ロマノスからの脅威
その190
――共鳴の探求
アンヘイム司令部での謁見を終え、仮邸宅の書斎へと戻ってきたロスコフを出迎えたのは、作戦の詳細を詰める仲間たちと、そして一つの新たな**“問い”**だった。
「――ロスコフ様」
声をかけてきたのは師の解放という大役を果たし、どこか憑き物が落ちたような、しかし秘術師としての鋭さを増したレザリアだった。
彼女の隣には心配そうに付き添うエクレアの姿もある。
「……師の解放が終わり、今なら取り掛かれます。……あの**“奇跡”**の究明に」
レザリアの真摯な瞳がロスコフを見据える。
“奇跡”。その言葉が指し示すものは一つしかない。
アンヘイム防衛戦の激戦のさなか。ブラッドレインの首領ジャルダンヌとの戦闘中、部下であるケルギギスを無残に殺されたゲーリックの魔導アーマーが突如蒼白の、そして虹色の光を放ち、神の使徒であるジャルダンヌを一方的に蹂躙したあの不可解な現象。
ロスコフも頷く。
「……うん。私もずっと気になっていたんだよ。あれは通常の魔力反応ではなかったね。まるで搭乗者の**“意志”**が機体の物理法則を上書きしたかのような……」
「――その件、儂にも聞かせてもらおうかのぉ」
静かに、しかし有無を言わせぬ響きで会話に加わってきたのはエクレアだった。
彼女はロスコフとレザリアの間に立つと言った。
「……レザリアから話は聞いた。蒼白の光。虹色の斬線。再生能力の完全な停止。……そして何より、搭乗者が極限の**“怒り”**に支配されていたということ」
その言葉にロスコフは目を見開く。
「……何かご存知なのですか、エクレア叔母様!?」
「知らん」
エクレアはあっさりと首を振る。
「儂の時代には魔導アーマーなぞ存在せんかったからの。……だがのぉ」
彼女の鷲のような鋭い瞳が、部屋の隅に控えていた一人の騎士を射抜く。
「――あの騎士の隊長をここに呼んでくれぬか」
◇
数分後。
書斎にはロスコフ、エクレア、レザリア、そして呼び出されたマスターナイトのゲーリック、その四人だけが残っていた。
ゲーリックは主君と二人の高名な秘術師に囲まれるという異様な状況に、ただならぬ緊張を感じていた。自分が何か粗相でもしたのだろうか。
その硬い表情を見て取ったのか、ロスコフが穏やかな声で口を開く。
「……ゲーリック。そう緊張しなくてもいいよ。お前を責めるために呼んだのではないのだからね。……むしろその逆だよ」
ロスコフはそこで一度言葉を切ると、真摯な瞳で部下を見据えた。
「我々は今、魔導アーマーの改良という壁にぶつかっている。【レプルシオ・マジカ】の実装で精神攻撃への防御力は確かに上がった。だが、あれはあくまで**“応急処置”**だ。魔晶石のエネルギーを際限なく喰い続ける燃費の悪い付け焼き刃に過ぎん。……このままではまたケルギギスのような犠牲者を出すことになってしまうだろう」
ケルギギス。
その名が出た瞬間、ゲーリックの表情が悔しさに歪む。
ロスコフは静かに頷くと続けた。
「……だが我々の研究にはまだ**“道標”がある。それはお前があの絶望的な状況下で見せてくれた“奇跡”**だ。……あれは我々がいつか辿り着かねばならない遥か先のゴールを示しているのかもしれない」
彼はエクレアとレザリアへと視線を移す。
「……だから我々はそれを知りたいのだ。奇跡や偶然で終わらせるのではなく、**“理論”**として理解し未来の我々の力へと繋げたい。……その第一歩としてお前の力と記憶が必要なんだ。協力してくれるだろ?」
それは主君からの命令ではなかった。
一人の研究者から仲間への真摯な**“依頼”**だ。
ゲーリックの迷いは消えた。彼はまっすぐに主君を見つめ返すと力強く頷く。
「――御意。我が身の全て、お使いください」
