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第2章:【関ヶ原編PART4】

:関ヶ原開戦と現場の逆襲



──慶長五年、九月十五日──



 関ヶ原の野は、底冷えのする不気味な濃霧に包まれていた。


 午前中の戦況は、まるで天海の描いたシナリオ通りだ。


 西軍総大将の毛利輝元は大坂城で「お腹が痛い」と引きこもり、美味い飯を食って寝ている。


 前線の吉川広家は、三成からの出陣要請を「いま弁当を食べているから」と一蹴し、完全にサボタージュを決め込んでいた。



「……ねね様の密書、狂いなし、か」


 恩人からの言葉通りに動く戦場を前に、島津義弘はただ腕を組み、事の顛末を見届けようと冷ややかに静観している。


 これが仕組まれた出来レースであることを、深く確信しながら。



 そのころ、松尾山の小早川秀秋は、ねねの指示通り、あのタヌキから裏切り開始の合図が飛んでくるのを待ち、ガタガタと震え上がっていた。



 ツナリだけが、自らの周囲に張り巡らされたその巨大な裏切りの網に一切気づかぬまま、本陣の山頂で必死に正義の指揮を執り続けていた。



 だが、天海の計算を狂わせたのは、佐和山の泥の中で極限まで鍛え上げられてきた、西軍の現場の執念であった。



「──放てェッ!!」



 ツナリの鋭い号令とともに、完璧なタイミングで鉄砲隊の一斉射撃が東軍の先鋒を容赦なく撃ち抜く。


 ツナリが私生活を切り詰めて買い揃えた最新鋭の火縄銃と、彼がミリ単位で計算した無駄のない射撃理論。


 それは、ただ数を揃えて押し寄せる東軍の兵たちを、面白いように足止めしていった。



 さらに、崩れかけた前線を猛然と押し戻したのは、蒲生頼郷と舞兵庫の猛者コンビであった。



「どりゃあぁぁぁッ!」


 頼郷の大身槍が、東軍の武者の喉元を正確に貫いていく。



 かつての清正や正則のような、我流の天性の暴力ではない。


 左近に叩き込まれた、上半身の無駄な力みを一切排し、下半身の骨の連動から放たれる『理の武術』。



 雨上がりの泥濘に足を取られて体軸をブレさせる東軍の兵たちに対し、佐和山で泥を吸い尽くしたツナリ隊の兵たちは、恐ろしいほどに体幹が安定していた。



 敵の強烈な一撃を兵庫は力で受け止めるのではなく、受け流して相手が崩れた刹那に己の全体重をぶつけて圧殺する。


 離れていながらも、互いの動向を完璧に予測し、一つの生き物のように呼吸を合わせる頼郷と兵庫。



 あの伏見街道での左近と義宣のアイコンタクトの護衛バトルと同じ、具現化した神速の連携プレーが、今度は数万の大軍の規模となって戦場を完全に支配していた。


 現場のフィジカルと戦術が、完璧となって東軍を激しく押し返していく。




 西軍は戦況を圧倒的に優勢へと進めていた。



「よし……! 正義は、必ず勝つんだ!」



 本陣の山頂からその鮮烈な勝機を見下ろしたツナリは、汚れた泥沼の中で自らの放った不器用な剛速球が、ついにタヌキの野心を捉えたと勝利を確信して胸を熱く震わせるのだった。



──しかし、優勢なはずの戦況の真ん中で、血煙を浴びながら誰よりも鋭く大身槍を振るう左近だけは、冷たい汗を流していた。



 前線がどれほど東軍を圧倒しようとも、後方に控える毛利も、小早川も、島津も、誰一人として連動してくる気配すらない。


 弥助から手渡された、あの密書通りの異常な光景が目の前に広がっている。



(本当だったのか……? 誰も動かん。


 あの弥助からの密書通り、この戦は最初からツナリ殿をハメて殺すための、上の者たちの罠だったのか……!)



「左近! なぜ毛利も小早川も動かんのだ! 我らの正義はどこへ行った! 


 もう一押しで、タヌキの首を我が手中に出来るというのに……!」



 本陣の奥で、髪を振り乱してパニックになるツナリの姿が、左近の目に飛び込んできた。


 あまりにも純粋で、あまりにも孤独な我が主君。



 一方、冷や汗をかいて焦っていたのはタヌキでもあった。



 馬上のタヌキは顔を引きつらせ、本陣でガタガタと歯を鳴らした。



「お、お前たち! 出来レースとやらはどうした!? 


 ワ、ワシらはハナから勝つ筋書きではないのか!?」




──間もなく正午を迎える頃。



 西軍の『理の武術』の前に徳川の本陣までが揺らぎかけたその時、タヌキは冷や汗を拭いながら吼えた。



「そ、そうじゃったな……!


 さ、三発じゃ、三発放つんじゃ。 ……えぇい、ままよぉおッ! 


 放て、放てぇい!」




:松尾山のハッキングと英雄の覚醒



 タヌキはたまらずに、予定されていた最後の強制ハッキング作戦である、松尾山へ向けた空鉄砲の合図を命じた。




 ドゴオォォーン!


 ドゴオォォーン!


 ドゴオォォーン!



 ゴオォォーン……ォーン



 凄まじい銃声が三発、関ヶ原の山々に反響する。



「き、来たぞ! ……ほ、本当に来たぞ!」



 松尾山の上、秀秋の脳裏に、あの夜お初から額に叩きつけられたねねの密書の内容が、パキーン! と鮮烈に蘇った。



『お前は裏切り者なんかにならないよ……天下を最速で終わらせる英雄になるのだよ……』



 秀秋の顔が、その生涯で一度だけ、たった一度だけ、一人の頼もしい総大将の顔へと生まれ変わっていく。



「ぼ、僕は裏切り者じゃない! 僕は天下の戦を終わらせる英雄だぁあああっ! 


