。
彼ら3名が今回の作戦の中核となる魔導アーマー部隊の全てだった。
マルコは、アンヘイムの守り及び仮設のワーレン邸の者たちを守る重要な役目に残すことにしていた。彼は初め「何故自分だけ?」と反発したが、ロスコフから「最終的に家の者たちを誰が守ってくれるんだ?」と問われると、「分かりました」と力強く頷いてくれたのだ。
そしてその少数精鋭を補うために集ったのが、もはや人外の領域に足を踏み入れたプロフェッショナルたち。
マルティーナとシャナ。そして“闘神”ゲオリク。
護衛としてリバックとロゼッタも控えている。
さらに、この部隊はただの進軍ではない。
北部国境で、今まさに命を削って敵を食い止めている二人の男――“岩壁”のジルと“穿界者”のタンガを**「救出」**し、前線を交代するという重大な任務も背負っていた。
まさに後の語り草となるだろう、至高の陣容であった。
だが、その完璧であるはずの布陣に一つの影が落ちた。
「――ロスコフ様! お待ちくださいませ!」
練兵場を横切り、血相を変えて駆け込んできたのはノベルとラージン翁だった。
「……どうなさいました、お二人とも。そんなに慌てて」
「慌てますとも、ロスコフ様!」
ノベルは荒い息を整えながら、一枚の羊皮紙を差し出した。
それはリバンティン公国政務院が発行した、正式な辞令だった。
「……ルクトベルグ公爵が……エイゼン殿とグリボール殿を、
ラガン王国の首都ロット・ノットへ派遣すると!
我々には何の相談もなしに、です!」
「……なんですと?」
ロスコフの声は静かだったが、眉間には深い皺が刻まれた。
ラージン翁が重々しく続ける。
「……分かっておいでか、ロスコフ様。
エイゼン殿は我らの“目”。
そしてグリボール殿は、その目を守る“拳”。
この二人を同時に失うなど……片腕をもがれるに等しい」
ロスコフは短く息を吐いた。
「……事情は理解しました。すぐに司令部へ向かいましょう。
話は、それからです」
ロスコフの声はあくまで冷静だった。
だがその奥には、氷のように静かで、確かな怒りが潜んでいた。
リバンティン公国・政務院司令部。
ロスコフの理路整然とした抗議に対し、
ルクトベルグ公爵はただ静かに首を横に振った。
「……ワーレン侯爵。貴殿の言い分はもっともだ。
私も理解はしている。だが、これは国家としての決定事項なのだ」
「しかし公爵閣下!」
ノベルが思わず声を荒げる。
「なぜ今なのですか! 北の脅威が迫るこの時期に、よりによってエイゼン殿とグリボール殿を!」
ルクトベルグ公爵は疲れたように息を吐き、
しかしその声音は冷静そのものだった。
「勿論だとも。北のロマノス帝国は脅威だ。
だが――我々が北に気を取られている隙を、
南のラガン王国が見逃すと思うかね?」
公爵は地図の南側、ラガン王国の首都『ロット・ノット』を指差した。
「最近、ラガンの暗部で妙な噂が流れている。
『ヴェルミナス環』……そして、それを率いる男の名だ」
「……ヴェルミナス?」
ロスコフが眉をひそめる。聞いたことのない名だった。
「正体不明。目的も不明。
だが、ラガン内部の抗争を勝ち抜き、急速に勢力を拡大しているという噂だけがある。
……問題はな、ワーレン侯爵」
公爵の声がわずかに低くなる。
「我が国の諜報網をもってしても、
これ以上の情報が――『全く』入ってこないことだ」
公爵の声に、焦燥が滲む。
「ロット・ノットは我々に取って、大陸で最も危険な都市の一つだ。欲望と暴力が支配し、情報の深淵となっている。……いいか、ワーレン侯爵。現在、アンヘイムが包囲されながらも、かろうじてこの膠着状態を維持できているのは、南のラガン軍が無能で、内輪揉めをしているという“幸運”のおかげに過ぎん」
公爵は地図上の『ロット・ノット』を指で強く叩いた。
「だが、もしこの『ヴェルミナス環』が首都の混乱を収拾し、ラガン王国を裏から掌握してしまったらどうなる? 無能な烏合の衆が、**“冷徹な軍隊”**へと生まれ変わる。……そうなれば、今の均衡など瞬く間に崩れ去る」
公爵はロスコフを真っ直ぐに見据えた。
「貴殿らが北の帝国軍と死闘を繰り広げている最中に、背後から正確無比な刃を突き立てられることになるのだよ」
「……つまり」エイゼンが低い声で割り込んだ。「俺たちに、その闇の巣へ飛び込んで、南の軍が“化ける”前に、その正体を暴いてこいと?」
