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第2章:【関ヶ原編PART3】

:佐和山の結束と左近の苦悩



──時を少し遡る。



 大坂の権力闘争に敗れ、奉行職を解かれたツナリが佐和山城へ退いてから、半年が過ぎようとしていた。



 諸大名の大半は、ツナリの事を「失脚した過去の男」


 そう呼び合い、大坂城で専横を強めるタヌキへこぞって尾を振る犬になり下がった。



 だが、この佐和山城だけは、奇妙な熱気に包まれていた。



「──腰が高い! それでは重甲をまとった折、一歩の踏み込みで己の軸がブレまする。


 すでにバテられたと申すか! 戦場は死と隣り合わせでありますぞ!」



 城の裏手、木々に囲まれた練兵場に、低く通る声が響く。


 左近である。


 その容赦ない視線と叱咤の先で、荒い息を吐きながら大身槍を構え直す男がいた。



 ツナリ──豊臣政権の最高幹部であり、かつては机の上で日の本のすべてを動かしていた男。


 だが、今は泥にまみれ、一兵卒のように泥臭い木槍の突きを繰り返している。



「これ……ほどか……っ」


 ツナリの息は完全に上がっていた。



 手のひらは木槍との摩擦で豆が潰れ、血と泥が混じってぬるついている。


 文官として生きてきた彼の肉体は、限界を迎えていた。



 しかし、その瞳だけは、狂気的なまでの光を放っている。



「左近……私はもとより文治の徒だ。


 今更、正則や清正のような戦馬鹿になれるわけもあるまい……」



 膝を突きそうになる身体を、ツナリは槍を杖代わりにして無理やり支えた。


 弱音を吐きながらも、その足は一歩も後ろへは引いていない。



 左近は不敵に笑い、自らも木槍を手に取った。



 滑らかな予備動作から、目にも留まらぬ速さで突きを放ってみせる。


 上半身の無駄な力みが一切なく、下半身から連動した鋭い一突きが、風を切る甲高い音を立てた。



「殿、正則らの真似をせよとは言うておりませぬ。


 奴らのは天性の暴力。ただの肉の塊の力にございます。


 なれど、我らが鍛えるは……フィジカルと戦術。



──すなわち『理の武術』にございます。


 骨の連動、呼吸の置き方。


 敵の刃を受け止めるのではなく、受け流して己の重さを相手にぶつける。


 これさえ体得せねば、関ヶ原……否、近江の地を走る大雨の泥濘で、東国の大軍を迎え撃つことは叶いませぬ。


 形だけの戦にするか、本物の地獄にするかは、この現場の泥をどれだけ吸ったかで決まるのです」



 ツナリはその言葉を噛み締めるように深く頷いた。


 奥歯を噛み締め、再び腰を深く落とす。



 その様子を、練兵場の隅から見守る者たちがいる。


 蒲生頼郷、それから舞兵庫。



 主家をタヌキに潰され、行き場を失った浪人の身でありながら、


 ツナリが佐和山へ退いたと聞くや、迷わずこの城へ駆けつけてきた猛者たちだ。



「ツナリ様も、随分と筋が通ってこられたな。文官の皮が剥がれて、いい漢のツラになってこられた」


頼郷が腕を組み、感心したように呟く。


「ああ」と、兵庫が応じる。



「タヌキの奴め、ツナリ様を佐和山に閉じ込めれば自滅するとでも思っていたのだろうが……大誤算だな。