 皆の者ぉ、続けぇええーい!!」



「オォォォッ!!」



 遂に松尾山の小早川秀秋の軍勢が、一斉に山を駆け下りて東軍へと寝返り、完璧だった西軍の陣形は一気に内側から瓦解した。


 その猛烈なハッキングの牙が、最前線で盾となっていた、大谷吉継の陣営へと真横から突き刺さる。



 あまりの勢いに意表を突かれ、吉継の陣は前列、後列と瞬く間に分断され、絶叫が響き渡る血の海へと崩れ去っていく。




:漢たちの散り際と左近の覚悟



 吉継の陣営を、瞬く間に壊滅状態に追い込んだ小早川の裏切り軍勢と、それに勢いづく東軍の津波が、いよいよツナリの本陣守備隊へと牙を剥く。



 その最前線、土煙が激しく舞う泥濘の中に、威風堂々と立ちはだかる二人の巨躯があった。


 蒲生頼郷と舞兵庫である。



「兵庫! わけの分からん大崩壊だが、俺たちのやることは一つだなぁ!」


「応よ頼郷! 泥を吸うのは、佐和山の修練だけで十分だ。ここで一歩も引かんぞッ!」



 迫り来る数千の敵の槍衾(やりぶすま)に対し、二人は何も知らぬまま、ただ主君への純粋な忠義だけを胸に、一つの生き物のように呼吸を合わせて突撃した。


 頼郷の大身槍が、風を切り裂いて敵の首級を次々と弾き飛ばす。


 その横で、兵庫の剛剣が、押し寄せる東軍の甲冑を肉ごと真っ二つに叩き斬っていく。



 左近に叩き込まれた『理の武術』──無駄な力みを一切排し、下半身の骨の連動から放たれるその一撃一撃は、絶望的な数に圧殺されかかりながらも、恐ろしいほどに体幹が安定していた。



 しかし、多勢に無勢。真横から突き刺さる大軍の勢いは止まらず、二人の肉体には、瞬く間に無数の槍や刀の刃が突き刺さっていく。


 真っ赤な血が、佐和山の泥をさらに深く染め上げていく。



「がはっ……! 頼郷……まだ、動けるか……!」


「当たり前だ……! 殿を……ツナリ殿を、こんな不条理な戦のなかで死なせてたまるかよォ!!」



 兵庫は、己の胸を深く貫いた敵の槍を、なんと自らの左手でガシッと掴んで引き寄せ、驚愕する敵兵の脳天を右手の太刀で叩き割った。


 そして、頼郷は無数の矢をその身にハリネズミの如く浴びながらも、大身槍を地面へと深く、深く突き刺し、己の身体を一本の巨大な杭のように固定した。


 敵の兵たちが、死に体の頼郷を押し倒そうと群がるが、その鍛え上げられた下半身の体軸は、死してもなお、微動だにせずブレることはなかった。



 頼郷の遺体を盾にするように背中を預けた兵庫は、血反吐を吐きながら、迫り来る敵の大軍に向けて、不敵にニヤリと笑ってみせた。


「見たか、東軍の節穴どもめ……これが、ツナリ隊の……現場の体幹だぁあああッ!!」



 兵庫は最後の力を振り絞って大刀を真横に一閃し、群がる敵兵数名を巻き添えにしながら、頼郷と並び立つようにして、立ったまま堂々と息絶えた。



 不条理な大敗北の渦中にあって、何も知らぬまま現場のフィジカルを極限まで証明した猛者コンビ。


 その壮絶すぎる立ち往生の最期は、完璧な出来レースの戦場に、決して消えない「人間の熱き意地」を刻みつけたのである……




 大谷吉継の陣を食い破り、蒲生・兵庫の防衛線を力任せに圧殺した小早川の裏切り軍勢と東軍の波は、いよいよツナリの待つ本陣の山頂へと向かって、勝ち鬨(どき)を上げながら坂を駆け上り始めた。



 本陣のすぐ手前、血煙が立ち込める戦況を冷徹に見つめていた島左近。


 そこに、肩を激しく上下させた伝令の足軽が、悲痛な叫びを上げて飛び込んできた。


「ほ、報告ッ! 最前線の蒲生頼郷様、舞兵庫様の陣、敵の大軍に完全に飲み込まれましたッ! お二方の陣からの応答、一切途絶……!」



 それ以上、伝令が言葉を続ける必要はなかった。二人がどれほどの猛者であるか、誰よりも知っているのは、この左近である。


 その二人の陣の音が、抵抗の響きが、完全に消え去ったという事実。


 それは、二人が何も知らぬまま、主君ツナリのために命の最後の最期まで肉体を盾として使い果たし、全員が誇り高く玉砕したという答えに他ならなかった。



「な、何事か……! 何が起きたんだ……!?」


「私たちは正義の力で勝つんだ! これは正真正銘の戦だ!」


 そう信じ込んでいたツナリは、前線のあまりの大崩壊の衝撃にガタガタと震え、呆然と立ち尽くしていた。



 その横で、すべてを合戦前に聞かされていた左近だけが、冷めた、しかし最高に腹の据わった目で、迫り来る敵の津波を見つめていた。



「なぜだ……! なぜ裏切る! 義は、我らにあるはずだッ!」


 狂ったように叫ぶツナリの後ろ姿を見つめながら、左近は心の中で、切なく苦笑した。



(……本当に、出来レースだったか。 


 ぐっ、弥助よ……お前は正しかったのか? 


 おねね様も天海のジジイも、大した役者だよ。まんまとこの左近まで、綺麗に踊らされちまったな。 



 殿、アンタがバカを見るのは最初から分かってた。 


 分かってたが──)



 左近は、ボロボロになりながらも義を信じて疑わない若き主君の背中を見た。


 そのあまりの純粋さが、あまりの不器用さが、左近には狂おしいほど愛おしかった。


 蒲生と、兵庫の命を賭した立ち往生が、ツナリを逃がすための僅かな「命の時間」を、この本陣にもたらしたのだ。



 左近は、血まみれの刀を強く握りしめ、天を仰いでギリリと奥歯を噛み締めた。


(頼郷……兵庫……お前たち、何も知らぬまま、そんな綺麗な正義のために、真っ直ぐに散っていきやがって……!)



 涙は出ない。ただ、胸の奥で煮えたぎるような怒りと、逝ってしまった仲間たちへの狂おしいほどの愛おしさが、左近の全身を「鬼神」へと変えていく。



 左近は、かつて弥助から預かり、肌身離さず隠し持っていた密書を取り出した。


 一瞬の、ほんの一瞬の迷いを吹っ切り、鬼神の如き形相のまま、その、ただのゴミに成り下がった紙切れ(密書)をビリビリに破り捨てた。



(──そんな綺麗な正義を本気で信じてる大馬鹿野郎を、ここで一人ぼっちにして死なせられるかってんだよ!)



 左近はツナリの肩をガシッと掴み、強引に引き剥がすように引き摺り回した。



「殿! 逃げられよ! ここは引き口にござる!」



「何を言うか、左近! 私はまだ諦めぬ! 義を覆してなるものか!」



 泣きそうな顔で激しく抵抗するツナリの胸ぐらを、左近はガッと掴み、その顔を至近距離で睨みつけた。



 天海たちの計画──この戦が最初からツナリをハメるための舞台劇だったことなど、口が裂けても言えない。


 言えば、ツナリの魂が死ぬ……




「五月蝿(うるせ)えぇ!! 



