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岩壁のジル

窮地に追い込まれたエクレアは、これまで積み重ねてきた知識と術式を守るため、

最後の手段として禁呪を発動し、自らを永久氷壁の奥へと封じた。

いつの日か弟子のレザリアが封印を解くことを信じて。


その思いを知ったレザリアは、眠る間も惜しんで術式の解析に没頭していた。

氷壁の向こうに師がいる――その事実だけが、彼女を支えていた。


そんなある夜。

研究室の扉が、地鳴りのような音を立てて揺れた。


振り返ったレザリアの前に立っていたのは、

山のように大きな影――

天井に届かんばかりの巨躯を持つ、一人の大男だった。


その男こそが……。

    

                  その188



【鋼鉄と奈落のアルケミスト】――岩壁は静かに笑う


タンガの絶望に染まった声が、けたたましい槌音の響く工場の中に吸い込まれていった。

その報せは瞬く間にアンヘイムの司令部を駆け巡り、ただでさえ重苦しかった作戦会議室の空気を水銀のように変質させていた。


「――つまり、こうだ」


諜報機関『特別調査室』室長エイゼンが、広げられた巨大な地図を冷たい指先でなぞっていく。彼の声は常に変わらぬ平静さを保っていたが、その言葉の内容は、そこにいる誰もが耳を塞ぎたくなる現実そのものだった。


「アンヘイム正面のラガン軍、推定三万。これはあくまで前線部隊に過ぎない。後方の拠点都市ホスローには、今なお十万規模もの本隊が控えている。にもかかわらず彼らが攻勢を緩めている理由は、我々の調査によれば敵将たちの内輪揉め……極めて個人的で矮小な、自尊心の張り合いだ。彼らはアンヘイムを落とすという共通の目的よりも、この包囲戦が誰の手柄になるかという子供の喧嘩に興じている」


エイゼンの理路整然とした分析は、一種の知的快感を伴うほどに明晰だった。だがその結論はあまりにも皮肉に満ちている。

我々は国家の存亡を血の海で賭けているというのに、敵はただの派閥争いで我々の防衛線をもてあそんでいるのだと。


「……馬鹿げている」

誰かが吐き捨てるように言った。


「だが、その“馬鹿げた状況”のおかげで、我々が息をつく時間を得られたのもまた事実」

『公』であるホフラン・ルクトベルグ公爵が重々しく口を開く。

「問題はその小休止の時間をどう使うかだ。北のロマノス帝国に対して……」


その忌まわしい国名が出た瞬間、会議室の温度がさらに数度下がった気がした。

ラガン王国だけでも国力差は圧倒的なのだ。そこに大陸最強国家までが牙を剥き始めているのだ。


「通常兵力を回すしかないでしょう。西部軍か、東部軍か……」


誰かの提案を、木製の鎧窓を震わせる野太い轟音が遮った。

会議室の外、すぐ階下のドックから、断続的で悲鳴にも似た装甲の叩き上げ音が突き上げてくる。

ガン! ガガガッ……!


「……聞こえるか? あれが現実だ!」

一人の将軍が、怒気を含んだ指先で足元の床を指差して叫ぶ。

「魔導アーマー部隊も、修理と再編でこれ以上の余力はない! あの槌音が止まり、装甲の割れていない十分な数が揃わん限り、出撃すら出来ん状況だぞ」


怒号が飛び交う。だがそれは、出口のない苛立ちのぶつけ合いでしかなかった。

響き続ける重く不規則な槌音が、まるで彼らの焦燥を削り取る死神の時計の針のように打ち鳴らされていた。


その時、一人の将軍が藁にもすがる思いで口を開いた。

「……神聖モナーク王国のパットン王に助力を願うことは……?」


それは、一縷の望みだった。

ラーナ神への篤い信仰を礎とする国――我々とは長年にわたり良好な関係を築いてきた古き盟友。


しかし、その淡い光を、ルクトベルグ公爵の次の一言が、無慈悲に踏み躙ってかき消した。


「――もはや手遅れだ」


静寂。

全ての視線が公爵の口元へと張り付く。


「……今しがた入った報せだ。ロマノス帝国軍は、同時に神聖モナーク王国の南部国境にも大部隊を展開中とのこと。パットン王も自国を守るので精一杯だろう。とても頼める状況ではない。」