 この城には、豊臣の『義』という名の飢えた狂犬どもが、死に場所を求めて次々と揃いつつある」



 ツナリは、自分の私生活を極限まで切り詰めていた。



 佐和山城の壁は漆喰すら塗られず、荒々しい木肌が剥き出しのままで、毎日の食事も一汁一菜。



 天下を揺るがした男の城としては、あまりに質素で寂しい暮らしだ。



 その反面、タヌキの圧力を恐れずに集まってきた頼郷や兵庫ら浪人たちには、


 他家を凌ぐ破格の俸禄を与え、最高の武器と防具を買い揃えて召し抱えていた。



「己のためではなく、豊臣の公儀のために、ただ真っ直ぐに命を削る男」



 そのツナリの、馬鹿が付くほどの愚直な誠実さが、彼らを惹きつけて離さなかったのだ。



「情けない……子飼い衆の面々、幼き頃よりツナリ様と共に過ごしながら、一体あいつらは何を見てきたんだ……」



 頼郷が地面に唾を吐き捨てるように嘆いた。


 内面にある、誰よりも男前なツナリの真実を見抜けず、


 タヌキが目の前にぶら下げた、領地や出世という目先の欲だけに目を眩ませ、去っていった清正や正則たちへの激しい義憤だった。



「気にするな、頼郷」


 兵庫が、頼郷の肩をそっと叩いた。



「あいつらが去ったからこそ、俺たちがこうして今、ツナリ様をこんな間近で支えていられるんだ。


 タヌキの犬になるより、俺たちはよっぽど幸せ者さ。……なぁ、頼郷。


 俺たちは、この命に代えても、あの曲がらない剛速球の殿をお守り通すぞ」



「当たり前だ。俺たちの命は、あの日、ツナリ様に拾われた時に、もう半分預けてあるんだからな」



 二人の猛者が交わす不器用な笑み。



 ツナリが一人で傷つきながら投げ続ける剛速球のストレートを、今度は自分たちが盾となって受け止める──


 その歪で、しかし美しい佐和山の結束の光が、泥まみれの練兵場に、確かに灯っていた。



「おい、そこの浪人二人! ニヤニヤと見物しておらんで、殿の相手をせよ! 実戦の呼吸を叩き込むぞ!」



 左近の怒号が響く。



「へいへい、鬼教官殿!」


「ツナリ様、容赦なく参りますぞ!」



 頼郷と兵庫が木刀を手に笑いながら泥沼へと飛び込んでいく。笑い声と、木刀のぶつかり合う音。



 タヌキの仕掛けた冷徹な政治包囲網の真ん中で、佐和山城だけは、人間の熱い血の通った「本物の絆」で、爆発しそうなほどに満たされていた──




──そんなある日。



 佐和山城下の小さな村の端、夜霧の立ち込める暗闇の中に、二つの影があった。



 一人は、衣のフードを深く被ったやんちゃな三十路、お初。


 そしてもう一人は、闇に溶けるほど黒く、見上げるほどに巨躯の漢──弥助であった。



「……ここから先は、俺が一人で行ク」



 弥助の低く掠れた声が、夜霧に重く響く。



「一人で? あなたじゃ目立ちすぎるわ。


 佐和山はツナリの厳戒態勢よ。私なら影に紛れて──」



「いや。お前は村の外で待て」



 お初の反論を、弥助は自信げに遮った。大きな手でお初の細い肩をそっと制し、諭すように言葉を続ける。



「ツナリ周辺の目は欺けても、あの城には左近がイル。名だたる修羅場をくぐり抜けた老将ダ。


 小細工の忍びなど一瞬で見破らレル。


 ならば、俺が正面から堂々と『迷い込んだ大男』を演じた方が、奴を引きずり出しやすい、俺に任せナ」