「そうだ。何も分からぬまま、戦う危険は犯せんのだ、せめて敵の根幹を成す者たちの事を知っておく必要がある、この作戦を行い、生きて情報を持ち帰れる可能性があるのは、この国でお前たちしかいないと私は思っておる」
公爵はさらに畳み掛けるように言った。
「南の“巣”は危険だ。護衛としてリバックかロゼッタを回せぬか?」
沈黙が場を支配する。その重い空気を破ったのはロスコフだった。
彼は静かに一歩前に出ると、公爵をまっすぐに見据えた。
「……公爵閣下。貴方のご判断、理解いたしました」
その落ち着き払った声にノベルは驚いて主君の顔を見た。
ロスコフは続ける。
「エイゼンとグリボールの派遣、承知いたしました。……ですが、リバック殿とロゼッタ殿を南へ回すことはできません」
「何故だ?」
「彼らは北の怪物たちに対抗するための**“必要不可欠な盾と剣”**だからです。彼らなくして、北の戦線は維持できません。この点だけは、譲れません」
ロスコフの瞳には、単なる感情論ではない、冷徹な計算と現場への責任感が宿っていた。
公爵はその眼差しを受け止め、唸った。
「む……しかし、回復役もなしにエイゼンたちを死地へ送れと言うのか? 相手はラガン王国の中心部なのだぞ」
「ええ。……代案がございます」
ロスコフは後ろに控えていた僧侶を呼び寄せた。
「パトリック・モーリー殿。彼を南の部隊に同行して貰いましょう。」
その指名に、ノベルが慌てて口を挟む。
「ロスコフ様、正気ですか!? ラガン王国において、宗教は禁忌。噂として伝えられている情報からは、回復魔法の使い手は、かの国では大変貴重な資源とみなされ、権力者の専用傍付きとして高額で取引される商品とみなされておるとの事、見つかれば即座に捕らえられ、何処とも知れない場所へ売られる、そんな事になるのですぞ!
「ロスコフ様、正気ですか!? ラガン王国にクレリックであるパトリックを向かわせる等、正気の沙汰ではありません。あの国で回復魔法の使い手は、もはや人間ではなく、権力者が囲い込む『高額な商品』に過ぎないのです! 一度見つかれば最後、即座に捕らえられ、どことも知れぬ場所へ売り飛ばされるのが関の山……そんな事になるのですよ!」
ラガン王国。そこは拝金主義と実力主義が支配する国。
神への祈りは軽視され、回復魔法は「奇跡」ではなく「高価な消耗品」として扱われる。僧侶が公然と歩けば、人攫いの格好の餌食となる土地なのだ。
「はい承知の上です」
ロスコフはパトリックに向き直り、真剣な眼差しで問うた。
「パトリック殿。君には僧侶としての法衣を脱ぎ、身分を隠して潜入してもらうことになる。一度でも癒しの力を見せれば、君自身が商品として狙われることになるだろう。……それでも、行ってくれるかい?」
パトリックは一瞬蒼ざめたが、すぐに覚悟を決めた表情で頷いた。
「……エイゼンやグリボールさんは、私の大切な仲間です。彼らが傷ついた時、誰が癒すのですか。……地獄の底だろうと、お供しましょう」
「……感謝する」
ロスコフは再び公爵に向き直った。
「……というわけです、公爵閣下。彼には私の開発した『偽装用の魔導具』を持たせます。……これで、手を打っていただけますか?」
「……よかろう。ワーレン侯爵、貴殿の覚悟、しかと受け取った」
◇
司令部を出た後。エイゼンは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに口を開いた。
「……無茶しやがるぜ、パトリック、ラガンの都**『ロット・ノット』**がどういう所か知ってて頷いたのか?」
エイゼンは南の方角を睨みながら、その街の異常性を説明する。
「いいか、パトリック。お前の回復魔法は、あの国じゃ命の代わりじゃねぇ。金の代わりだ。見つかりゃ、お前は**籠の中の金糸雀**さながら、一生飼い殺しにされちまうって言う話なんだぜ」
グリボールが鼻を鳴らして続ける。
「そうじゃ。俺たちが潜るのは……ロットノットそのものだ。
あの街がどういう造りをしてるのかなんざ、外の人間には分からんが――」
彼は肩をすくめた。
「ただ一つだけ聞いたことがある。
あそこは巨大な組織がいくつもひしめき合って、
夜な夜な血を流し合う“抗争街”だってことだ。
運が悪く巻き込まれりゃ、命がいくつあっても足りん……
