第3話:壁の裏の眼
息が止まりそうだった。
スマートフォンを握りしめる指先が、冷たく痺れていく。画面の中で、あの薄汚い中年男が押し入れの暗闇へと消えていった光景が、網膜に焼き付いて離れない。
男は玄関から入ってきたのではない。最初から、この部屋の内部と繋がっていたのだ。
私はゆっくりと歩みを進め、押し入れの前へと立った。
普段、ここには季節外れの衣類や予備の寝具を仕舞ってあるだけだ。何の変哲もない、木製の引き戸。
手を伸ばし、滑車が軋む音を立てて引き戸をスライドさせる。
押し入れの中は、湿ったベニヤ板の匂いと、微かなカビの臭気が充満していた。すのこを取り払い、奥に積み上げていた衣装ケースをひとつずつ、音を立てないように慎重に床へと引きずり下ろす。
押し入れの最奥、ベニヤ板の壁が現れた。
私はスマートフォンのライトをつけ、その壁面を舐めるように照らした。
中央よりやや上、大人の目がちょうど位置するあたりの高さに、それはあった。
——直径二センチほどの、綺麗な丸い穴。
ベニヤ板が不自然にくり抜かれ、その奥にある古い石膏ボードまでもが貫通していた。穴の向こう側は、暗闇だ。しかし、注意深く目を凝らすと、かすかな光の漏れと、隣室の雑然とした気配が感じ取れた。
ここは、隣部屋との境目だ。
私が住む二〇二号室のすぐ隣、二〇一号室。
一度も顔を合わせたことがなく、郵便受けの苗字すら確認したことがない「存在しないはずの隣人」。
男は、この穴から私の部屋を覗いていたのだ。
穴の周辺のベニヤ板は、長年にわたって男が掌や額を押し当てていたのだろう、皮脂と汗で黒ずみ、変色していた。
想像しただけで、猛烈な吐き気が口腔を満たした。
私がこの部屋で着替えをし、横になり、本を読み、静寂を享受しているその瞬間も、壁の向こうではあの男が穴に目を押し当て、呼吸を殺して私を見つめていたのだ。
それだけではない。
男はこの穴の周囲の壁板を巧妙に外せるよう加工し、私が留守の間に壁を通り抜けて、私の「聖域」へと足を踏み入れていた。
「うっ……」
口元を手で覆い、私はその場にしゃがみ込んだ。
全身の毛穴という毛穴から、嫌悪の汗が噴き出す。
私にとっての聖域。世界で唯一、他人の存在から守られた無菌室のはずだった六畳間。
そこは最初から、見知らぬ男の視線によって汚され、踏みにじられ、弄ばれていた「実験室」に過ぎなかったのだ。
足元から崩れ落ちそうな恐怖が押し寄せる。
だが、その恐怖の波のすぐ後ろから、それを根こそぎ呑み込むような、ドロドロとした黒い感情が湧き上がってきた。
——激怒だ。
私から静寂を奪った。私の空間を汚した。私という存在を、勝手に観察対象に仕立て上げた。
「許さない……」
歯の隙間から、低く掠れた声が漏れた。
警察に駆け込めば、男は逮捕されるかもしれない。だが、この部屋は「事件現場」として記録され、大家や警察、下衆な野次馬どもに土足で踏み荒らされる。そして私は、別の場所へ引越し、再び新しい部屋で誰かに怯えながら暮らさなければならない。
なぜ、被害者である私が追い出されなければならないのか?
なぜ、他人の身勝手な欲望のために、私の平穏が破られなければならないのか?
私は立ち上がり、壁の穴を静かに見つめ返した。
その時だった。
穴の向こう側の暗闇で、わずかに「空気」が動いた。
——カサリ。
服が擦れる小さな音。
そして、穴の向こうに、ぬめりとした光を宿した「丸い球体」がヌッと現れた。
人間の、目だ。
男が、穴の向こうからこちらを覗き込んでいる。
私が自分の仕掛けに気づき、押し入れの奥を暴いたことに、男は気づいているのだ。
男の瞳が、歓喜と歪んだ興奮で微かに震えた。
壁一枚を隔てて、私と男の視線が、真っ直ぐに交差する。
男の口元が歪み、声にならない薄笑いを浮かべた気配が、穴を通じて伝わってきそうだった。
私は逃げなかった。悲鳴も上げなかった。
ただ、冷徹な殺意だけを瞳に宿し、男の目をじっと見つめ返した。