 漢が一度決めた道を、ガタガタと疑うなッ! 


 殿の『義』が本物かどうかは、生きて、後世の奴らに証明させりゃあいいんだよ!」



左近はツナリを名馬の背に無理やり押し乗せ、その尻を刀の腹で激しくビシッと叩いた。



「行けえッ! 石田ツナリァ!!」



「さ、左近ッ……! うぉああぁぁぁ!!」



 泣き叫ぶツナリの声を乗せ、名馬は泥濘を蹴って伊吹山方面へと激しく駆け出していった。



 遠ざかる若き主君の後ろ姿を、左近はただ一度も振り返ることなく、押し寄せる東軍の人形どもを睨み据えた。




 その左近のすぐ横に、一人の漢が音もなく並び立った。




:身代わりの甲冑と現場の反逆



 ツナリ隊の本陣守備を任され、この一年、佐和山でツナリの盾となるフォーメーションを組み立て続けていた男──大山伯耆(おおやまほうき)である。



 伯耆の目は、冷徹なまでに据わっていた。



「左近殿。 ツナリ様の背、しかと見届けた……」


「……伯耆か」



 左近は口元を血で染めながら、不敵に笑った。



「上の奴らの台本通りなら、奴らはツナリ殿の首を獲るまでどこまでも追う。


 このままでは、あの馬鹿正直な殿はすぐに捕まるぞ」



「分かっている。 だからな──」



 大山伯耆は言うや否や、己の具足を脱ぎ捨て、ツナリが本陣に脱ぎ捨てていった、あの佐和山の修練の汗が染み込んだ『ツナリ』の高級な甲冑を、独断でその身にまとい始めた。



「伯耆、お前……」


 左近の目がわずかに見開かれる。



 伯耆は、ツナリの兜の緒をガチッと力強く締め直すと、ニヤリと笑ってみせた。



「何、この一年、ツナリ治部様と飯を食い、共に体幹を鍛えてきたのだ。


 腰の落とし方、佇まい、後ろ姿くらい、あの東軍の節穴どもの目を騙すことなど容易にござるよ。



 左近殿、殿の『義』の続きは、俺がこの命で引き受けてみせる」



 それは、軍師である左近の指示すら仰がない、大山伯耆という一人の武士の、完全なる独断の覚悟だった。




「よし……行ってこい、伯耆! 盛大に踊って、上の狐どもを騙し通してやれ!」



「応ッ!!」




:総大将の偽装と鬼神の咆哮



 ツナリの甲冑をまとった大山伯耆は、大音声で戦場に吼えた。



「我こそはツナリなりッ! 


 保身のために大恩を忘れた東軍の犬ども! 


 我が首が欲しくば、このド真ん中まで奪いに来いッ!!」



 その咆哮に、東軍の数万の軍勢が「ツナリがいたぞ!」「治部の首を獲れ!」と色めき立ち、津波のように伯耆の元へと殺到していく。


 ツナリを追うはずだった敵の視線が、完璧に反転した瞬間だった。



 それを見届けた大山伯耆は、狂喜の笑みを浮かべ、一瞬だけ振り返り左近を見つめた。


 ニヤリと笑い、固く握りしめた右拳の親指をビシッと突き立てた。



(お先に、地獄で待ってるぜ! 頼れる軍師さんよ!)



 その直後、押し寄せる大軍のド真ん中へと、ただ一人で突撃していった。



 敵の槍に何十回と突かれ、血反吐を吐きながらも、佐和山の修練で鍛え上げたその体幹は、やはりブレず、ツナリの身代わりとして壮絶に散っていった……




 すべての出来事を見送った左近は、ゆっくりと振り返る。



(殿……アンタを慕う奴らは最高にシビれてやがる! お前らカッコいいぜ!!)



 目の前には、怒涛の如く押し寄せる東軍の軍勢。


 小早川、毛利、島津──上の台本通りに動く、出来レースの人形どもがそこにいる。




:鬼神の終焉と不滅の魂



 左近は、血まみれの刀を肩に担ぎ、押し寄せる大軍に向かって、腹の底からの大笑いを響かせた。



「ドワァハハハハハ!! 


 どいつもこいつも、偉い奴らの書いた図面通りに動いて、そんなに楽しいかよォ!!」



 左近の全身から、凄まじい鬼気が立ち上る。



「神だの、晩廷だの、ねね様だの、タヌキだの……! 


 裏でコソコソ糸引いてる化け物どもに、この島左近から言わせて貰うぜぇッ!!」



「お前たちの描いた筋書きなんざ──ッ!! 




 糞食らえだああああああああああああああッッ!!!」




(台本なんて知ったことか。


 俺はただ、俺が惚れた男の義のために、ここで文字通り泥を食って死んでやる)



「島左近の命、欲しくば奪ってみせろ! 人形どもォ!!」




 一騎当千の鬼神と化した左近は、押し寄せる大軍のド真ん中へと、ただ一人で、いや、散っていった仲間たちの魂を背負いながら突撃していった。



 その姿は、出来レースという完璧な冷徹の世界に、唯一放たれた人間の熱い魂の権化、そのものであった。


 島左近、華々しく戦場に散っていったのである……




:義心の終焉と親友への祈り



 一方その頃、小早川秀秋の急襲によって完全に退路を断たれ、壊滅の危機に瀕していた大谷吉継の陣営……



 すでに満身創痍、病によって両の目も完全に見えぬ状態となった吉継。


 迫り来る東軍の勝ち鬨を聞きながら、最後まで付き従う側近・湯浅五助の手を強く握りしめた。



「五助……ここまでだな。


 秀秋の裏切り、おそらくは始めから仕組まれていたこと……あまりにも不条理すぎる……」


 「だがな、ツナリとの義は、俺は最後の瞬間まで果たしたぞ」


(う……く、クソ! ツ、ツナリ……)



「五助、よく私に付いてくれた。礼を言う……最後の仕事だ……」


(ツナリ……ツナリィィィ!)



「五助よ解るな? 我が首を絶対に敵に渡すな……」


(ツナリィ……生きろ、生きろ!)



「この不浄の病の顔を、タヌキどもに晒して嘲笑われることだけは、絶対に許さぬ……」


(い、生きてさえいれば……き、きっと……いつかは……だろ?)



「五助……さぁ、来い!」


(あの時、佐和山へ……お前を訪ねて本当に良かった……


この吉継、我が人生最後に誇りを、何よりお前を取り戻せた……お前の側で良かったよ……う、うう……ありがとな、ツナリ)


(ツナリ、ツ……ツナリィィィィィィィ……!)



「御免っ!!」




──ザシュン!