ゲーリックは意を決してあの極限状況での体験を語り始めた。
「……怒り、です。それ以外、何も覚えておりません」
その言葉を聞いた瞬間、エクレアとレザリアの表情が変わった。
「……やはりか」
エクレアが深く頷く。
「レザリアよ。……その隊長の**“魂”と“マスターシギル”**の残響を視てみよ」
レザリアは緊張した面持ちでゲーリックの後ろに立つと、そっとそのシャツを脱がし、顕になった背中のマスターシギルに手をかざした。
彼女の掌に蒼白い【符光律】が浮かび上がる。
やがてレザリアははっと息を呑んだ。
「……師匠、ロスコフ様……! これは……!」
彼女が視ていたのは、彼の魂の表面にまるで雷に打たれた大樹の焦げ跡のように、魂が焼き切れるほどの凄まじい魔力奔流の“痕跡”。そしてその痕跡は、彼の背中に埋め込まれたマスターシギルへと繋がっていた。
「……ッ」
レザリアの言葉に呼応するように、ゲーリックが苦痛に顔を歪め、無意識に胸元を強く抑えた。
あの戦いから数日が経っているにも関わらず、彼の体は鉛のように重く、時折激しい頭痛が彼を襲っているらしい。共鳴の代償は、確実に彼の生命力を削り取っていたのだ。
「……間違いない」
エクレアがその様子を見て静かに告げる。
「その現象は神の奇跡などではない。……**“共鳴”**だ」
「共鳴……!?」
「うむ。搭乗者の極限の感情――この場合は**“怒り”が触媒となり、魂とシギルが本来あり得ないレベルで“共鳴”**したのじゃ。……その結果、物理法則を一時的に書き換えるほどの力を得た。そう考えるのが筋だろう」
それは科学と理論の徒であるロスコフにとって、あまりにも荒唐無稽で、しかし何よりも魅力的な仮説だった。
「……感情が物理法則を書き換える……」
ロスコフは呆然と呟いた。
そして次の瞬間。
彼の瞳に狂気的とも言えるほどの探求の炎が静かに燃え上がった。
「……素晴らしいよ……! なんと興味深い……!」
彼はゲーリックへと向き直ると、その丁寧な口調はそのままに、しかしかつてないほどの熱量を込めて語りかけた。
「……ゲーリック隊長。早速ですが貴方の体を隅々まで調べさせていただきたい。魂に残ったその“傷跡”を徹底的に解析するのです。……そしてレザリア殿! 貴女にもご協力をお願いします! その**“魂とシギルの共鳴パターン”を理論化できれば……! そうです、“感情”を“トリガー”**とする新たな制御システムが……!」
それは新たな扉が開かれた瞬間だった。
だが、その暴走しかけた天才の探求心を静かに、しかし凛とした声で制したのはエクレアだった。
「――お待ちください、ロスコフ様」
その静かだが有無を言わせぬ声に、ロスコフははっと我に返った。
「その“共鳴”とやらは、確かにいつか貴方様の切り札になるやもしれません。ですがそれは何年、何十年かかるかも分からぬ途方もない研究。……お忘れなきよう。我々の目の前には**“戦争”**があるのですぞ」
エクレアはデスクの上に置かれていた、前回の戦闘で回収された真っ黒に焦げ付いた魔晶石の残骸を手に取り、ロスコフの目の前に転がした。
カラン、と乾いた音が響く。
「貴方様が未来の夢を追いかけている間に兵士は死にます。……見てみなされ。これが現実じゃ。魔法への対策は応急処置に過ぎぬ。今の鉄の塊は、魔晶石を湯水のように喰らい尽くす欠陥品。いざという時に**“魔力枯渇”**を起こせば、それはただの動く棺桶じゃぞ」
エクレアの鷲のような鋭い瞳が主君を射抜く。
「次に来る**“物理的な一撃”**に、棺桶でどう耐えるおつもりで?」
それは戦場を生き抜いてきた忠臣だけが捧げることのできる、あまりにも現実的で重い諫言だった。
「……!」
