第1話:透明な生活と微かなノイズ
他人の存在は、私にとってただの害悪でしかない。
すれ違いざまに撒き散らされる安っぽい香水の匂い、電車内で聞こえる湿った咳払い、そして何より、意味もなく交わされる無価値な雑談。それらすべてが、私の皮膚を毛羽立たせ、不快な神経毒のようにじわじわと全身を蝕んでいく。
だから私は、人と関わらない。
私の仕事は、行政機関が保有する古文書や旧公文書のデジタルデータ化作業だ。薄暗いアーカイブ室の隅で、私は朝から夕方まで、ひたすら古い紙をスキャナにかけ、タグを打ち込み、文字起こしをする。
誰とも目を合わせる必要はない。業務連絡すら、最低限のチャットツールで事足りる。
「……お疲れ様でした」
退社時間を告げるチャイムが鳴った瞬間、私はデスク周りを整え、同僚たちが声をかけてくる隙すら与えずに立ち上がった。背後で何か話しかけようとした気配があったが、無視してドアを抜ける。エレベーターを待ちたくないので、薄暗い非常階段を一気に駆け下りた。
外は冷たい雨が降り始めていた。傘を深く差し、俯き加減に駅へと向かう。道行く人々は皆、私にとって背景に過ぎない。あるいは、避けるべき障害物だ。
私という人間を、社会という巨大なシステムの網目から完璧に滑り落ちさせたままにしておくこと。それが私の生存戦略であり、唯一の美学だった。
駅から徒歩十五分。築三十年を超えた、鉄骨造りの古いアパートが私の城だ。周囲に商業施設はなく、住人の大半は互いの顔すら知らない一人暮らしばかり。ここには不快な「コミュニティ」など存在しない。
ギシギシと鳴る外階段を上り、二階の突き当たりの部屋へ向かう。キーレスの電子錠ではなく、無骨な金属の鍵を穴に差し込み、左に二回まわす。カチャリと重い音がして、ドアが開いた。
――カシャ。
玄関に入った瞬間、小さな音が足元で鳴った。
ドアの隙間に挟んでおいた、黒い裁縫糸の切れ端が床に落ちた音だ。
私は靴を脱ぐ前に、玄関の床を凝視した。糸の落ちている位置、角度。何の問題もない。外部からの侵入者がドアを開ければ、糸はもっと奥へと吹き飛ぶか、変形しているはずだ。
「……ふぅ」
息をひとつ吐き出し、私は部屋へと足を踏み入れた。
六畳一間のアパート。備え付けのクローゼットと、最低限の家具。テレビはない。私の生活には音も視覚的ノイズも不要だからだ。ここには、私が完全にコントロールし、管理下に置いた「完璧な静寂」だけが存在する。
鞄をテーブルに置き、手洗いを済ませ、台所で湯を沸かす。無香料の石鹸で手を洗い、ステンレスのシンクを固く絞った雑巾で拭き上げる。すべては毎日寸分違わず繰り返される儀式だ。
だが、ポットの水が沸騰するのを待っている時だった。
ふと、鼻腔を突く「違和感」があった。
私は眉をひそめ、部屋の空気を深く吸い込んだ。
洗いたての柔軟剤の香りでもなく、私が好む無香料の空間の匂いでもない。
――湿った土と、古くなった油脂が混ざり合ったような、かすかな生臭さ。
それは、私自身の体臭でも、部屋の老朽化による匂いでもなかった。外部の「人間」が持ち込む、特有の不快な臭気。
私はすぐに台所を出て、部屋の中を細かく検分し始めた。
机の上の文房具の位置。数ミリ単位で平行に並べられたペン。ズレはない。
クローゼットのハンガー。等間隔に並んでいる。
窓のクレセント錠。しっかりと締められている。
気のせいか? 私の神経が過敏になっているだけだろうか。
私はクローゼットの扉を開け、中に吊るした衣服の匂いをかいだ。
一瞬、例の生臭さが強く鼻をかすめた気がした。
だが、服を押し分けて奥を確かめても、そこには何もない。ベニヤ板の壁があるだけだ。
「……気のせいね」
つぶやいた自分の声が、静寂に溶けて消えた。
しかし、その夜。
ベッドに入り、防音用の耳栓をして目を閉じた私の胸には、取り払うことのできない小さな棘のような不安が残っていた。
完璧だったはずの私の聖域に、目に見えない「何か」が紛れ込んでいるような、気味の悪い感覚。
それが、私の完璧な日常が崩壊していく最初の足音だとは、この時の私はまだ知る由もなかった。