そういう場所だって噂だけは、昔から知っとる」
長期間の潜伏など不可能だ。
目的は一つ。謎の組織『ヴェルミナス環』と、その国に巣食う他の危険分子の情報を掴みとり、生きて持ち帰ること。
完全な**「ヒット・アンド・アウェイ」**の隠密任務。
「……私の回復魔法は、絶対に必要な時以外、使わない様にします」
パトリックは、渡されたばかりの地味な旅装束に袖を通しながら言った。
「その代わり、薬草学の知識で皆さんを支えますから。……足手まといにはならないつもりです」
「へっ、頼もしいこって」
エイゼンはニヤリと笑い、パトリックの背中を叩いた。
「安心しな。万が一、お前を奴隷にしようなんて馬鹿が現れたら、俺とグリボールがその店ごと叩き潰してやるよ」
「――フンッ! 当たり前じゃ!」
グリボールが戦斧を担ぎ直す。
「わしらの回復役を奪おうなどと、ラガンの王だろうが許さんわ!」
こうしてロスコフの陣営は二つに分かれることになった。
ゲーリックたち魔導アーマー部隊と、マルティーナ、リバック、ロゼッタらの混在チームは北へ。**“神の儀式”そのものを破壊し、死に物狂いで戦う仲間を救うために。
そしてエイゼン、グリボール、パトリックは南へ。
身分を隠し、欲望と暴力が支配する魔都『ロット・ノット』へ短期間潜入し、謎の組織“ヴェルミナス環”の正体を暴く**ために。
それぞれの戦いが、今、始まろうとしていた。
アンヘイムの司令部を後にしたロスコフ、ノベル、ラージン翁の三人は、しばらく無言で石畳の上を歩いていた。
重い沈黙を破ったのはラージン翁だった。
「……しかし解せんな。ルクトベルグ公はなぜ我々に一言の相談もなかったのじゃろうか。エイゼン殿たちはワーレン家縁の者として政務院には出向しておる。それを勝手に他国の危険地帯に送り込む等、礼を欠くにも程があると思うんじゃがのぉ」
その素朴な、しかし本質を突いた疑問に、ロスコフも静かに頷いた。
「……ええ。私も正直腑に落ちません。まるで何かから逃げるように決定を急いでいたように感じましたね」
ノベルは、ずり落ちかけた丸眼鏡を指先で静かに押し上げた。
「……見えてきましたね。輪郭が」
その声音は、いつもの穏やかさとは違っていた。
どこか怜悧で、まるで全てを見透かしているかのようだった。
「……おそらく、公爵閣下は我々に“反対する時間”を与えたくなかったのでしょうな」
「……どういうことですか、ノベルさん?」
ノベルは立ち止まり、二人へ向き直る。
レンズの奥の瞳を細めると。
「公爵閣下の論理は完璧でした。
ロット・ノットへ派遣できるのはエイゼン殿とグリボール殿しかいない――
それ自体は事実です。……しかし問題はそこではない」
ノベルの瞳が鋭く光る。
「“なぜ今、それほどまでにラガン王国の情報を急いで欲しがるのか”。
本来であれば、我々ワーレン家が総力を挙げて北の怪物に立ち向かおうとしている今、
公爵閣下は助力こそすれ、戦力を削ぐなどあり得ないはずです」
ノベルは静かに、しかし熱を帯びた声で続けた。
「確かに、北の進軍を抑えると申し出たのはロスコフ様です。
ですがそれは、公国軍がアンヘイム防衛で手一杯な情勢を鑑み、
我が家の私兵のみで時間を稼ぐという、身を挺しての提案でした」
そして、わずかに息を吐く。
「だというのに……公爵閣下はこの存亡の機に、
あろうことか我々の最強の“目”を南へ追いやった」
ノベルは冷ややかに言い放つ。
「……軍事的には愚行です。
ですが、もしこれが“北の戦いが終わった後”を見据えての判断だとしたら?」
「……まさか」
ロスコフが息を呑んだ。
「……ええ。あくまで私の推測ですが」
ノベルは淡々と続けた。
「公爵は“恐れている”のですよ。我々ワーレン家がこの対ロマノス戦でさらに功績を上げ、
民衆の支持を集め、公国の中で“大きくなりすぎる”ことを。
だからこそ今のうちに我々の力を削ぎ、
同時に戦後の“対ラガン王国”という次の主導権を握るための情報を
先に押さえようとしている。……今回の決定は、我々への“牽制”なのです」
その分析はあまりにも冷徹で、しかし恐ろしいほどに筋が通っていた。
ラージン翁は言葉を失い、喉を鳴らすことしかできない。
「……では、なぜあの場でそれを追及しなかったのです?」
ロスコフが問う。
「……追及すればどうなります?