ロスコフはまるで頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。焦げた石の残骸が、彼に現実を突きつけていた。
エクレアは静かに続ける。
「……儂やジルが持つ古の知恵を応用すれば、**“物理的な衝撃を受け流すシギル”や“魔晶石の出力を安定させ燃費を向上させる術”**も見つかるやもしれません。……まずなさるべきはそちらが先ではござらぬか?」
それは新たな扉が開かれた瞬間だった。
「共鳴」という“究極の目標”。
そして「物理防御」と「燃費向上」という“当面の課題”。
ロスコフの頭の中で二つの道筋が明確に示された。
彼は自らの視野の狭さを恥じるように深く頭を下げた。
「……申し訳ありません、エクレア叔母様。……貴女の仰る通りです」
そして彼は顔を上げた。
その瞳にはもはや狂信的な探求の炎はない。
仲間たちの命を預かる開発責任者としての鋼の覚悟が宿っていた。
「――我々は二つの研究を同時に進めます。レザリア殿には私と共に“共鳴”の基礎理論の解析を。そしてエクレア殿には“物理防御”と“出力安定”のシギル開発へのご助言をお願いしたく存じます。……ゲーリック隊長。貴官には両方の研究に被験者として協力してもらうことになる。……苦労をかけますね」
「――御意!」
作戦開始まで残された時間はあまりにも少ない。
だが彼らの前には“遥かなる未来”と“乗り越えるべき現在”。
その二つの道筋が確かに示されたのだった。
◇
その夜が明けるとすぐに、ワーレン家の仮邸宅は静かなしかし熱を帯びた活動の拠点となった。
ロスコフとレザリアは工房に籠り“共鳴”の膨大な基礎データを集め始めた。
エクレアはノベルやラージンと連日議論を重ね、古の知恵を現代の技術へと落とし込む作業に没頭する。
ゲーリックたちは来るべき決戦に備え過酷な訓練を自らに課していた。
そして作戦会議の翌々日の早朝。
二人の男が誰にも見送られることなく、アンヘイムの北門から静かに馬を走らせた。
“岩壁”のジルと“穿界者”のタンガだ。
ジルは手綱を握る直前、胸ポケットから一枚の古びた羊皮紙と、鳥の骨で作られた小さな呼び笛を取り出し、チラリと確認した。
羊皮紙には、エクレアが夜鍋して書き上げた**「物理的衝撃分散シギル」の基礎理論**が、走り書きで記されていた。
そしてその隅には、『上空に“黒鷲”を放っておいた。手に負えぬ時は、迷わず報せよ』という、愛想のないメモ書きが添えられている。
ジルが頭上を見上げると、雲の切れ間、遥か上空を旋回する一羽の黒い影が見えた。
エクレアが手ずから訓練し、魔力による帰巣本能を付与した軍用鷲だ。
「……フン、過保護な婆さんだ」
ジルは微かに笑い、その羊皮紙と笛を懐深くにしまい込んだ。
それはロスコフたちが答えを出すまでの間、彼らが生き延びるための唯一の盾であり、命綱だった。
「……行くぞ。道案内、頼んだぜ」
「ええ、任せてくださいジルさん」
彼らの最初の戦場はここから馬を飛ばして12日程度かかる遥か北の国境。
これから始まる壮大な遅滞戦術の第一歩だった。
開戦から41日目。
第二章:大地の鎮魂歌
リバンティン公国、北部国境。
月明かりだけが無数の巨岩が墓標のように立ち並ぶ荒涼とした谷間を青白く照らし出していた。
やがてロマノス帝国軍の大部隊が通過するであろうその死の谷に、二つの人影があった。
岩壁のように巨大なジル。そしてその傍らで静かに膝をつき、大地に掌を押し当てているタンガの二人だ。
「……どうだ、タンガ」
ジルの低い地響きのような声が夜の静寂に溶ける。
タンガは答えない。ただ目を閉じ、その全神経を掌の一点に集中させていた。
彼の体内に埋め込まれた《地穿の残響核》が大地と共鳴し、周囲の“見えない流れ”を彼の脳内へと送り込んでくる。
……聞こえる。
