第5話:侵蝕と静かな開戦
決戦の朝が来た。
午前七時三十分。いつものように無香料の石鹸で顔を洗い、髪を整える。鏡に映る自分の顔は、恐ろしいほど無表情だった。落ち窪んだ両目の奥に、冷ややかな狂気の火が小さく灯っている。
私は静かに部屋を見渡した。
六畳間の静寂。しかし、もうここにはかつての無菌室のような清廉さはない。壁の穴、クローゼットの奥から漂う男の匂い、そして昨夜読んだ病的な観察日記。すべてが泥のように私の生活を汚していた。
「今日で、全部終わりにする」
私は鞄の奥底に、ある「道具」を忍ばせた。
職場から持ち出した、古文書修復用の重厚な鋼鉄製ペーパーナイフと、長年使い込まれてズッシリと重い、真鍮製の製本用プレス重石。
どちらも、私の指先になじんだ仕事道具だ。紙の端を正確に裁断し、狂った頁を平滑に圧着するための工具。私にとって、汚れたものを「正しく整える」ための神聖な器具だった。
玄関のドアを開け、一歩外へ出る。
鍵を二回まわし、いつもと同じように階段を駆け下りた。
隣の二〇一号室のドアの前を通りかかる。ドアノブには薄っすらとホコリが積もり、ポストには名前すら入っていない。一見すると空き部屋にしか見えないその扉の向こうで、あの男が息を潜め、私の足音を数えているのだと思うと、背筋に不快な熱が走った。
職場に着いても、私の動作に一切の狂いはなかった。
黙々と古い公文書をスキャンし、文字を打ち込む。指先は機械のように正確にキーボードを叩き続けた。
同僚たちが昼食のために席を立つ中、私は自分のデスクで温かいお茶を一口飲み、頭の中で今夜の手順を反芻していた。
男は指定してきた。今日の午後二時、私の不在時に壁を抜け、部屋の中で私を待つと。
男は私を甘く見ている。
「人間嫌いの気の弱い女」が、自分の侵入に怯え、恐怖に震えながらドアを開ける姿を想像して悦に浸っているのだ。男にとって、私はどこまでも受動的な「被害者」でなければならなかった。
だが、甘い。
私は人間が嫌いだ。
嫌いだからこそ、人間という不快な生物が自分の領分を侵した時、どれほど残酷になれるか、あの男は理解していない。他者との関わりを断絶して生きてきた私にとって、自分の領域を守るための暴力には、何の躊躇も、何の倫理的ブレーキも作用しないのだから。
午後五時。退社を告げるチャイムが鳴った。
「お先に失礼します」
短く告げ、私は立ち上がった。
いつもなら早足で駆け抜ける帰り道を、今日はあえてゆっくりと歩いた。冷たい秋風が頬を撫でる。この風の冷たさも、街の雑音も、今日の私にはどうでもよかった。
駅からアパートまでの十五分間、私の心は奇妙な静けさに包まれていた。
恐怖は完全に消え去り、ただ「仕事を完遂する」という事務的な意志だけが残っていた。
アパートの外階段を上る。ギシギシと鉄が鳴る。
二階の廊下。二〇一号室の前を通り過ぎ、二〇二号室――自分の部屋のドアの前に立つ。
鍵穴に鍵を差し込む。
カチャリ、と重い金属音が響いた。
ドアの隙間に挟んだ糸の切れ端は、床に落ちていなかった。
男は中から鍵を締め直してはいない。私が帰ってきた瞬間を逃さないよう、あえて施錠せずに中で待ち構えているのだ。
ドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。
私は深く息を吸い込み、胸の奥で最後の「静寂」を抱きしめた。
そして、ゆっくりと、何食わぬ顔でドアを押し開けた。
暗がりの中、部屋の真ん中に、人影が立っていた。




