第2話:侵入の証明
気のせいなどではなかった。
確信に変わったのは、それから三日後の夜のことだ。
残業を一切せず、寸分違わず同じ時刻に帰宅した私は、玄関で違和感を覚えた。鍵はしっかり閉まっていたし、ドアの隙間に仕掛けた糸の切れ端も落とされていた。だが、部屋に入った瞬間の「空気の密度」が違った。
誰かが、数分前までここにいた。
私は靴を脱ぎ、忍び足で部屋の真ん中へ向かった。
視線を一点に注ぐ。テーブルの上に置いてあった、ステンレス製のマグカップ。
朝、出勤する前に完璧に乾かし、持ち手を真東——角度にして九十度の向きに正確に揃えて置いたはずだった。
それが今、わずかに南へと傾いている。角度にしておよそ十五度。
「……触ったのね」
声に出すと、部屋の静寂がにわかに重みを増した。
不快感が津波のように押し寄せる。見知らぬ他人が、私の不在時にこの部屋へ上がり込み、私の所有物に指を触れ、空気を汚していった。吐き気がした。皮膚の内側を気味が悪い虫が這い回るような、激しい嫌悪感。
警察に通報する、という選択肢が頭をかすめた。だが、すぐにそれは否定された。
警察を呼べばどうなる?
制服を着た粗野な男たちが土足同然で上がり込み、私の部屋を指紋粉末で汚し、根ほり葉ほり不躾な質問を投げかけてくるのだ。「最近、誰かに狙われるような心当たりは?」「交友関係は?」と。
考えるだけで虫唾が走る。他人に自分の聖域を荒らされるくらいなら、侵入者に汚される方がまだマシだ。
それに、警察などという鈍重な組織に頼ったところで、盗難被害もない「カップの向きが変わっただけ」の事案で本気で動くはずがない。
「私の部屋は、私だけのものだ」
私は誰にも頼らない。私自身の手で、この不快なハエの正体を突き止め、完璧に排除する。
翌日から、私は静かな追跡を開始した。
まず、部屋のあらゆる場所に「見えない罠」を仕掛けた。
クローゼットのドアの接合部に、抜けた自分の髪の毛を唾液で貼り付ける。
引き出しの隙間に、肉眼では見えないほど小さく切った透明な粘着テープを渡す。
床のフローリングには、微量の片栗粉を薄く、均一に塗布した。
そして決定的な対策として、使わなくなった古いスマートフォンを本棚の洋書の隙間に隠し、防犯カメラアプリを起動させた。動体検知で自動録画される仕組みだ。画面のレンズだけが、静かに部屋の中央を凝視している。
完璧な準備を整え、私は翌朝も何食わぬ顔で出勤した。
職場でのデータ入力作業中も、私の頭の中は自室の映像で満たされていた。
誰が? どうやって? 鍵は破られていない。ピッキングの跡もない。窓も二重ロックがかかっている。
それなのに、奴はどこから入ってくるのか。
午後五時。終業のチャイムとともに、私は鞄を掴んで立ち上がった。
同僚からの「お先に〜」という声を背中で受け流し、早足で駅へ向かう。電車内での他人の息遣いすら、今日の私にはどうでもよかった。胸を占めていたのは、恐怖ではなく、狂おしいほどの攻撃性だった。
自室のドアを開ける。
糸は落ちている。
部屋に入り、まず引き出しを見る。粘着テープがちぎれていた。
クローゼットを見る。髪の毛が落ちていた。
そして、片栗粉を撒いた床には——かすかな、だが確実な靴下の痕跡が残っていた。サイズは二十六センチ前後。大人の男の足痕だ。
侵入者は、今日も来た。
私は震える指で、本棚の隙間からスマートフォンを取り出した。
画面をタップし、録画ログを開く。
時刻は、今日の午後二時十五分。私が職場で黙々とスキャナーを動かしていた時間帯だ。
再生ボタンを押す。
無音の画面の中で、私の部屋が映し出される。
数秒の静寂の後、画面の隅——画面の右側に位置する、押し入れの引き戸が、内側から滑らかに開いた。
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
玄関からではない。窓からでもない。
男は、押し入れの「中」から這い出てきたのだ。
画面に映ったのは、ボサボサの薄い髪、ヨレヨレのトレーナーを着た中年男の姿だった。
男は素足で部屋に上がり込むと、うっとりとした表情で私のベッドに近づき、枕に顔をうずめて深呼吸をした。それから私のクローゼットを開け、服に顔を擦り付け、最後にテーブルのマグカップを愛おしそうになぞった。
男の顔に見覚えはなかった。だが、その湿った目つき、使い古された衣服の質感には、どこか聞き覚えのある「匂い」があった。
男はしばらく部屋の中を徘徊すると、満足したように再び押し入れの中へと消えていき、引き戸が静かに閉まった。
映像が途切れる。
私の心臓は、激しく鐘を打っていた。
外部からの侵入ではない。男は、最初からこの部屋の「すぐ隣」にいたのだ。
私はゆっくりと視線を巡らせ、部屋の壁を——隣室との境目にある、押し入れの暗がりを見つめた。