三マイル先、尾根の向こう側に潜む帝国軍の斥候たちの微かな足音。彼らが張っている魔力的な探知結界の不協和音。
……そして何よりも雄弁に語りかけてくる、この大地そのものの“声”が。
何万年もかけて形成された岩盤の歪み。地下を流れる細い水脈のせせらぎ。そしてこの谷底の遥か深層に存在する巨大な空洞の静かな呼吸。
やがてタンガはゆっくりと目を開いた。
「……ここだ、ジルさん」
彼は立ち上がると、自らが手を置いていた何の変哲もない一枚の巨大な岩盤を指差した。
「斥候は俺が引きつける。奴らの結界にも穴がある。……この岩盤の真下……およそ三〇〇フィートに古い地下水脈が干上がった巨大な空洞がある。……ここを叩けば、この谷丸ごと崩れると思う」
それは神の視点だった。
タンガの瞳にはもはやただの岩肌ではない。この大地の神の設計図のような構造図が完璧に見えているのだ。
「……任せろ」
ジルは短く答えると、その岩盤の前に仁王立ちになった。
そしてゆっくりとその両の掌を岩へと押し当てる。
その瞬間、タンガの呼吸が止まった。
もはや「音」ではない。内臓を直接鷲掴みにされるような、圧倒的な質量の圧迫感。
ジルの掌から注ぎ込まれる熱量が、タンガの《地穿の残響核》を通して、彼の骨格を軋ませるほどの物理的な「重み」となって伝播してくる。
それは地中深くで眠るマグマのように、どこまでも重く熱い大地の脈動そのものだった。
彼の両腕に、琥珀色の【符光律】が浮かび上がる。
「――眠れ」
ジルが静かに呟く。
それは詠唱ではなかった。大地に対する命令であり、子守唄だった。
「――そして、二度と起きるな」
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
音ではない。
星の断末魔のような恐ろしい振動が世界そのものを揺るがした。
タンガの足元から脳天まで、大地そのものの叫びが突き抜ける。
ジルが触れた岩盤から無数の琥珀色の亀裂が放射状に走り、谷全体がまるで生き物のように呻き声を上げる。
帝国軍の進軍路であったはずの固い大地が、まるで砂の城のようにその形を失い、自らの重さに耐えきれず遥か地下の暗闇へと崩落していく。
数分後。
耳をつんざくような轟音と地響きが止んだ時。
そこにもはや「谷」は存在しなかった。
ただ月明かりの下、決して渡ることのできない巨大な**“奈落の口”**がぽっかりと空いているだけだった。
「……ふう。少し腰にくるな」
人知を超えた荒業を成し遂げたジルが、まるで畑仕事でも終えたかのように腰をトントンと叩いた。
その壮大な光景とあまりにも人間臭い仕草のギャップが、彼の規格外の存在感を際立たせていた。
「……上出来だ。これじゃ帝国軍も大幅な迂回を強いられる。……さて、ジルさん。“次の現場”に行きますか」
「まてタンガ。……そう急かすな。」
彼らの仕事はまだ始まったばかりだった。
開戦から43日目。
第二局面:見えざる源泉と、陥ちた砦
ジルが**“まるで創世の巨人”のような力で大地を砕き、タンガがその“巨人の瞳”となって次なる弱点を探し出す。
二人が北部国境で繰り広げる壮大な遅滞戦術は、ロマノス帝国軍の兵士たちに生まれて初めて“大地そのものへの恐怖”**を植え付けていた。
だが、それはあくまで時間稼ぎ。象の足を止めているに過ぎない。
その巨大な悪意の群れは、人間ならば到底不可能な行軍速度――24時間、不眠不休で、ジルたちが作り出した凹凸の悪路さえもじわじわと踏み越え、南下を続けていたのだ。
そして、悲劇は起こる。
ジルとタンガが、敵の主力部隊を阻むべく、さらに西側の渓谷を崩落させる作業に追われていた、その僅かな隙を突き――。
敵の別動隊が、リバンティン側の国境警備の要所、**『ボルド砦』**へと雪崩れ込んでしまっていた。