「吉継様……! お見事な、あまりにもお見事な戦いぶりにございました!」



 五助は涙をダラダラ流しながら、吉継の介錯を完璧に見事に遂行した。


 その首を落とすと、何重にも、何重にも布切れで綺麗に包み込み、敵兵の目を盗んで泥深くへと、深く深く、誰にも見つからぬよう埋め隠した。



 だが、首を隠し終えて立ち上がった直後、東軍の猛将・藤堂高虎の家臣である藤堂仁右衛門が、血刀を提げて五助の前に立ちはだかった。



「お前は湯浅五助だな! 大谷吉継の首はどこへやった! 差し出せば命は救ってやるぞ!」



 五助は、もはや逃げられぬと悟り、ふっと誇り高い、静かな笑みを浮かべた。



「仁右衛門殿。 


 俺の首なら、いくらでもくれてやる。 


 だがな……ここで武士の約束をしてくれ。 


 吉継様の首を埋めた場所は、お前と俺だけの、永遠の秘密だ。 


 タヌキにどれほど拷問され、聞かれても、絶対に口を割るな。 


 さすれば、西軍随一の忠臣・湯浅五助を真っ向から討ち取ったという、お前にとって最大の家誉を、俺のこの首で完全に保障してやれる!」



 仁右衛門はその五助の凄まじい覚悟と、主君を守る執念に完全に気圧され、刀を構え直した。



「……あい分かった。 その武士の約束をこの藤堂仁右衛門、男の命に代えても守り通そう!」



「……感謝する!」




 五助は堂々と首を差し出し、満足げな笑顔のまま討ち取られたのだった。



 大谷吉継のプライドは、出来レースの戦場にあって、この二人の漢の約束によって完璧に守り抜かれた……



 そのすべての凄絶な戦況を、大坂城の毛利輝元は、伝令が運んでくる戦況報告を「お腹が痛い」と布団にくるまって無視し続け、前線の吉川広家もまた、最後まで弁当の言い訳を突き通した。



 勝負が決したその瞬間、島津義弘は、不敵に腕を組んで自らの馬を前へと進めた。



 ねねから授かった絵図の通り、完璧なタイミングであった。



「まことに嘘偽りはなかったのぅ……まぁ何とも見事にハマった絵図であるな」



 島津の兵たちがニヤリと笑う。



「約束通り、ここからは派手に、ド派手な退却戦を見せてやろうではないかー! 


 者ども、チェストオォォーッ!!」




 島津軍の精鋭たちは、あえて退路ではなく、勝者であるタヌキの本陣のド真ん中を真っ直ぐに突き抜ける『島津の退き口』を開始した。



 タヌキの目の前を疾風の如く通り過ぎながら、島津義弘は、本陣の床几に座るタヌキを鋭い眼差しで激しく睨みつけた。



 その視線は、数百年後の未来の闇を完全に射抜いていた。



「タヌキよ…… 


 お前の造るタヌキ天下なら、ここから百年、いや、二百年と更に先まで続くやもしれんな…… 



 しかしな、もしもその天下が揺らぐ時が来れば、我ら薩摩の血は、必ずやお前の作ったその檻を裏から奪い取りにいこうぞ! 


 遙か遠い地から、お前の世の終わりをじっと見ておるぞ。 



 しばらく、お前の天下が続くだろうが、ワシら薩摩の邪魔はさせん。ねね様との約束通りにな!」




 轟音を立てて駆け抜けていく薩摩の兵たち。



 タヌキはその凄まじい覇気に気圧されながらも、冷や汗を流してただ見送るしかなかった。



──こうして、たった一人の天海が描いた冷徹なる絵図により、日の本の歴史を激しく揺るがした未曽有の大戦は、わずか半日という短さで幕を閉じるのであった──




──数日後。



 戦雲の去った、タヌキの本陣。



 大谷吉継の側近・湯浅五助の首を真っ向から討ち取った藤堂仁右衛門──


 タヌキの前に呼び出され、周囲を重臣たちに囲まれる中、激しい尋問を受けていた。



「仁右衛門! 大谷吉継の首はどこへやった! 


 隠し場所を知っているのは、その場にいたお前だけのはずだ。 


 隠し立てするなら同罪とみなす、今すぐ吐け!」



 タヌキの放つ、天下を掌中に収めた覇王の凄まじい威圧感。


 並の武士ならば恐怖のあまりその場で気絶するほどの精神的プレッシャーの中、仁右衛門は一歩も引かず、堂々とその胸を張って言い放った。



「──知りませぬ! 拙者は、討ち取った湯浅五助と、命を懸けた武士の約束を交わしました。



 男が一度、己の魂に誓って交わした約束を、たとえ大御所様であらせられる貴方様の命令であっても、破るわけにはまいりませぬ。



 どうしてもその首の在処をお聞きになりたければ……どうぞ、拙者の首を今すぐここで、おはねくださりませ!」




 その堂々たる不敬の言葉に、周囲の側近たちが一斉に刀を抜きかける。



 だが、タヌキは驚きに目を見開いたのち、その老獪な顔にフッと静かな、どこか嬉しげな苦笑いを漏らしたのだった。



「……フッ、誰も彼も、命をドブに捨ててまで義や約束に殉じるか。 


 ツナリも、吉継も、五助も、それから……この男までもか。 



 わしやねね様が、どれほど完璧なハッキングの檻を作ろうとも、人間の魂の輝きまでは、どうしても縛れぬということか……」



 タヌキは仁右衛門を処刑するどころか、その損得勘定を抜きにした、武士の意地に深く感動し、その場で高価な名刀と破格の領地恩賞を与え、その美しい約束を未来永劫、黙認することを示したのだった。



 出来レースの檻の底で、人間の心が確かに小さな勝利を挙げた瞬間であった。




:出来レースの結幕と新時代へのバトン



──戦が終わり、再び静寂を取り戻した京の都。



 京都新城の一室。



 天海とねね様が、微かに湯気の立つお茶を静かにすすりながら、隠密から届けられた関ヶ原の極秘報告書に目を落としていた。



「……左近殿は、我が密書をその魂で破り捨てて、笑いながら戦死。


 大谷吉継の首は、武士たちの誇り高き意地によって、今なお行方不明、ですか……



 左近殿……やはりな……お主らしい、最高に不敵な生き様であったな……」



 天海はしわがれた重々しい声でポツリと呟き、自らの左の眉を、無意識のうちにピクッと上に動かした。



 それを見たねねは、いつもと変わらぬ、悪戯っぽいお袋の笑顔を浮かべてクスリと笑った。



「ほらご覧、十兵衛。


 お前さんの頭脳は確かに完璧だったし、関ヶ原は絵図通り半日で終わったよ。



 だけどさ……人間の心ってやつはねぇ、そんなお前さんの計算通りには動かないんだよ。


 だからこそ、この泥臭くて不器用な日の本は、たまらなく面白いんじゃないかい?」



「……我ながら、まだまだ修行が、足りませぬな」



 天海は深く、目元を隠すように頭巾を被り直した。



 そして、外の廊下の向こうで最強の護衛である弥助は、島津陣営での、自らの無双相撲の武勇伝を楽しそうにお初とガハハと語り合っている。


 天海は、そんなお初の元気いっぱいの声を耳の奥で聞きながら、静かに、安らかに目を閉じるのだった。


(ワシの役目も終わりじゃな。しかしな、ここからはワシなりのケジメじゃ……)