 弥助の言葉にある確かな戦術眼に、お初は戸惑いつつも小さく頷き、静かに闇の奥へと身を引いた。



 弥助はただ一人、佐和山城の裏手にある深夜の練兵場へと、今度は、忍びを気取りながら歩みを進めた。



 月明かりの下、太い木槍を凄まじい風切り音とともに振り抜く影があった。



 左近である。



 上半身の捌き、腰の落とし方、どれをとっても現役の戦鬼そのものであった。



 その左近が、不意にピタリと動きを止めた。


 鋭い眼光と共に、槍の先端を闇のド真ん中へと向ける。



「……誰だ。


 佐和山の夜の山道は、猪でもそこまで重い足音は立てぬぞ。それに……何というか、凄まじい存在感だぞ」



 一瞬でバレた弥助は、闇を割り、ゆっくりと姿を現した。


 日の本には、二人といない驚異的な存在感を放つ男であった。



 その驚きによって、左近の目が、わずかに見開かれる。



「貴様は……かつてナガ様の傍らにいた……」



「久しいナ、左近殿……」



 弥助は懐から、一枚の薄い密書を取り出すと、左近の足元へ向けて放り投げた。



「京におられる、おねね様と、延暦寺の地下に住まう『天海』という高僧からの伝言だ」



 左近は怪訝そうに眉をひそめ、槍を片手に密書を拾い上げた。


 月光に透かすようにして、冷徹に目を走らせる。



 そこには、関ヶ原という名の舞台劇、小早川の寝返り、毛利の不戦、島津の退路……


 上の権力者たちがすべてを握り合った出来レースの絵図が、残酷なまでに完璧に記されていた。



 じっと読み終えた左近の口元が、退屈そうに歪んだ。



「……はっ、笑わせるな!」



 左近は吐き捨てると、手の中の密書を雑に握りつぶし、闇の中へ投げ捨てた。



「おねね様も、天海のジジイとやらも、年を取って頭がボケなすったか。


 上の狐や狸どもが裏でどんな紙切れを回していようが知ったことか!


 戦の勝敗を決めるのはな、泥にまみれて槍を振るう現場のフィジカルと戦術だ!」



 左近は再び木槍を構え、弥助を真っ直ぐに睨みつけた。


 その全身から、凄まじい現場の誇りが立ち上る。



「俺が仕込んだツナリ隊の鉄砲のキレ、ツナリ殿の無駄のない体幹、蒲生や舞兵庫の突撃力がある。


 上の台本なんざ、いくらでも現場の力で突き破り捨ててみせる。


 ツナリ殿をピエロにするだと? 糞食らえだ!


 伝えておけ……


 俺たちは本気で、力づくで、タヌキの首を獲りに行くとな」



 弥助は、左近のその傲岸不遜なまでの闘志の奥に、かつて本能寺の業火の中で果てた主君・ナガの面影を確かに見た。



「そうカ……生きていろヨ、左近」



弥助はそれだけ言い残すと、大鳥が激しく羽ばたくように、音を立てながら夜霧の向こうへと消え去った。




「おかえり弥助ぇ……元気ないわね、どうだった?」



 お初は暗闇の中でも、一瞬で弥助の重い足取りに気づき、その前にヒョコッと顔を出した。



「ワオッ! ……よく俺が見えたなお初、ちょっとビビったゼ。


 気配を消すのヘタなのかナ、俺。……それはそうと左近の反応は、ビミョーだったヨ……


 今夜は村で野宿しよう、ゆっくり話すヨ。


 天海サマに何て言おうカナ……」



「弥助、あんたさぁ、存在感がありすぎるのよね。それじゃあ忍びは無理だわ、ウフフ。さぁ、何食べよっか? 