議論は平行線を辿り、我々は公爵と完全な対立関係に入る。
今はその時ではありません。北の脅威を前に、内輪揉めをしている余裕などない」
そして、決定的な一言を告げた。
「――それにロスコフ様。今回の一件で、我々は“主導権”を握ったのですよ」
「……主導権?」
「ええ。思い出してください。
エイゼン殿とグリボール殿は確かに我々と行動を共にしていますが、
その籍は政務院にあります。彼らは“公国の諜報員”です。
本来であれば、公爵閣下が彼らに直接命令を下すことに何の問題もない。
我々が口を挟む権限など、本来は無いのです」
ノベルの瞳が、氷のように鋭く光った。
「にもかかわらず、公爵閣下は我々に“言い訳”をし、
そしてロスコフ様――貴方様の“許可”を得るという形を取った。
……なぜだと思われますか?」
ロスコフははっと息を呑んだ。
「……それは」
ノベルが静かに続ける。
「……公爵閣下自身が“理解している”からです。
エイゼン殿たちは単なる駒ではない。“ワーレン家の意志”と一体化している。
そして彼らの心を動かせるのは、公爵の命令書ではなく――
ロスコフ様、貴方様の言葉だけだということを」
それは驚くべきパワーバランスの逆転だった。
公爵は公式な指揮権を持つ。
だがワーレン家は、彼らの“義理”をその手に握っている。
「……だからこそ、我々は今回“貸し”を作ったのです」
ノベルはそこで一度言葉を切り、静かに息を整えた。
「『公国の危機に際し、我々は私情を飲み込み、公爵の命令を尊重した。
そして我々が持つ彼らへの恩義と絆を通して、その心を動かし、
彼らを死地へと送り出した』――
この事実は、今後我々と公爵が対立した際、
どちらに“大義”があるかを決定づける最も強力なカードとなります」
ロスコフは、自らの軍師の底知れない思考の深さに戦慄した。
だが同時に、仲間を奪われた怒りが胸の奥で燻っている。
ノベルはその“理不尽な人事”そのものを、
“未来の政治闘争を有利に進めるための布石”へと昇華させていた。
エイゼンとグリボール、そしてパトリックをこの状況で失う痛みは大きい。
だがその代償としてワーレン家は、
“公爵との見えざる主導権争い”において決定的な一歩を踏み出したのだ。
そしてロスコフの心の奥底には、
もう一つ、決して消えることのない感情が刻まれていた。
それは、国の未来を託す指導者として抱いていた
ルクトベルグ公爵への信頼に、静かに影が差し込んだ瞬間だった。
それはまだ“疑念”ではない。
けれど、以前とまったく同じ気持ちには戻れない――
信頼の底に生じた、かすかなゆらぎだった。
◇
鋼鉄の試練
エイゼンとグリボール、パトリックの3人が南へと旅立った翌日。
ワーレン家の魔導アーマー工房はこれまでにない緊張感と熱気に包まれていた。
「――やはり無理です!」
ロスコフが工房の床に広げられた巨大な地図と設計図を交互に睨みつけながら叫んだ。
「ノベルさん! ラージン翁! これを見てください!」
彼は二人の頭脳を呼びつけ、地図上の広大な北部国境地帯を示す。
「アンヘイムからこの最前線まで馬を飛ばしても十日以上。……我々が予備パーツや整備機材を満載した幌馬車隊で進むとなれば、到着まで最低でも二十日は見ておくべきです」
ロスコフは工房の隅で議論を聞いていたエクレアとレザリアへと向き直った。
「その上でエクレア叔母様。ジルさんの強大な気配を辿り、おおよその位置を特定することは可能でしょうか?」
その問いにレザリアがすっと静かに手を上げた。その凛とした佇まいに周囲の者たち全員の視線が自然と彼女へと集まる。
「――その役目……私にお任せいただけませんでしょうか」
彼女がそう宣言した瞬間、その身から放たれる静かな意志に応えるかのように、彼女の指先に微かな稲妻が走り、髪がふわりと逆立った。
それは彼女が既に大秘術師としての力をその身に宿していることの証左だ。
ロスコフは一瞬戸惑い、大師匠エクレアへと視線を向ける。エクレアはただ静かに深く頷いてみせた。