──日の本の歴史を裏側からすべて操った出来レースの物語は、冷徹な台本に牙を剥いた漢たちの熱き魂の輝きをその胸に深度深く刻み込み、江戸という、長く泰平なる新しい時代へと引き継がれていく──



 関ヶ原の闇と光の絵図、ひとまずこれにて堂々の結幕──





【エピローグ】



:古橋村の潜伏と冷酷なる最後通牒



──関ヶ原の戦いが、上の者たちの敷いた完璧なる出来レースによってわずか半日で決したのち。



 西軍の旗頭であったツナリは、満身創痍の泥塗れの身で、近江の山奥にある古橋村へと命からがら逃げ延びていた……



 叩きつける冷たい寒雨のなか、泥まみれで息を切らすツナリを無条件で匿ったのは、地元の心優しい村人──与次郎大夫(よじろうだゆう)であった。



 大戦直後、タヌキの捜索網は網の目の如く冷徹に狭まり、「ツナリを差し出せば莫大な黄金の賞金、隠匿せし者は一族郎党皆殺し」という、血の匂いのする非情な高札が村の入り口に次々と立てられた。



 村人たちは明日の命をも知れぬ恐怖にガタガタと震えている。


 それでも、ツナリを険しい山中の岩窟──ツナリ岩窟の奥深くへと隠し、自分たちの命の半分を懸けて、毎日温かいおにぎりを握っては運び続けたのである。



 ツナリは陽光の届かぬ暗闇のなかで、そのおにぎりを噛み締めながら、静かに熱い涙を流した。



(……私には人望がないと、吉継にも、左近にも、耳にタコができるほど言われたな…… 


 だが、どうだ……こんな名もなき、日の本の底を這う村の民が、この私のために命を懸けてくれている。 



 私の貫いてきた義は、決して、決して無駄ではなかったのだな……)



(私は……あの日からずっと考えていた……ずっと、ずっと…… 


 なぜ左近は、私を……


 なぜ、秀秋(あやつ)は突然あのような…… 



 そして……我が友、吉継はどうなった……? 


 私を置いて先に……吉継、お前は……何処へ、会いたい…… 



 くっ……あの戦、まるで我らはピエロのようだった…… 


 左近、なぜ私を逃がした? 私はどうすればよいのだ……? 



 考えろ……私にはまだ、義がある……自分を信じたい!)




──しかし、運命のドミノは、非情にも倒れ込んでいく──



 この古橋村周辺の捜索隊の総指揮を執っていたのは、ツナリのかつての熱き友人であり、現在は時代の波に乗って東軍の将となった武将──田中吉政であった。



 吉政は、ツナリがこの古橋村のどこかに潜んでいることを、百戦錬磨の直感で正確に察知していた。


 しかし、かつての友を、自らの手で直接なぶり殺しにするような真似だけはしたくない……



 吉政は村の責任者である与次郎を本陣へと呼び出すと、声を低く潜め、苦渋に満ちた、しかし冷酷な最後通牒を下した。



「……与次郎、これ以上の無駄な詮索はせぬ。


 だがな、明朝の夜明けまでにツナリが自ら姿を現さねば……この古橋村を全域、跡形もなく火の海に変える。


 奴を匿った罪として、女子供に至るまで、全員の首を容赦なくはねる。……ツナリに、そのままそう伝えよ!」



 村全域に火を放つぞ! という、かつての友人である武将からの、それが最後の脅迫であった。



 その非情な脅迫を、息を切らせて戻ってきた与次郎の口から、暗い岩窟の中で聞いたツナリは、怒るでも、怯えるでもなく、ふっと憑き物が落ちたかのように、この上なく美しく静かに微笑んだ。