本来なら数日は持ちこたえられるはずの堅牢な砦が、一夜にして沈黙する。
異変を察知したジルとタンガが駆けつけた時、そこは既に戦場ではなく、**“加工場”**へと変わり果てていた。
十分に距離を取った場である砦を見下ろせる崖の上へと来ていた。
タンガは目を閉じ、《地穿の残響核》を通して伝わってくる、色を失った「線と振動の世界」を見つめていたが、突如、地面に手をついたまま激しく嘔吐した。
「……う、ぐ……ッ!」
精神同調による衝撃が、肉体への強烈な拒絶反応となって表れたのだ。
「……タンガ!?」
異変に気づいたジルが、太い腕でタンガの肩を掴み、強引に体を揺すった。
ジルには、砦の中の光景は見えない。だが、歴戦の相棒がこれほどまでに取り乱し、顔面蒼白になっている姿を見れば、そこで何が起きているのか、嫌でも想像がついた。
「……しっかりしろ! 知覚を切れ! それ以上、深入りするな!」
「……酷すぎる……! 兵士たちを……生きたまま……!」
タンガの脳内に再構築された、モノクロームの砦の中庭。
そこには、杭に縛り付けられ、恐怖に激しく震える**「波形」**の群れがあった。
そこへ、一つの**巨大な「空白」が近づいていく。
肉眼で見れば白い鎧の男なのだろう。だが、タンガの感覚には、そこだけ空間が削り取られたような、底知れぬ「無」**として映っていた。カリスト・エルグレインだ。
「空白」が、鋭利な「線」を――剣を、捕虜たちの波形へと、ゆっくりと突き立てる。
急所ではない。波形が最も激しく乱れる、苦痛の点へ。
『ギャアアアアアッ!!』
鼓膜を叩く絶叫。だがそれ以上に、地面を伝う**「魂の悲鳴」**が、不協和音となってタンガの脳を直接揺さぶる。
カリストの背後には、複数の小さな「歪み」が控えていた。【感情醸造師】たちだ。
彼らは、兵士から噴き出す**「断末魔の振動」**を、器へと丁寧に吸い上げていく。
恐怖、怨念、狂気、絶望。
それらが凝縮され、ドロドロとした粘つくノイズのような**《黒き血》**へと精製されていく。
さらに、そのノイズを無理やり流し込まれた別の捕虜たちの「構造線」が、メキメキと音を立ててひしゃげ、組み変わっていく。
人の形を示す線が崩れ、骨格が歪み、理性の輝きが消え失せる。
彼らが、異形の**“成り果て(モンスター)”**のシルエットへと書き換わる様を、タンガは戦慄と共に「視て」いた。
「……助けなきゃ……! ジルさん、今ならまだ……!」
タンガが腰を浮かせかけた瞬間、ジルがその頭を地面にねじ伏せた。
「馬鹿野郎ッ!!」
普段は冷静なジルの怒声が、小声で、しかし鋭く響いた。
「死にたいのか! ……あれを、**“視て”**みろ!」
ジルの指差す先。
肉眼では、砦の中庭にいる人影など豆粒ほどにしか見えない。
だが、タンガは言われるがまま、自らの能力**《地穿の残響核》**の焦点を、そこへ合わせた。
世界が色を失う。
タンガの脳内に、地形と振動が**「白と黒の線」**となって再構築される。
悲鳴は激しい波形となり、崩れた壁は静止した線となる。
その、モノクロームの視界の中央に、**“それ”**はいた。
「……な、んだ……これ……?」
人の形ではない。
周囲の線画が、そこだけ歪み、消失していたのだ。
まるで、世界というキャンバスに、焼け焦げた穴が空いているかのような、「圧倒的な空白」。
鎧の形も、顔も見えない。ただ、あまりにも巨大な質量の「力の渦」が、知覚しようとするタンガの意識を飲み込もうとしていた。
その「空白」が、ふと、何気なく顔を上げた気がした。
『……ん?』
距離は1000メートル以上離れている。
通常なら、気配すら届かない距離だ。
だが、タンガの知覚の網が、その「空白」と触れ合った瞬間――。
ピキピキピキッ……!