 元気だしなよ、明日は朝早くにココを発つわよ」



「……そういえば、ナガ様にもスグに見破られたナ。


 かくれんぼは、いつも鬼だったヨ、俺……」



 二人の影が夜霧の向こうへと消えていく。




──その頃、左近は実のところ、激しく苦悩していたのだった。



 やっと消え去った、異様な存在感を放つ弥助を、左近は槍を構えたまま、しばらくじっと見送っていた。


 夜霧の冷気が、激しい修練で熱を帯びた左近の肌を静かに撫でていく。



 やがて左近はふう、と深く重い息を吐き出し、槍を地面に突き立てた。



 その視線が、足元の草むらに落ちる。


 そこには、先ほど自分が「笑わせるな!」と雑に握りつぶし、投げ捨てた薄い密書が、月光を浴びて白く転がっていた。



 左近はしばらくその紙片をジッと見つめていたが、ゆっくりと腰を落とし、大きな、節くれ立った手でそれを再び拾い上げた。



 土と夜露で汚れた紙を、手のひらで丁寧に、皺を伸ばすように広げていく。



「……おねね様に、天海、か……」



 左近の口から、先ほどの傲岸不遜な響きは消え失せていた。



 あるのは、数々の主家を渡り歩き、歴史の裏の生々しい泥水を見てきた、老練な戦人としての冷徹な眼差しだった。


 左近とて、歴戦の武将である。


 上の権力者たちが描く出来レースの恐ろしさや、それが持つ冷酷な強制力を知らないわけがない。


 むしろ、誰よりも知っているからこそ、弥助の前では強がってみせたのだ。



「殿……」



 左近は静かに、城の方角を振り返った。あの不器用で、正義感ばかりが先走る若き主君。


 今頃も部屋の灯りの下で、大坂から届く兵糧や鉄砲の数式と、生真面目に向き合っているはずだ。


 上の者たちが、日の本の命運をかけたこんなにもおぞましい台本を、裏で回しているなど夢にも思わずに……



「本当に……大した大馬鹿野郎だよ、あんたは」



 左近はポツリと呟き、切なく苦笑した。



 だが、その胸の奥には、冷え切った台本への激しい怒りとともに、


 ツナリのあの純粋な目を裏切りたくないという、狂おしいほどの情熱が確かに灯っていた。



 左近は丁寧に伸ばした密書を細かく折り畳むと、甲冑の下、己の心臓に最も近い懐の奥深くへと静かに仕舞い込んだ。



(……この紙切れの筋書き通りになるか、俺たちの現場の力が勝つか。関ヶ原で答え合わせをしてやろうじゃねえか……)