「与次郎、もう十分だ。


 お前たちの、あの温かいおにぎりの味……このツナリ、生涯忘れることはないぞ!」



「なりませぬ、ツナリ様! どこか別の国へ、南蛮の広き海へ逃げられませ!」



「以前、どこかの噂で聞いた、あのお初様たちの影武者作戦のように、女装をしてでも城を抜け出すのです……!」



 お初たちが大津城で仕掛けた、主水(もんど)の女装影武者作戦の全貌など、知るよしも無い与次郎が、涙をボトボト流して必死に叫んだ。



 だが、ツナリは静かに、しかし毅然と首を振った。



「誰かの書いた台本で生き延びるなど、この私の誇りが、私の生き様が絶対に許さぬ。


 それに……私のせいで、母の故郷であるこの美しき村が焼かれ、お前たちの尊き命が散ることなど、この私は絶対に、死んでも耐えられんのだ!」




 ツナリはボロボロになった小袖の泥を丁寧に払い、その襟を正すと、一本の槍のように真っ直ぐに背筋を伸ばして、迷いなき足取りで岩窟を出た……




──翌朝。



 田中吉政の陣所の前に、一人の漢が堂々と名乗り出た。


 髭は伸び放題に伸び、衣服はボロボロに破れていても、その双眸だけは一点の濁りもなく、真っ直ぐに前を見据えている。



 ツナリ……その人の姿であった。



 ハッ! と目を見開いた吉政は馬から飛び降りるや否や、周囲の目をはばからず、涙を流しながらかつての友の前に激しく平伏した。



「……ツナリ、すまぬ……すまぬ、すまぬ……っ!」



 ツナリは、泥水に泣き崩れる吉政を冷然と、しかし、どこか包み込むような優しい目で見下ろした。



「気にするな、吉政。


 お前もお前なりに、自らの正義を必死に生きているに過ぎん。



 さあ……私を縛れ。


 私はこれから、大津城へ、そして、京の六条河原へと連れられるだろう……


 タヌキの目の前で、私の剛速球の正義を、寸分も曲げずに、最後の最後まで投げ抜いてみせるぞ」




:汚辱の檻と剛速球の対峙



──大戦が終わり数日後。


 近江・大津城の城門前に、最大級の罪人として無造作に縛り付けられている一人の漢がいた。



 城壁のすぐ外、吹きさらしの地面に敷かれたわずか畳一帖の上。



 そこに座らされ、天下の晒し者にされているにもかかわらず、


 その背筋だけは一本の槍のように天に向かって真っ直ぐに伸び、双眸は、何の濁りもなく澄み切っている。



 真実一路な男、ツナリであった。



 頑丈な柵のすぐ向こう側には、戦禍に怒り狂った、京や近江の民衆が怒涛の如く詰め寄っている。



 ツナリに向けて「大悪人!」「豊臣を滅ぼした元凶め!」と、狂ったような罵声を浴びせ、容赦なく泥を投げつけている。



 投げつけられた泥が顔や小袖を汚し、群衆の放つ狂気が渦巻く中、ツナリは微動だにせず、ただ真っ直ぐに前を見据えていた。



 常人ならば、大衆から浴びせられる極限の羞恥心に耐えかねて、顔を伏せて泣き崩れる拷問である。



 しかし、ツナリの精神、体幹は強靱で、全く揺らがなかった。



 その時、地を揺らす激しい馬蹄の音とともに、一人の粗暴な武将が突き進んできた。



 かつて豊臣の子飼いとして、大坂城で共に育ったはずの福島正則であった。



「おい! 東軍の大将軍である、この福島正則様のお通りだ! どけ、この下衆どもがッ!!」



 正則は意気揚々と怒号を上げながら、ツナリを囲んでいた群衆を馬で容赦なく蹴散らし、我が世の春を謳歌するように、柵の前に強引に割り込んだ。



 そして、勝ち誇ったような下劣な罵声をツナリに浴びせた。



「無様なものだな、ツナリッ! 分をわきまえずつまらぬ戦を起こすから、そうして天下の晒し者になるのだ! 


 豊臣を乱した大悪人の最期にふさわしいわ!」



 ツナリは冷然と正則の顔を見つめ返し、静かに、しかし地を這うような重々しい声で言い放った。



「……恥を知れ、正則」


「何だと、負け犬の癖に!」



「捕らえられて晒されるは、武運拙き者の常。


 武士の恥では断じてない。


 真の恥とはな、サル太閤殿下の大恩を綺麗さっぱり忘れ果て、豊臣を内側から滅ぼさんとする、タヌキの犬になり下がり、


 その鎖に繋がれながら嬉々(ワンワン)と吠えている、お前自身の歪んだ姿のことだ」




「なぁ……ッ!!」



 正則は顔を真っ赤に沸騰させ、反論の言葉を完全に失って、その場で絶句した。



 ツナリの放った、一点の曇りもない正論の剛速球ストレートに、魂の芯まで完全に叩きのめされたのだ。




 その瞬間、柵の向こうで見物していた群衆の空気が、パキーンと変わった。



 静まり返った広場に、民衆たちのヒソヒソとした、動揺のザワつきが広がっていく。



「おい……言われてみりゃあ、この男の言う通りじゃねえか……?」


「豊臣の恩を忘れて大御所様の犬になったのは、福島様のほうじゃないか?」


「負け犬どころか、筋が通ってるのはあの檻の中の男だぞ……」



 数万の民衆の冷ややかな視線が、一斉に正則へと突き刺さる。



 正則はあまりの恥ずかしさに身を震わせた。



 その様子を横で見ていた黒田長政が、正則の馬の手綱を引いて静かに制止し、静かに馬から下りた。



「正則……もうよせ。お前の負けだ。


 ツナリの言うことが正しいんだ……これ以上、民衆の前で恥の上塗りはするな」



「う……くく……くそっ!」



 正則は、もはや何も言えなくなり、顔を背けて逃げるようにその場から去っていった。



 長政はツナリの前に歩み寄ると、身分違いを警戒する足軽のガードを鋭い眼光で退け、堂々と柵の向こう側へと足を踏み入れた。



 ツナリの座る畳の上まで近づいた長政は、何も言わず、自らが着ていた高価な羽織を無造作に脱ぎ、泥にまみれたツナリの貧弱な肩へと、そっと優しく掛けた。



 「……実に見事な、天晴れな戦いぶりにございました、ツナリ殿。


 勝敗はただの時の運……後は、心ゆくまで堂々と往かれるが良い」



「……かたじけない、長政殿」




 裏の陰謀を駆使してタマを救い出した智将・官兵衛の息子だからこそ、


 剛速球ストレートのまま散っていくツナリの義の純粋さに、敵味方を越えた最大級の敬意を払った瞬間であった。



 その長政の圧倒的な男気に、周囲の民衆からは再び「おおっ……」と感嘆のどよめきが漏れる。



「さすがは黒田の若殿だ、器が違う……」


「罪人に自分の羽織を掛けてやるなんて、本当の漢だなぁ……」



 長政が去ったのち、ツナリの前に歩み寄ってきたのは、東軍の勝ち戦に沸く徳川の将、藤堂仁右衛門であった。


 仁右衛門は、畳の上に一本の槍のように座り続けるツナリを見つめ、武士の最大級の敬意を込めて声を潜めた。



「ツナリ殿……


 戦場にて、貴殿の盟友であらせられた、大谷吉継殿の最期を見届けた、仁右衛門と申す。


 吉継殿は、秀秋の裏切りに遭いながらも、最後まで貴殿との義を貫き、堂々と切腹して果てられた……



 その首は、側近の湯浅五助が自らの命と引き換えに、この私と男の約束を交わし、泥深くへと隠し通した。


 タヌキ公がどれほど激しく尋問しようとも、吉継殿の誇りは、今なお、誰にも見つけられぬ闇の中にある」



 ツナリの澄み切った双眸から、ツッと一筋の熱い涙が流れ落ちた。


 しかし、その胸を満たしたのは絶望ではない。



 数日前、岩窟の暗闇の中で「吉継、お前はどこへ、会いたい……」


 と、パニックになっていたツナリの心に、親友の変わらぬ義の灯火が、強く、熱く灯ったのだ。



「……そうか。 刑部も五助も、見事な最期であったな…… 


 あやつららしい、天晴れな漢たちよ。 


 感謝する、仁右衛門殿」


「それから、ツナリ殿……貴殿の軍師であった、左近殿のことだが」


 仁右衛門の言葉に、ツナリはハッと息を呑んだ。


「左近が……? 左近はどうなった! 