それは、打てる手の一つがまた消えた事を告げる報告だった。

会議室を支配したのは完全な沈黙。

誰かがゴクリと乾いた喉を鳴らす音だけが、やけに大きく響き渡った。


ロスコフは手元の走り書きに視線を落としたまま、誰も聞いていないような小声で、歯を食いしばるように呟いた。

「……あと一週間。あと一週間さえあれば、『魔導神経網』の同期エラーを解決し、出撃させる事が出来るのに……」

彼の指は、地図上の戦力比ではなく、設計図の絡み合った数値を血の滲むような思いで追っていた。国家の存亡よりも、目の前のたった一つの数式が解けないことへの無力な焦燥が、彼を苛み続けていた。


結局その日の会議は、リバンティン公国が誰の助けも得られぬまま、二つの圧倒的な大国に挟撃されるという絶望的な事実を再確認しただけで終わってしまった。



その夜。

ワーレン家の仮邸宅の鉄門前に、一つの大きな影が音もなく現れた。


冷たい夜気が肌を刺す。

門番の兵士は最初、自分の目がおかしくなったのかと思った。周囲には何もないはずの闇の中に、まるで突然、名もなき『岩山の中腹』が一つそびえ立ったように見えたからだ。


それは、岩壁さながらに圧倒的な質量と骨の密度を持った男の後ろ姿だった。

呼吸をするたびに盛り上がる僧帽筋そうぼうきんと胸板の厚みは、人間というよりも城の柱をそのまま革袋に詰めたかのようだ。

深いグリーンの衣に、夜の闇よりもさらに濃く重い灰銀ストーングレイのマントを羽織っている。そしてその手に握られた、丸太のように太い杖。

地脈からそのまま引き抜いて荒削りにしたかのような、鈍い光を放つ六角柱の巨大な魔晶石が、先端で街灯の光を吸い込んでは静かに明滅していた。


《記憶の柱杖きおくのちゅうじょう》。

そのあまりにも荘厳で、海を凪がせる灯台のような異質の存在感に、武装した門兵は完全に呑まれていた。


声が出ない。

男がそこへ立っているだけで、大地の重力が倍になったかのような圧倒的な魔力の圧に、肺が押し潰されそうになり呼吸が浅くなる。

人という枠には収まりきらない。もはや一個の歩く災害、生きている震源地に等しい。


「――何者だ!」


その張り詰めた空気を切り裂いたのは、巡回中だった騎士クーガーの声だった。

彼は魔導アーマーの搭乗者として幾度も死線を潜り抜けてきた、生粋の戦士だ。だが、鋼の巨人を操るその彼でさえ、この男が背中から放つ尋常ならざる気配の密度に、柄にかけた手からじっとりと嫌な汗が滲むのを感じていた。


厳めしい男が、ゆっくりと首を巡らせクーガーへとその顔を向けた。

「……レザリアは、ここにいるのだろう?」


地響きのように腹の底を揺らす低い声。クーガーは眉をひそめた。だが、「レザリア」という内通者のような名前に、即座の警戒を解くことはない。


「……貴殿の高名は存ぜぬ。何者だ?」

「ジルとだけ言えばいい。あいつの、兄弟子だ」


ジルと名乗った男の響く声に、嘘の震えは一滴も混じっていなかった。クーガーはしばしその底知れない体躯と静かに光る柱杖を見つめ、大地の魔力特有の後腐れのなさを感じ取ると、門兵に微かな目配せをした。


「……分かった。門を開けろ。私が直接ご案内しよう」


男が邸宅の中へ踏み入った瞬間。


本来ならば重い足が堅木をきしませ、軋む音が響くはずだったが、一切の靴音は鳴らなかった。

その代わり、ズズ……と、建物の土台である地盤そのものが彼の歩調と同調し、巨大な岩盤のうねりに共鳴して微かに震え始める。


廊下に充満していた刃のような鋭い冷気――レザリアの部屋から漏れ出る『永久氷獄』の余波――が、彼が一歩踏み出すごとに中和され、暖炉の底のような深く安定した「大地の温度」へと上書きされていく。