「……それじゃあレザリアさん。お願いできますか?」
「はい。ジル兄さんの“大地”と、私の“雷”はその源流を同じくする“自然の律”。
……その強大な気配が“最も強く共鳴する場所”を指し示すことで、大まかな位置は特定できるはずです。」
「……じゃがのぉ、その気配を辿るということは」**
エクレアが鋭く指摘する。
「あの北の戦場を満たす**“絶望の穢れ”**に、お主自身の感覚を晒すということじゃぞ。並の精神力では気配を追う前に心を焼かれる」
「承知の上です、師匠」
レザリアは揺るがぬ瞳で返した。
「この身に宿る雷の律は、邪気を払う浄化の光でもあります。……必ず、ジル兄さんの元へ導いてみせます」
「……十分です」
ロスコフは頷くと再び地図へと向き直った。その表情はさらに険しい。
「捜索範囲を絞れても合流までに数日はかかる。……そして敵地で機体が破損したらどうするのです!? ゲーリック隊長たちだけでは専門的な修理は不可能だ! 設計思想を理解していない者が下手にいじればシギルの暴走すらあり得る! ……だめだ。これでは彼らを夢の残骸と一緒に死なせに行かせるようなものです……!」
その天才の悲痛な叫びに、ノベルとラージンはただ黙って顔を見合わせるだけだった。
その行き詰まった空気を破ったのは、レザリアの隣に居る氷紋のエクレアの静かな声だった。
「――ならばロスコフ様。貴方様も共に行かれればよろしい」
そのあまりにもシンプルな答えに全員が息を呑んだ。
「……私が……ですか?」
「左様。貴方様はこの鉄の巨人たちの**“生みの親”**でしょう。ならばその子供たちの初めての長旅に親が付き添うのは当然の務めではございませんか?」
ロスコフは迷った。工房にはまだ山積みの研究があり、アンヘイムの守りも怠れない状況なのだ。
「……しかし……」
その最後の躊躇を打ち砕いたのは、彼の背後からそっと肩に置かれたアンナの手だった。
「――私もお供いたしますわ、あなた。このワーレン家の全てを懸けた旅ですもの。当主の妻として、その行く末を見届けませんと」
彼女の声には、ただ夫を案じるだけではない、家の命運を共に背負うという強い覚悟が宿っていた。
その一言が全てを決めた。
ロスコフは顔を上げ、覚悟を決めた瞳で仲間たちを見渡して。
「……分かりました。行きましょう私も」
そして彼は、静かに、しかしはっきりとノベルに告げた。
「……ノベルさん。我々は今、北の脅威だけでなく、公国の内側にも油断できない相手を持つことになってしまいました」
ロスコフの瞳に、今まで見たことのない政治的な闘争心のような光が宿る。
「私が工房に残れば、この政治的な闘争から逃げたことになるでしよう。私が前線に行くことは、北の脅威への対処であると同時に、公爵に対する**『我々が勝てば、全ては我々の功績となる』**という静かな宣言にもなります」
その主君の覚悟を受け待っていたかのようにノベルが声をかける。
「賢明なご判断ですロスコフ様。貴方様が**“剣”をお作りになるのであれば、その剣をいつどこで誰に振るうべきかを考える“鞘”**も必要でしょう。……このノベルも微力ながらお手伝いさせていただきましょう。」
決まると、次に皆はラージンを見た。その動向に注目が集まる。
だがそれに対し、ラージンが静かに首を横に振ったのだ。
「……いや、儂はここに残った方が良いと思っておる。……儂には旅はもう無理じゃ、それにここには儂の戦場がある。主力が北へ向かうということはこのアンヘイムの守りは手薄になる。残された魔導アーマー部隊の配置案を考える役目は儂が引き受けましょう」
それは老賢者の覚悟の言葉だった。
「……はい、ラージン先生。……ありがとうございます。留守をお任せいたします」
「うむ。……その代わり面白い土産話と**“夢の続き”**が描かれた新しい設計図を期待しておるからの」
「ええ、勿論ですとも」
ロスコフが力強く頷いた、その時だった。
それまで積み上げられた資材用の木箱に腰を下ろし、腕を組んで聞いていたエクレアが、ふぅ、とわざとらしい溜息をついて立ち上がった。