 奴は、私を無理やり馬に乗せ、生きて後世に証明せよと逃がしてくれたのだ。 


 左近は生きているのか!?」



 仁右衛門は静かに首を振った。


 その目は、恐怖に似た驚愕に震えていた。



「左近殿は、貴殿の高級な甲冑を身に纏い、身代わりとなって戦場を攪乱した大山伯耆殿と共に、押し寄せる東軍の数万のド真ん中へと、たった一人で突撃なされた。


 だが、あの御方は、敗軍の将の無念などは浮かべてはおられなかった。


 ただ血まみれの刀を担ぎ、『糞食らえだぁああッ!!』と大爆笑しながら、文字通り鬼神と化して勇敢に散っていかれた…


 東軍の誰もが、あの左近という人間の熱き魂に、本気で腰を抜かして怯えたのだ」



 仁右衛門はツナリの顔を真っ直ぐに見つめ、深く、深く感嘆の息を漏らした。



「羨ましいほどの、良きお仲間をお持ちでしたな、ツナリ殿。


 勝敗は兵家の常。


 なれど、貴殿の貫いてきた見事な一本の筋が、彼らの心を最後まで決して離さなかったのですな……」




(左近……! 大山……! お前たち……ッ! ぐッ、うぐッ……ううぅッ!)



 ツナリは唇を噛み締め、涙を流しながら胸の奥で激しく慟哭した。


 自分は、孤独な、裸の王様なんかじゃなかった。



 左近も、吉継も、五助も、大山も、蒲生も、兵庫も、みんな自分の剛速球の正義を信じて、命を懸けて戦い抜いてくれたのだ。



 誰もが保身のために裏切り合う泥沼の時代の中で、自分たちの絆だけは、何者にもハッキングされなかった。



 現場の漢たちの絆のバトンが、今、畳の上のツナリの背中を強烈に押し上げた。



 仁右衛門は、立ち上がり、去り際にツナリの耳元で小さく呟いた。



「安心されよ、ツナリ殿。


 吉継殿の首の在処は、私と貴殿だけの絶対の秘密……


 たとえ、大御所様であらせられるタヌキ公の命令であっても、破るわけにはまいりませぬ。


 生涯、この私一人が背負っていく!


 それが……あの見事な最期を遂げた五助と交わした、私の責任だ! それだけは、必ずお約束する!」



「……かたじけない。


 真の、もののふの情け、このツナリ、忘れることはないぞ……」



 ツナリは溢れる涙を拭い、ギラギラとした、生涯で最も美しい、濁りなき目をカッと見開いた。



(左近、吉継、みんなが命がけで繋いでくれた私の生き様、私の義……! 


 ここで必ずだ! あのタヌキの脳髄へ真っ直ぐに叩き込んでみせるぞ!)




:欺瞞の労いと剛速球の咆哮



──その瞬間、城門の奥から、無数の重臣を引き連れた巨大な行列が姿を現した。



 天下を掌中に収めた覇王──タヌキの登場であった。



 その姿を見た瞬間、民衆のザワつきは一瞬で消え失せ、地響きのような静寂が広がった。


「お、大御所様だ……!」と恐怖した民衆は、一斉に地面に這いつくばり、平伏する。



 逆らうことなど許されない、絶対的な権力の登場に、広場は凍りついたように静まり返った。




 完璧なハッキングと、マニュアル通りのおかげで、すべてを終わらせる事が出来たタヌキ。


 しかし、その老獪な顔には勝利の全能感はなく、なぜか冷や汗がにじんでいた。



 不浄の泥を浴び、それでも一本の槍のように座り続ける男の放つ、神聖なまでの気高さに完全に気圧されていたのだ。



タヌキはツナリの正面に立ち、静まり返った広場に響くような、芝居がかった重々しい声で語りかけた。



「……ツナリよ。 無残な姿になったものだな。 


 だが、勝敗はただの天運。 


 敗軍の将となるは武士の常であり、決して恥じることではない。 


 お主ほどの不世出の知恵者が、これほど短時間で敗北を喫したこと、わしも深く痛惜しておる。 ……これまで、よくぞ戦い抜いた」



 天下人の余裕を見せるように、あえて優しく、労うような言葉をかけるタヌキ。



 しかし、その欺瞞(ぎまん)に満ちた変化球の言葉を、ツナリは鼻で冷たく笑い飛ばした。



「フン…… 白々しい労いなど、耳が腐るわ。 


 サル太閤殿下の大恩を、綺麗さっぱり忘れ果てたお主のようなタヌキに、


 私の義を、武士の生き様を憐れまれる筋合いなど万に一つも無い」



「何だと……ッ! タヌキ様に無礼であろう! 敗軍の将の分際で、口を慎めッ!!」



 周囲の本多正信ら重臣たちが一斉に激昂し、刀の柄に手をかける。


 門前に凄まじい殺気が満ちる。



 しかし、ツナリは一切怯むことなく、ギラギラとした濁りなき目でタヌキを真っ正面から睨み据えた。




「……確かに、この関ヶ原は不条理な謎に満ちていた。 


 なぜ、島津は動かなかったのか。 


 なぜ、毛利は動かなかったのか。 


 なぜ、秀秋は突然牙を剥いたのか…… 



 私には、未だにその本当の理由は分からぬ。 


 まるで我らは、最初から大きな手のひらの上で踊らされていた、ピエロのようではないかと……


 この胸の奥で恐ろしい疑問が渦巻いておるのも事実だ」



 ツナリの言葉に、タヌキの顔がピクッと強張った。


 冷徹な出来レースの全貌が、ツナリの鋭い知性に一瞬、掠ったからである。



 タヌキは息を呑み、ツナリの次の言葉を固唾をのんで待った。



 しかし、ツナリはフッと不敵な、最高に美しい笑顔を浮かべて吼えた。



「だがな、タヌキよ!


 理由が何であろうと、勝敗の数字がどうであろうと、


 私の放った剛速球の正義の軌道までは、お主たちには絶対に書き換えられぬ! 



 私だけは、お主たちのような、裏の陰謀にただの一度も魂を売らず、正面から一歩も逃げずに命を燃やし尽くしたのだ! 


 私は死すとも、私の魂はお主たちの汚れた筋書きには絶対に乗らぬぞ!!」



 ツナリは、出来レースという巨大な闇の仕組みを完全には見抜けぬままなのだ。


 だからこそ、自らの純粋な義という名の真っ直ぐな剛速球を、最後の最後まで信じ切っていた。



 上の連中が作ったシステムを、己の不器用な誇りだけで、真っ正面から叩き潰したのだ。



 タヌキは、ツナリの一点の曇りもない正論の剛速球に、魂の芯まで完全に気圧され、顔を引きつらせて絶句した。



(……ツナリ。 お前は何も知らぬまま、おねね様や、あの裏で糸を引く、謎の高僧の檻の中で一人相撲をしていただけ…… 


 だが、なぜだ? 