邸宅の奥、レザリアの部屋。


その部屋の空気は、古文書の乾いたインクの匂いと絶対零度の冷気が混じり合っていた。

彼女の意識は、奇しくも会議室でロスコフが陥っていたのと同じように、難解な数式の迷宮――師が遺した複雑怪奇なシギルの海――へと完全に沈み込んでいた。


「――お客様がお見えです、レザリア様」

エスターの低い声にはっと顔を上げる。


開かれた扉の向こう、執事の背後から部屋へと足を踏み入れたのは、扉の木枠を完全に塞がんばかりの圧倒的な密度の影だった。


「誰……?」


レザリアが目を細め、警戒の言葉を紡ぐより早く。

彼女の周囲を漂う小精霊エレメントたちが、怯えではなく、騒がしいほどの歓喜をもってチカチカと明滅し、震え始めた。

部屋を支配する『氷』の静寂を足元から強引に押し上げるような、『地』特有の重力。

その異質な、しかし記憶の底にある細胞が震えるほど懐かしい波動が、彼女の身体に告げていた。

――自分と同類おなじおしえをこうたものだと。


話にだけは聞いていた。あの型破りな師には、自分以外にも弟子どもが散らばっていると。

その中でも、遥か昔に出奔した“一番弟子”は――師ですら底が知れず、術式ではなく感覚だけで万物を動かすような、不確定な実力を持つ「大地の秘術師」なのだと。


噂の霧の中にしかいなかった影が、今、目の前で現実の壁となって立っている。

大地が呼吸するように揺れ、空気が自重を増して重く沈み込む。

背筋が凍えつくような緊張感の中、師の残した奔放な言葉が脳裏に蘇る。


彼女の視線が、男の持つ太く無骨な杖へと注がれる。

六角柱の魔晶石。……間違いなく、《記憶の柱杖》。


小精霊たちの予感は、確信へと変わった。


「……もしかして……」

長時間の思索で掠れた、細い声が漏れる。

「……兄弟子の、ジル兄さんなの……?」


その恐る恐るの問いかけに、切り立った岩壁のような厳つい男の顔が、ふっと柔らかに緩んだ。

そして次の瞬間。


「――おう、いかにも」


ゴッ、と杖の石突が分厚い絨毯越しの床を重く鳴らす。

男はニカッと、自らの威圧感など少しも理解していない子供のような、屈託のない笑顔を見せた。


「お前さんが、あのレザリアか。俺があのばばぁ(師)の元をとっくに離れた後にな。……旅の途中で師から受け取ったほんの数通の手紙の中に、一言だけ書いてあったんだ。お主に、ようやく真面目な妹が出来たと……な」


ジルはそう言うと、レザリアの驚きに満ちた表情を楽しむかのように一瞥した。

彼の言葉の響きは、二人の間に流れた決して交わることのなかった長い時間を、一瞬にして明確に乗算した。


「……どうして、私がここにいると……?」


それはレザリアにとって当然の疑問だった。ここは戦時下にワーレン家に急遽与えられた、最高機密の拠点のはずだ。


その問いにジルは答えず、ただその大地を踏み固めるような大きな歩幅で、部屋の中央に鎮座する巨大な氷塊へと迷いなく近づいていく。


「歩いてりゃ分かるさ」


彼は無骨で分厚い掌を、近づくだけで肌が千切れるような絶対零度の氷塊へとゆっくりとかざした。

「あのばばぁの強大すぎる魂が、結界の外まで漏れ出し、この都市の一角で無理やり根を張り、地脈の温度を局地的に凍てつかせている。……この大地そのものが、俺の足裏に『苦しい』とそう教えてくれたんでな」


氷の表面に近づく掌。その分厚い皮膚の上に、古代の岩盤に刻まれた幾何学模様のような【符光律】が、自ら皮膚を割って彫り込まれるように浮かび上がる。


呼吸するように静かに明滅する深い琥珀色の光が、白銀の魔力を持つ氷の表面に触れた瞬間――。


――ゴォン……ッ!