「……ッ!?」
タンガたちの潜む崖の岩肌が、恐怖したかのように音を立てて亀裂を入れた。
視線ではない。
ただ、その存在が「こちらを認識した」という余波だけで、物理的な空間が歪んでしまったのだ。
「……ッ、はぁ、はぁ……!」
タンガは弾かれたように知覚を切り、岩陰に身を縮こまらせた。
全身の毛穴が開くような悪寒が、彼を支配していた。
生物としての格が違う。
あれは人間ではない。人の皮を被った、災いそのものだった。
近づけば、どうなるか分からねぇ。殺されるどころか、存在ごと消し飛ばされる――そんな直感が、彼を震え上がらせていた。
「……分かったな。今の儂らでは、これ以上近づけぬ。感知されただけで、この有り様なのだからな」
ジルは、脂汗を流し震えるタンガの様子を見て、悟らざるを得なかった。
これほどの距離を取っているにもかかわらず、ただ「視た」だけでここまで精神的なダメージを与えてくる相手。
それは、自分たちが知る「強敵」の範疇を遥かに超えた、未知なる存在だ。
「……くそっ!」
ジルは悔しさに拳を握りしめ、地面を殴りつけた。
「……見捨てろ。今は、少しでも長く奴らの足を止め、本国にこの“異常な敵”の存在を伝えることだけが、儂らにできる唯一の戦いだ。さぁ移動しよう、居場所を悟られている」
タンガは唇を噛み切り、血の味を噛み締めながら頷いた。
目の前で仲間が“材料”にされている。それを指をくわえて見ているしかない無力感。
「……畜生……! 畜生ッ……!」
二人は這うようにしてその場を離れた。
そして、砦から続く街道の要所、巨大な吊り橋の支柱へと向かった。
砦は救えない。ならば、そこから出てくる化け物たちが、一歩でも南へ進めないように、この道を地獄に変えるしかない。
◇
数時間後。
崩落現場からさらに離れた深い森の奥。
仕事を終えたタンガは、大木の根元で力なく座り込んでいた。
「……大丈夫か、タンガ。顔色が土気色だぞ」
大岩の陰で休息を取るジルが、小声で尋ねる。
「……はは、生きた心地がしなかったですよ……ジルさん」
タンガは震える手で水筒を煽った。
彼の脳裏には、先ほどの砦で《地穿の残響核》が拾ってしまった、おぞましい情報の残響がこびりついて離れない。
「……さっきの砦で、あの禍々しい『音』を聴いちまったんです。……奴は単独で動いてるんじゃない。奴の背後には、もっとドロドロとした……タールみたいな気配が繋がっていました」
タンガは脂汗を拭いながら、先ほどの接触で脳裏に焼き付いた「会話」の内容を語り始めた。
それは、カリストと、遥か後方にいる「何か」との会話だった。
『――ノクレイン司祭からも仰せつかっておる』
鼓膜ではなく脳髄に直接響いてきた、あの男の声。
『北の地で小賢しく土塊を弄る、**“名もなき鼠”**の妨害……それすらも、むしろ歓迎すべきことだと』
『奴が大地を変え、天変地異を起こせば起こすほど、北部の民の心には**“恐怖”と“絶望”が根付く。それは我らが神威を支える“黒き恩寵”の源泉となる最高の“供物”**だ』
「……奴ら、笑ってやがったんです」
タンガの声が恐怖で掠れる。
『その鼠は、我々のために畑を耕してくれているに過ぎん』
「……とんでもねぇ化け物どもだ、ジルさん。……奴ら、俺たちの攻撃さえも自分たちの利益と見ているんですよ」
タンガは、砦で得た絶望的な真実を全てジルに伝えた。
敵将軍の名はカリスト・エルグレイン。
彼らが使う**「黒き血」**による洗脳。
そして、自分たちの抵抗が生む恐怖さえも利用して「絶望」を収穫し、その奥にいる司祭、そしてさらに上位の“何か”へ捧げようとしていること。
「……つまり俺たちは……奴らにとって、神への供物を作るための“農具”でしかない……」
それを聞いたジルの表情から険しさが消え、代わりに深い戦慄が走る。
