第6話:決着の夜
部屋の中は薄暗かった。
夕闇が落ちかけた六畳間。その中央に、あの男が立っていた。
ボサボサの薄い髪、ヨレヨレの灰色トレーナー、そして油で汚れたスラックス。男は私のベッドのすぐ脇に立ち、歪んだ笑みを浮かべていた。部屋の中には、あの湿った土と古い油脂が混ざり合った不快な生臭さが充満している。
「……おかえり、僕の聖女様」
掠れた、湿り気を帯びた声。男はゆっくりと手を広げ、こちらへ一歩を踏み出した。
「鍵は開けておいたよ。君が帰ってくるのを、ずっとここで待っていたんだ。もう壁なんていらない。これからは、二人でこの静寂を共有するんだ……」
男の瞳には、狂信的な恍惚感が宿っていた。私が恐怖で悲命を上げるか、足腰を抜かしてその場にへたり込むと確信している目だ。
私は何も言わなかった。悲鳴も上げず、動揺の欠片も見せず、静かに背後でドアを閉め、鍵を二回まわしてロックした。
カチャリ、という重い金属音が部屋に響く。
「……え?」
男の笑みが、わずかに引きつった。逃げ道を自ら塞いだ私の行動が、男の思い描いていたシナリオとズレ始めたのだ。
私は鞄にゆっくりと手を入れ、底から重厚な「製本用プレス重石」と、刃先が鋭利に研ぎ澄まされた「鋼鉄製ペーパーナイフ」を取り出した。
ズッシリとした真鍮の重みが、右手に心地よく収まる。
「な、なに……それを……」
男が困惑の声を上げた、その瞬間だった。
私は言葉を一切挟まず、無言のまま男との距離を詰めた。
踏み込みの一歩に迷いはなかった。
「ひっ——」
男が怯みの声を上げた時には、すでに遅かった。
私は右手に持ったズッシリと重い真鍮の重石を、全力で男の顔面に向けて振り下ろした。
ガツン! と不快な鈍音が部屋に響く。
「ぶあっ!?」
鼻骨が砕ける激痛に、男は顔を押さえてのけぞった。鮮血が床のフローリングへと撒き散らされる。
「な、何をするんだ! 狂ってるのか君は!?」
男はよろめきながら悲鳴を上げた。自分が「被害者」を追い詰めていたはずが、一瞬にして目の前の女が凶暴な「捕食者」へと変貌したのだ。男は恐怖に顔を歪め、押し入れの穴へと逃げ出そうと背を向けた。
だが、逃がさない。
私は男のヨレヨレのトレーナーの襟首を掴み、力任せに引き倒した。
ドスンと鈍い音がして、男が床に激しく叩きつけられる。
「やめろ! 頼む、やめてくれ!」
男は床を這い、必死に手を伸ばした。しかし私は容赦なく男の背中に跨がり、左手でそのボサボサの髪を強く掴んで頭部を固定した。
男が恐怖で目を見開く。その瞳に映っているのは、逃げ惑う哀れな女ではなく、冷徹な殺意を目に宿した一人の処刑人だった。
「私の部屋を汚した罪は、重いわよ」
私が発した最初で最後の言葉は、自分でも驚くほど冷たく、静かだった。
右手の鋼鉄製ペーパーナイフを高く振り上げる。
夕闇の光を浴びて、鋭利な刃先が一瞬だけギラリと輝いた。
「ひ、ひぃっ——!」
男の短い悲鳴は、首元へと深く突き立てられた刃によって、湿った泡の音へと変わった。
一度、二度、三度。
紙の端を正確に裁断するように、私は躊躇なく手を動かし続けた。
男の体が大きく痙攣し、やがて力なく弛緩していく。激しい抵抗の音は失われ、部屋には再び、しんと静まり返った闇が戻ってきた。
私の服も、顔も、男の温かい返り血で濡れていた。不快な生臭さが鼻を突く。
だが、胸の中にあったのは恐怖でも後悔でもなく、巨大な仕事をひとつやり遂げた後のような、奇妙な達成感だった。
床に伏した男は、もう二度と動かない。
私の聖域を侵したノイズは、こうして完全に消去されたのだ。
私は荒い息を整え、返り血のついたペーパーナイフをゆっくりと床に置いた。