なぜ、何も知らぬお主の言葉が、これほどまでに重く、わしの胸を突き刺す……!)



 完璧な勝利を収めたはずのタヌキの心に、激しい敗北感と恐怖が去来した。




 しばらくの恐ろしい沈黙ののち、タヌキはたまらずツナリから顔を背け、震える声で側近に命じた。



「……えぇい、もうよい! 引き回せ! 今すぐこの男を京へ連れて行き、六条河原の晒し者にしてしまえいっ!!」



 こうして、ツナリは粗末な格子の牛車へと押し込められ、大津から京の都へと連行されることとなった。



 十数キロに及ぶ道のり、まともな食事など与えられるはずもない。



 格子の中でただ座らされたツナリの身体は、長旅の過酷さによって疲弊していくが、背筋だけは一切ブレなかった。



 京の市中へと入ると、勝ち馬に乗った一部の不届きな群衆から、さらに容赦のない泥や小石が投げつけられた。



 顔に小石が当たり、額からツッと一筋の赤い血が流れる。



 しかし、ツナリは長政から掛けられたあの高価な羽織の誇りを胸に、


 濁りなき双眸で、自分を嘲笑う大衆を静かに見下ろし返していた。




──その時であった。



 大半の民衆が罵声を浴びせる、狂気に満ちた嵐が吹き荒れる中。


 ごくわずかな、本当に小さな少数派の光が、ツナリの目に飛び込んできた。



 沿道の物煙で、一人の老婆が、周囲の目を盗んでそっと手を合わせ、涙を流しながらツナリの無事を祈るように深く頭を下げていた。


 さらにその横では、一人の若き男が、泥を浴びてもなお一本の槍のように凜として座り続けるツナリの姿をじっと見つめ、


 感動に身体を震わせながら、声に出さぬ声で


「ツナリ様……頑張れ……あんたこそが本物の武士だ……!」


 と、胸の奥で熱く吼えていたのだ。



 周囲に見つかればリンチに遭いかねない狂った時代の檻の中で、


 ツナリの貫いた不器用な正義は、名もなき民たちの心に、確かに消えない火種を植え付けていた。



 ツナリはそれを見逃さず、暗い牛車の中でフッと、この上なく優しく静かな微笑みを浮かべた。



(ああ……やはり、私の義は間違っていなかったのだな。 


 届く者には、ちゃんと届いていたのだ……)



 泥を食い、泥を吸い尽くして鍛え上げられた佐和山の体幹は、


 極限の過酷さと、民たちの静かな祈りのなかでこそ、神聖なまでの気高さを放ち始めた。



 赤き血を流しながらも、誰よりも美しく座り続けるツナリの怪物の如き威風に、


 京の民たちはいつしか罵声を忘れ、圧倒されて静まり返っていく。




 加藤清正も、福島正則も、黒田長政もいない。



 かつて大坂城で共に笑い合った子飼い衆の誰もが、穢れを恐れ、


 あるいは罪悪感から目を背けるようにして、静まり返った宿舎でその瞬間を待っていた。



 数万の野次馬の冷たい視線だけが注がれる孤独の処刑場・六条河原。



 ツナリはたった一人で日の本のすべての嘘に向けて、その不屈の魂のすべてを乗せて吼えたのである。




:私は永遠に私だ



──慶長五年、十一月六日──



 運命の京都・六条河原。



 冷たい秋風が吹き抜ける、血匂い立つ処刑場。



 ツナリの前に、目も眩むような白刃が突きつけられる。



 処刑人がその圧倒的な気迫に気圧され、刀を握る手が微かに震えるほどの神聖な空気をまとっている。



 ツナリは、天海やねね様が隠れ潜む京都新城の空を、そしてこの日の本のすべての嘘を、深く嘲笑うかのように毅然と見上げた。



 ツナリは深く、深く息を吸い込み、自らの不屈の魂のすべてを乗せて、大地を激しく揺るがす大音声を轟かせた!




「──笑うが良い! 


 誰も彼も、このツナリを哀れな裸の大将と指を差して罵るが良い!!」



 その裂けんばかりの声に、処刑場の群衆の誰もが息を呑んだ。



 ツナリはギラギラとした、生涯で最も美しい、濁りなき目で吼え続けた。




「だが私は誇るぞ! 


 私は生涯にかけて、私自身に嘘を吐いてきた事など、ただの一度たりとも無いっ!!」



「誰もが己の保身のために陰謀を巡らせ、裏切り合うこの汚れた泥沼の時代の中で……! 


 私だけは、豊臣への『義』という名の剛速球だけを信じ、正面から一歩も逃げずに命を燃やし尽くしたのだ!!」



 ツナリは不敵に、そして最高に誇らしく、勝利者の笑みを浮かべてみせた。




「時代がどれほど移り変わろうとも、私の正義は、真実一路で曲がらない! 


 私の魂まで、お前たちの出来レースの檻に乗っ取れると思うなよ! 



 私は──私は永遠に!




 永遠に【石田三成】だぁあああ!!! あぁ、ぐぅおぉぉぉうわぁはははははははははははははっ……!!」




 ズシャン……!!!




 秋空に、銀の一閃が切り裂かれた。



 ドサン……! と首が落ちたその瞬間……


 ツナリの顔に刻まれていたのは、敗北者の無念などでは決してなかった。



 間違いなく、美しき嘘の時代に対して完全勝利を収めた英雄の、最高の笑顔であった……




:老人たちの落涙



──戦が終わり、夕闇が静かに迫る京の京都新城。



 ツナリの投げた最後の叫びのすべては、帰還した隠密の手によって、すぐさま天海とねねの元へと届けられた。



 報告の書状を読み終えた天海は、持っていた数珠を回す手を止め、深く被った頭巾の奥の暗闇で、ポツリと、静かに涙をこぼした。



「……負けましたな、ねね様。


 あの男の投げ放った剛速球は……我らの仕掛けた、あの完璧なる出来レースの檻を、完全に突き破って未来へ届きましたな」



 ねねもまた、着物の袖でそっと目元を拭い、寂しそうに、しかしこれ以上ないほど誇らしげに微笑んだ。



「そうだね、十兵衛……


 あの子は、うちの旦那サルが遺していった、最高に不器用で、最高に格好良い……私の、自慢の息子だよ……」




 一人の不器用な漢が、命を極限まで削って投げ抜いた剛速球。



 策に溺れ、嘘を守る側に回った老人たちの胸に、終生消えない強烈な光を焼き付けたのだった……




 石田三成の正義の物語──ここに永遠の完結。


<第2章関ヶ原編・完>

次章から【エピローグ番外編】に突入します。


すぐに続きをどうぞm(_ _)m

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