第4話:歪んだ観察日記
視線が交錯した数十秒間、部屋の中の時間は凍りついていた。
穴の向こうの瞳は、恐怖など微塵も浮かべていなかった。そこにあったのは、愛玩動物がようやく自分の存在に気づいてくれたと言わんばかりの、醜悪で湿り気を帯びた歓喜だった。
――カサ。
男がゆっくりと目を離し、暗闇の奥へ気配が遠のいていく。
私は押し入れの引き戸を静かに閉め、部屋の真ん中に戻った。心臓は不気味なほど穏やかに脈打っていた。激しい吐き気と恐怖のピークは過ぎ去り、頭の中は冷え切った氷のように澄み渡っていた。
もう、逃げる気などサラサラない。
私は部屋の音を遮断するためにいつも使っている防音用のヘッドホンを外し、壁に耳を当てた。
壁の向こう――二〇一号室から、微かな音が漏れて聞こえてくる。
「……今日は、六分、遅かった……」
掠れた、か細い男の声だった。
「……傘の、滴の、落とし方……いつもと、違う……怒ってる……僕の、存在に、気づいてくれた……」
男は、ブツブツと独り言を呟いていた。その声には、奇怪な恍惚感が混じっている。
男は単に私を覗いていたのではない。私の帰宅時間、歩幅、靴を脱ぐ音、湯を沸かす間隔、果ては溜息の回数まで、私のあらゆる生体反応を「記録」していたのだ。
男の独り言は続く。
「……大丈夫……君は、人間が、大嫌いだから……警察なんて、絶対、呼ばない……僕たちだけの、世界だ……ねえ、そうだろう……?」
私は背筋が凍りつくのを感じた。
男は私の「人間嫌い」という本質すら見抜いていた。通報すれば自分の聖域が警察という無遠慮な他人に踏みにじられること、それを私が何よりも嫌うことを熟知した上で、私を追いつめていたのだ。
男にとって、この壁の穴は「檻」であり、私はその中で飼育される美しい標本だった。
私は机に向かい、引き出しから一冊のノートを取り出した。
男が私を観察していたのなら、今度は私が男を解剖する番だ。
男の行動パターンを書き出していく。
私が毎朝八時に出勤してから、午後五時半に帰宅するまでの約九時間。男が壁の板を外し、こちらの部屋に侵入してくるのは、決まって「午後二時前後」だ。
なぜその時間帯なのか。
おそらく、アパートの他の住人が出払い、廊下の人通りが最も少なくなる時間だからだ。そして男自身も、その時間帯にしか動けない何らかの事情がある。
ノートにペンを走らせる手が止まる。
ふと、クローゼットの横、床に直接置かれたままの小さな段ボール箱が目に入った。昨日までそこにはなかったものだ。
近づき、蓋を開ける。
中には、小さな録音機(ICレコーダー)と、束になったB5サイズの大学ノートが入っていた。
手が微かに震えるのを感じながら、私はノートのページをめくった。
びっしりと狂気的な細字で埋め尽くされた、私の「観察日記」だった。
『○月○日。今日も彼女は誰とも口を利かずに帰ってきた。美しい。彼女の静寂は、僕だけが理解できる』
『○月○日。彼女が僕の残した匂いに気づいた。眉をひそめる顔が、たまらなく愛おしい』
『○月○日。ついに押し入れの衣装ケースを動かした。僕を見つけてくれた。二人の距離が、また縮まった』
最後のページには、今日の付箋が貼られていた。
『明日の午後二時。僕は君の部屋で、君を待つ。もう壁なんていらない』
男は、明日の留守中に侵入するのではない。
私が帰宅するその瞬間を、この部屋の中で「直接」出迎えようとしているのだ。
狂気が、一線を越えようとしていた。
私はノートを静かに閉じ、元の段ボール箱へと戻した。
恐怖で震える代わりに、私の口元はゆっくりと吊り上がっていた。
「そう……明日ね」
自分の部屋を荒らされるのは、これで終わりだ。
不快なノイズを撒き散らすハエを退治するのに、警察も、裁判も、法律もいらない。
私の聖域を汚した罪は、この部屋の静寂の中で、私自身の手で支払わせる。