「……そうか。儂らが誰かも知らず、儂らが耕した恐怖すらも奴らの糧とするか」
二人は知ってしまった。
自分たちが相手にしているのが単なる侵略軍ではなく、世界そのものを冒涜する“機構”であることを。
この情報は、何としても本国のロスコフたちへ伝えなければならない。
「……知らせねばならん。これは、ただの戦争ではない。ロスコフたちに、一刻も早く」
「……ええ。……ですが、どうやって……」
タンガは激しい頭痛と吐き気に襲われ、膝をつくのがやっとだった。
「心配するな。……あの婆さんの“過保護”に感謝する時が来たようだ」
ジルは懐から、出発の朝に師エクレアから託された鳥の骨で作られた小さな呼び笛を取り出した。
彼は音の出ない、人間には聞こえない周波数の息を短く吹き込んだ。
ヒュッ、と風を切る音がしたかと思うと、夜空の闇の中から、一羽の黒い影が舞い降りてきた。
ジルの腕に鋭い爪を立てて止まったのは、闇夜に溶け込む漆黒の羽毛を持つ軍用鷲だった。
エクレアが放ち、遥か上空から二人を追跡させていた翼だ。
「……よくついて来てくれたな」
ジルは鷲の喉を指で撫でると、タンガへと向き直った。
「書けるか、タンガ。お前が見たものを、そのまま伝えろ」
「……は、はい……」
タンガは震える手で、腰のポーチから取り出した羊皮紙に走り書きをした。
詳細を書く時間も、余裕もない。砦で見た地獄と、カリストの圧倒的な脅威、及びノクレイン司祭という者の存在。
それらを一言に込めて、鷲の足にある筒へと結びつける。
『敵は人にあらず。絶望を喰らう供物機構。即時撤退推奨』
「……頼んだぞ。アンヘイムまで、止まらずに飛べ」
ジルが腕を振ると、黒い鷲は音もなく夜空へと舞い上がり、南の風を捉えて消えていった。
「……行ったか」
ジルが空を見上げる。
だが、この鷲が無事にアンヘイムへたどり着くには、どんなに急いでも数日はかかる。
その数日の間に、この北の大地がどうなってしまうのか、二人には想像もできなかった。
◇
数日後。アンヘイム、ワーレン家の作戦司令室。
作戦の詰めを行っていたロスコフたちの元へ、扉を開けてエクレアがレザリアを伴い入ってきた。
その腕には、疲労困憊し、羽の乱れた黒い軍用鷲が止まっている。
「……エクレア叔母様? その鷲は…」
ロスコフが顔を上げる。
「部屋の窓に、儂の放った『目』が戻ってきてな」
エクレアは鷲の頭を労るように撫でながら、先にその足から外していた、小さな羊皮紙を、軍師ノベルへと差し出した。
「タンガからの報告じゃ。……だが、様子がおかしい。この鷲がここまで消耗するほどの速度で飛ばせたということは、よほどの事態ぞ」
師の不吉な予感に、室内の空気が張り詰める。
ノベルは恭しく羊皮紙を受け取ると、慎重に広げた。
だが、その内容を目にした瞬間、彼の手が微かに震えた。
「……ノベルさん?」
「……はい。タンガたちからです。ですが……」
ノベルはその短い文面を読み上げ、そして力なく羊皮紙をテーブルに置いた。
「……『敵は人にあらず』。……あの不敵なタンガが、文字を乱すほど動揺していたようです」
その場にいたエクレア、そしてレザリアまでもが言葉を失った。
情報は断片的だ。だが、行間から滲み出る「底知れぬ恐怖」だけは、確かに伝わっていた。
彼らが相手にしているのは、国の領土を奪いに来た軍隊ではなく。
もっと根源的で、冒涜的な**“何か”**なのだと。
ジルとタンガが命懸けで送った警鐘は、アンヘイムに重い影を落とした。
だが、それでも彼らは止まるわけにはいかない。
その「人にあらざるもの」が、すぐそこまで迫っているのだから。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございます、ひきつづき次話も見かけたら読んでみてください。