「……仕方がないのう。ロスコフ様が行かれるのであれば、儂も参るとしようか」
その言葉に、ロスコフとレザリアが驚いて振り返る。
「えっ、叔母様も!?」
「師匠、よろしいのですか?」
「構わんよ。それに……」
エクレアは、隣に立つレザリアを見上げ、ニヤリと笑って鼻を鳴らした。
「未熟な弟子の行末を、この目で見てやらねばならぬしのぉ? レザリア。ジルの奴に会う前にへばるでないぞ」
それは、師匠としての不器用な優しさと、最強の援軍としての頼もしい宣言だった。
こうして同行者は定まり、物語の歯車が静かに噛み合った。
◇
旅立ちの朝
――翌朝。
ワーレン家に与えられた仮屋敷の前の通りは、早朝にもかかわらずこれまでにない喧騒と活気に包まれていた。
北への長旅のため編成された六台の巨大な幌馬車が通りをほぼ塞ぐ形で一列に並んでいる。
だが、その賑わいの中に、冷ややかな現実が紛れ込んでいた。
幌馬車隊の荷台、予備機材や食料の間に、**布に包まれた数本の「棺桶」や「折り畳み式の担架」**が、ひっそりと固定されていたのだ。
アンナはその荷物に一瞬だけ視線を向け、目を細めた後、夫であるロスコフの元へと歩み寄った。
生きて帰る保証はない。これは凱旋の行進ではなく、死地への巡礼なのだ。
ゴゴゴゴ……。
一体の【セントリス】型魔導アーマーが、その鋼鉄の腕で、木枠に固定された予備機材を抱え上げ、幌馬車の荷台へとそっと寝かせていく。
高さ2.3㍍強の鋼鉄の巨人。その動きは機械的ではなく、まるで人間そのものの滑らかさで動いている。
その鎧とも言うべきモノを**“纏って”いるのはゲーリックだ。
彼は分厚い鋼鉄の装甲の内側に彫られてある、背中の「マスターシギル」を通して機体と神経を接続し、自身の肉体の動きを魔力で増幅させているのだ。彼が腕を動かせば、鋼の腕が唸りを上げて追従する。それはまさに、“魔導の力で動く第二の皮膚”**とも言うべき代物だ。
「……あれが……噂に聞く“魔導アーマー”ね……!」
テラスから眺めていたマルティーナが息を呑む。
「……信じられん。あのような分厚い鉄の塊を、まるで薄布のように軽々と着こなすというのか」
シャナもまた、その常識外れの魔導兵器から目を離せずにいた。
その傍らで、ゲオリクは柱に寄りかかったままちらりと一瞥しただけだった。
「……遅い。戦場であの重量は、防御にはなるが足枷にもなる」
呟いてすぐに興味を失ったように視線を逸らしてしまう。それが最強の武人としての率直な評価だった。
その言葉は、ちょうどテラスの近くを通りかかったロスコフの耳にも届いた。
彼は歩みを止め、ゲオリクの方へ視線を向ける。
「その通りです、ゲオリク殿。現在のセントリスは防御重視の設計で、
あなたの戦闘速度にはついていけないでしょう。……しかし」
ロスコフは鋼鉄の巨人を愛おしそうに見上げた。
「あなたたちの戦いを通じて、我々は**『移動性と防御力を両立する次世代の設計思想』**を見つけ出してみせます。……この旅は、そのための巡礼でもあるのです」
そうしていると、やがて全ての準備が整った。
ロスコフは工房の入り口で執事のエスターと侍女長のモーレイヌへと向き直った。
「――エスター、モーレイヌ。……私が不在の間このワーレン家の皆の事を頼みます」
「「御意」」
二人の揺るぎない忠誠心にロスコフは力強く頷いた。そして彼はキャラバンの先頭へと歩みを進め、集った全ての仲間たちを見渡した。
彼の向かい側に座っていたノベルが早速、幌馬車隊の隊列と進軍ルートが記された地図を広げ、指で何度もなぞりながら思考を巡らせていた。
「――皆、準備はいいか」
ロスコフの静かな問いかけに仲間たちが力強く頷く。
かくして**“鋼鉄の巡礼”**の一行は、アンヘイムの民の不安と期待の眼差しを浴びながら、ゆっくりと北の門へとその駒を進め始めたのだった。
今回も長文を最後まで読んで下さりありがとう、引き続き次話を見かけたら読んでみてください。