衝突音ではない。

巨大な寺院の大鐘を、地の底で揺らして鳴らしたかのような、途方もなく重く低い共鳴波が部屋の空気を震わせた。


ジルの掌と氷が触れたその一点から、琥珀色の【符光律】と氷塊が防御として放つ冷たい青色の【符光律】が激しく真っ向から拮抗し、パチパチと小さな火花のような光と熱の粒を周囲に撒き散らしていく。


絶対零度の表面を覆っていた白銀の霜が、彼自身の術式による圧倒的な熱量――否、地脈そのものを自らの細胞で御する“大地の魔力”によって瞬時に蒸発し、小さな白い煙となって天井へ立ち昇っている。





――岩壁は静かに笑う(後編)


常人ならば触れた瞬間に細胞ごと粉々に砕け散り、永遠の死を迎えるであろう絶対的な“静止”の世界。その極限の氷壁に対し、ジルは自らの圧倒的な“存在”の魔力を叩きつけていた。

彼はただ触れているのではない。分厚い掌が接するその一点においてのみ、世界の法則を自らの大地の魔力で強引に塗り替えていたのだ。


やがてその激しい光と熱の明滅はゆっくりと収束し、ジルの掌はまるで古馴染みの岩肌を撫でるかのように、静かに氷塊の表面に置かれていた。

深い琥珀色の光だけが、青い氷の内部で、まるで心臓の鼓動のように穏やかに脈打ち続けている。


「……この大地が、教えてくれたんでな」


彼は氷塊の奥に眠る師の顔から目を離さないまま、静かに呟いた。


「――あの強大すぎる魂が、この地で無理やり根を張り、地脈の温度ごと凍てつかせている、と。……俺にはそれが手に取るように分かる」

それは、大地の声を聞き、地脈の淀みを読む大陸最高の【岩壁】の秘術師だからこそ成し得る御業みわざだった。


「……フン。相も変わらず派手なことをしでかす、食えないばばぁだぜ」


鼻で笑うその響きは呆れているようでいて、どこかに、常人離れした禁術を行使した師の覚悟への、痛切なまでの敬意が滲んでいた。

そして彼は、ゆっくりと背後のレザリアへ振り返った。

その声はもはや気さくな旅人のものではない。同じ深淵の師を仰ぐ、一人の大秘術師としての鋭利な刃を帯びていた。


「――で、妹弟子よ。このばばぁがお主に遺した最後の“宿題”は……」


ジルはその真摯な瞳で、まっすぐにレザリアを射抜く。


「……お主に解けそうか?」


その重低音の問いは底の浅さを試すようでありながら、それでいてどこか、彼女が師の後継者たる力を持っていると信じているような響きを秘めていた。

レザリアは一瞬、息を呑んで言葉に詰まった。

だが彼女は、ただ強者にすがり助けを乞うだけの無力な弟子ではない。彼女は静かな覚悟を決めると、部屋の床に敷き詰められた、おびただしい数の古文献と羊皮紙の海を彼に示した。


カサリ、と乾いた羊皮紙が擦れる音。古いインクと羊皮紙の匂いが、部屋の刺すような冷気と混じり合う。


「……これが、私が調べた全てです。師が遺された古文書、そしてこれが……」

彼女が震える指先で示したのは、数枚の使い古されたメモ用紙だった。そこには走り書きのような、しかし紛れもなく師の豪快な筆跡で、複雑なシギルと断片的な考察がいくつも記されている。まるで極限まで研ぎ澄まされた思考の嵐の残骸のようだった。


ジルはその巨体をかがめると、それらの資料にゆっくりと視線を落とした。

彼の岩のような表情はまったく変わらない。ただその瞳の奥で、膨大な情報が瞬時に脳内で解析され、組み立てられていくのが空気の震えで分かる。


やがて彼は、ふむ、と深い息を一つ吐いた。


「……それで、妹弟子よ」

ジルは顔を上げ、再びレザリアの双眸を見据える。

「お主は、これをどこまで解けた?」


その問い方は、あまりにも自信に満ちていた。

まるで「正解はとうの昔に見えている」とでも言いたげな、揺るぎない口ぶり。

レザリアは直感で確信した。この人は知っている。この絶望的な氷の牢獄を安全に解き放つための、たった一つの「正解」を。


だが同時に、残酷な事実も理解した。この人は決して、その答えを直接口にはしないだろうと。

試すようなその眼差しは、かつて師が自分に難解な問いを放り投げ、放置した時のそれに、あまりにもよく似ていたからだ。


(……この人も、師と同じ。私自身の手で、この壁を乗り越えさせようとしている……!)


レザリアはぐっと白くなるほど唇を噛みしめ、決意を固めた。そして自らの数日間の探求の成果――寝る間も惜しんで論理を編み上げ、描き出した一枚の巨大な羊皮紙の図式を、彼の前に堂々と広げた。


「……これが、それらの資料を基に私が組み上げた『解除シギル』です。……見ていただけますか」


それは紛れもなく、彼女の現時点での命を削った全力だった。

ジルはその複雑怪奇なシギルの紋様を、ただ黙って見つめていた。

重い沈黙が落ちる。

カリ、カリ……と、氷塊の表面で再び霜が成長する微かな音だけが部屋に響く。


やがてジルは、短く一言だけ呟いた。

「……インクと羽ペンを」


執事エスターが音もなく歩み寄り、研がれたばかりのペンを用意する。それを受け取ると、ジルはレザリアが描いた緻密なシギルのすぐ横に、まるで初歩の手習いでもするかのように、さらさらと無造作にペンを走らせ始めた。


「……まず、ここが根本的に違う」


ジルが最初に指摘したのは、シギルの中核をなす【魔力循環】の基本構造だった。


「お前さんの術式は、現代の賢者が使う秘術の典型だ。つまり『足し算』の論理で構築されている。一つの現象に別の効果を『加え』、さらにそれを『補強』し、力ずくで法則を捻じ曲げようとしている。……だがな、妹弟子よ」


カリ、カリカリ……と、乾いた紙を引っ掻く羽ペンが走る音。

ジルの太い指先から、見たこともないほどにシンプルで、それでいて自然界の縮図のような完璧な調和を持つ紋様が生まれ出る。


「師が好んで用いたいにしえの秘術は『引き算』の論理だ。世界のことわりそのものにそっと語りかけ、その力を一部だけ『借り受け』、そして役目が終われば、静かに元のあるべき座へお返しする。……これは力を用いた支配じゃない。世界との“対話”なのだ」


そして彼は手を止めず、もう一つ、別の紋様を描き並べた。

それは絶対的な防御障壁である【絶対氷壁】の中核をなす、古代紋章の一つだった。


「並べて見比べてみろ。ばばぁが用いたであろうこの防衛紋章と、お前の描いたこの解除紋様。似ているようで、その魔力の“流れ”が完全に逆行しているだろう。お前のは、外から内へ無理やり力を叩きつけようとしている。だが師の術は、内から外へ向かって、世界の理を解き放とうとしている」


それは、天地がひっくり返るほどの強烈な啓示だった。

レザリアの脳内に、雷光が落ちたかのような鮮烈な衝撃が走る。


破壊ではない。こじ開けるのでもない。

……ただ、絡まった糸を解き放つのだ。


ジルはインクのついたペンを静かに置いた。

彼の教えは、これで終わった。


「――あとは、お主の仕事だ」


その声は岩のように厳しく、そしてどこまでも優しかった。


「それが、あのばばぁの意図らしい。どうやらこの小憎らしい“宿題”は、初めからわしに解かせるつもりは毛頭ないようだからな」


そう言うと、ジルは再び分厚い氷塊の奥に眠る師の顔を見つめた。

その凍てついた横顔は、まるで全てを見通した上で、この出来すぎた兄弟子と不器用な妹弟子のやり取りを、心から楽しんでいるかのようにも見えた。



レザリアの冷気漂う部屋から、重厚な木板の張られた廊下へと出た、その時だった。

ちょうど、工場のけたたましい喧騒をその身にまとったままのロスコフが、重い足取りで階段を上がってくるところだった。熱された鉄と機械油の生々しい匂いがふわりと香る。

ロスコフは歩きながらも、まだブツブツと何かの数式を虚空に向かって呟いている。


「……おお、貴方が」

ロスコフは目の前にそびえ立つ、岩壁のような巨大な男の姿に一瞬見上げ、目を見張った。


ジルはその場で、深く折り目正しく頭を下げた。その丁寧で心のこもった所作は、彼の野趣あふれる体躯とは裏腹な、静かな品格を感じさせた。

「ジルと申します。我が師エクレアと妹弟子が、大変世話になっております。この御恩、いずれ必ず」


「いや、よしてください」

ロスコフは疲れた顔に笑みを浮かべ、軽く手を振ってその言葉を遮った。

「友が友を助けるのは当然のことです。礼には及びませんよ。……エスター!」


彼が階下へ向かって声を張ると、まるでその声を空間の先から予測していたかのように、執事のエスターが音もなく姿を現した。

「ジル殿の部屋割りを」


「はいロスコフ様、既にモーレイヌたちが準備を整えております。ミバリーとアメリアも手伝わせておりますので、寝具のご安心を」


エスターの常に先を読む完璧な仕事ぶりに、ロスコフは満足げに頷くと、自らの腹の虫が大きく鳴るのを隠そうともせず言った。

「……よし、ならすぐに食事を頼む。私も限界までハラペコなんだ」


そのまるで子供のような素直な一言に、ジルも思わず口元の強張りをごまかして破顔した。

(これが、あの強大な魔導アーマーをたった一人で組み上げているという主か)

スケールの錬金術。国家の危機をその双肩にたった一人で担っている英雄が、今この瞬間は、ただの「腹を空かせ、油まみれになった一人の男」だった。



「――お帰りなさいませ、ロスコフ様。お疲れでしょう」


鉄と機械油の匂いが染みついた男の空間に、ふわりと、戦時下の邸宅には似つかわしくない甘い花の香りが漂った。


いつの間に廊下に立っていたのか。邸宅の侍女であるトレビア(に宿るレボーグ)からの念話でも受けたのだろう。妻のアンナが、まるで空間の隙間から滑り出たかのように、ロスコフの隣に静かに寄り添っていた。


「うん、アンナ。ただいま。……紹介するよ。こちらがエクレア殿の一番弟子の、ジル殿だ」


「……まあ」

アンナはジルへとその流し目を向けた。

その微笑みは、絵画から抜け出たような完璧な貴婦人のものだ。だがその深い瞳の最も奥底で、一瞬だけ人間ではない泥沼のような『冷徹な異質の光』が閃いたのを、ジルの眼は見逃さなかった。


(……むむ、なんだ、この奥方は)

ジルの、大地と感応する魂がけたたましい警鐘を鳴らす。

目の前の女からは、人間の魂の匂いがしない。膨大で禍々(まがまが)しいはずの強烈な気配を、完璧な“擬態”のさらにその奥底の深淵に意図的に沈めている。それはまるで、美しい湖の底なしの暗闇に、古の邪龍が身を潜めて眠っているかのようだった。


だが、アンナのその悪魔としての思考回路は、岩壁のようなジルを一瞥しただけで、その評価を完全に終了していた。

(……人間にしては、破格の魔力の持ち主。ええ、並の術者ではないわ。けれど……それだけ)

彼女の世界の絶対的な中心は、ただ夫であるロスコフただ一人。それ以外の全ての存在は、その評価軸の上で存在する「敵か、味方か、ただの石ころか」のオブジェクトに過ぎない。


「ジル、と仰るのですね」

アンナは一瞬の思考を完璧な妻の顔の下に隠し、柔らかく微笑んだ。

「エクレア様のことは、ロスコフ様も大変心を痛めておられます。どうかその貴方の素晴らしいお力で、お助けして差し上げてくださいませ」


「……は。ありがたきお言葉。感謝いたします」

ジルは目の前の女のその底知れぬ“深淵”に気づかぬふりをして、ただ丁寧に、油断なく頭を下げた。



その夜の食卓は静かで、しかし奇妙な緊張と緩和が同居する不思議な時間となった。


ジルが語る、大陸の辺境を巡る旅の話は、ロスコフの純粋な研究者としての好奇心を大いに刺激した。見たこともない特殊な鉱石の話、古代遺跡に眠る失われたシギルの法則。ロスコフは目を輝かせ、食事も忘れて身を乗り出し、その冒険譚に聞き入っていた。


そしてロスコフもまた、隠すことなく、この国が今置かれている絶望的な盤面をジルに語って聞かせた。


「……なるほど。ラガン王国とロマノス帝国。大陸の二大国を同時に相手に局地戦をしていると……」

さすがのジルも、そのあまりにも無茶苦茶で絶望的な戦況には、肉を飲み込んで呆れたように太い息を吐いた。

「……それはもはや防衛戦争というより、壮大で派手な自殺ですな」


「違いありませんね」

ロスコフは自虐的に苦笑した。


「……気に入った。ロスコフ殿」

ジルは純銀の杯に注がれた赤葡萄酒を一気にあおるという、彼らしい豪快な仕草で言った。

「こんな命知らずで面白い喧嘩は、そうそう見られるもんじゃない。もしよろしければ、この岩壁一枚……貴方の軍勢に貸し出しましょう。いつでもお声がけを」


その頼もしい申し出にロスコフが深く感謝を告げた後、ジルは侍女に案内され、用意された自室へと下がっていった。


後に残された、夫婦だけの広い食堂。

カタン、とロスコフがナイフとフォークを皿に置く音が、やけに大きく木魂こだまする。


「……ふぅ~。やれやれ……」

彼は椅子の背もたれに深く体を預けると、重圧から解放されたように天を仰いだ。

自己言及の錬金術。数多くの英雄でも完璧な天才でもない、ただの疲れ果てた血の通った一人の男の本音が、そこにあった。


「次から次へと、戦況も魔法も……何故こうも厄介ごとが起き続けるんだ……」

彼は特大のため息と共に、油で汚れた胸ポケットに入れていた走り書きのメモを取り出し、悔しそうに見つめた。

「……せっかく、イグニス用の新しい冷却機構の画期的なアイデアが浮かんでいたのに。これじゃちっとも、本来の研究に集中できないじゃないか……」


その子供が我儘を言うような愚痴に、アンナはくすりと艶やかに笑った。

彼女は静かに席を立つと、夫のその凝り固まった肩に、冷たくも心地よい手をそっと置く。


「もう、よろしいではありませんか」

その声は、昼間の貴婦人のそれとは違う、夫だけに向ける甘くとろけるような響きを持っていた。

「難しい数式や戦争のことは、全て机の上に放り出して。……今はただ……ね?」


アンナはそう言うと、ロスコフの耳元で甘やかな吐息と共に何かを囁いた。


「……うん。そうだね」

ロスコフはまるで強大な魔法にでもかけられたかのように、憑き物が落ちた顔で素直に頷くと席を立つ。手の中の複雑なメモが、はらりとテーブルのクロスの上に落ちた。


「……風呂に入って、この汗と油の汚れを流さねば」


その言葉は誰に言うでもない、ただの疲れた独り言のようだった。

だがアンナにとっては、それはいつもの**“至福の合図”**だった。


彼女は愛おしそうに、その世界で最も尊い疲れ切った夫の背中を見つめながら、静かにその後を追う。

夫のその戦いや機械油に汚れた体を、熱い湯で隅々まで優しく洗い清めること。

それこそが彼女の何よりの喜びであり、あくまとしての至上の役目なのだから。


ワーレン家の重い門扉の向こうで、国家の存亡を懸けた一夜が、今はただ静かに更けていく。







今回も最後まで読んでくれありがとうございます、引き続き続きを見かけたらまたよんでみてください。 

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