 懐に触れるその薄い紙の重みを、左近は己の命のカウントダウンのように感じていた。



──この日から、関ヶ原のあの決戦の瞬間まで。


 左近はこの出来レースの証拠を、誰にも、ツナリにすら決して見せることはしないと自らに誓った。


 四六時中、肌身離さず、己の心臓の横に隠し持ち続けることになるのである……




──数日後。



 お初と弥助は、夜陰に乗じて京の京都新城へと戻り、ねねと天海の待つ最奥の広間へと復命した。



 部屋の隅の暗がりに控えた弥助が、静かに頭を垂れる。



「天海サマ……


 佐和山の左近に、ねね様の密書を確かに伝えてまいりマシタ」



 深く頭巾を被った天海が、かすれた重々しい声で問いかけた。


 その双眸は、じっと相棒の表情を見つめている。



「……して、十数年ぶりに相まみえた左近の様子は、どうであった?」



 弥助は一瞬、言葉に詰まるようにためらい、それから静かに首を振った。



「ダメかも知れないデス……


 あの男は、我らの用意した台本を『笑わせるな』と鼻で笑い飛ばしまシタ。


 天海サマの仕掛けた出来レースなどという幻ではなく、己の磨き上げた腕と、


 ツナリへの純粋な『義』だけを信じて、本気で戦を力づくでひっくり返すつもりデス。


 彼らは、佐和山の泥の中で、恐ろしいほどの現場の力を蓄えていマス……」



 張り詰めた沈黙の中、ねねが小さく息を吸う気配がした。



「左近は……あの不器用なツナリを見捨てないんだねぇ」


「はい。 どれほど不条理な罠が待っていようとも、あの男は現場の力で筋書きを書き換えるつもりですな……


 我々の描いた絵図通りには、そう簡単には動かぬかと……」



 報告を聞いた天海は、責めるどころか、深く、長い溜息をついた。


 その頭巾の奥の目が、遥か懐かしい過去を追うように微かに細められる。



「……やはり、それでもダメであったか。



 十数年の時が流れ、名前も姿も変わろうとも、あの男の魂だけは何も変わらぬというわけだな」



 天海は自嘲気味にクククと喉を鳴らした。



 かつて自分が明智十兵衛として、覇王・ナガの下で狂気に満ちた戦場を駆けていた、あの遠い日々。



 左近という男がどれほど誇り高く、どれほど現場の戦術に命を懸けていたか、天海は誰よりも間近でその凄みを目撃していたのだ。



 左近という稀代の老将は、小細工の忍びなど一瞬で見破る。


 だからこそ天海は、かつてナガの下で共に汗を流し、互いの実力を誰よりも信頼し合っていた弥助を、あえて単独で佐和山へと向かわせたのだった。



「……ふっ、実に見事なまでの現場の頑固者、左近らしいのぉ」


 天海は低く呟いた。



 その言葉を横でじっと聞いていたお初は、深く納得したように目をまたたかせ、弥助の顔を見上げた。



「そうだったのね、 弥助ぇ。だからアタイを止めて一人で行ったんだね、忍びはダメだったけど……クスッ。


 そりゃ、アタイの出る幕はないよ……うん、納得」



 お初は、暗闇をじっと耐え抜いた最強の相棒を労うように、弥助の太い肩をポンッと優しく撫でた。


 撫でられた弥助は、少し照れくさそうに白い歯を見せて微笑む。



「お初、一言余計だがナ……」



「それもまた、抗えぬ人間の業であろうな」


 天海は、若き二人の絆に目を細めながら言葉を続けた。



「だが、タヌキの仕掛けた包囲網もまた、現場の執念ごとすべてを叩き潰すほどの巨大な冷徹なる歯車。


 左近が台本を破るか、台本が左近を圧殺するか。


 関ヶ原、人間の意地がぶつかり合う、恐ろしい戦場になりそうですな……」



 ねね名義で出された密書は、隠密の手によってすでにタヌキの元へと届けられている頃。



 歴史の冷酷なレールは、大人の都合で完璧に敷かれた。


 しかし、何も知らぬまま正義の剛速球を投げようとするツナリと、


 すべてを聞いてなお「糞食らえ」と不敵に笑った左近の存在が、


 天海たちの胸に、消えない不穏にして熱き人間の火花を灯していたのだった──




:直江状のトリックと二重の歓喜



──時を少し遡る。



 佐和山城の、とある密室にて。


 ツナリは、上杉家の執政である直江兼続へ向けて飛ばす為の、熱を帯びた密書を必死に書き綴っていた。




──兼続殿。



『タヌキをあぶり出すため、上杉の強大な力で奴を激しく挑発してほしい。


 上洛する気など微塵もないことを激しく示してくれまいか。


 タヌキが怒り狂って東国へ向かえば、手薄になった畿内に向けて私が背後から挙兵する。


 頼む、このツナリを、豊臣の未来を助けてくれ!』




──会津城、直江兼続の執務室。



 届いたツナリからの熱い手紙を読み、当時四十歳であった兼続は、フンと冷たい鼻笑いを漏らした。



「ふん……ツナリの熱病がまた始まったか。


 この直江兼続を、そんな勝ち目のない負け戦の捨て駒にできると思うなよ」



 義を貫く男と称される直江兼続であったが、この国の命運が懸かった事態を前にして、彼の眼差しは超現実主義のそれへと走っていた。



「義? 友情? そんなもので腹は膨れないし、上杉家を守れると思われるな!」



 兼続はすぐさま筆を執ると、ツナリには完全に内緒で、大坂にいるタヌキの側近・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の元へ一本の極秘ラインを繋いだのである。




『タヌキ殿へ。


 ツナリから「家康を激怒させる挑発状を書いてくれ」との依頼が来ました。


 私はあやつの狙い通り、上洛はせぬ! と痛烈な挑発状──直江状を書いて送ります。


 タヌキ殿、どうか存分に怒ったフリをして、我が上杉を討伐するための軍を起こしてください。


 我が上杉は戦うフリだけをして、関東へは一歩も攻め込みませぬ。……これで、お互いに利のギブ&テイクが生まれますな?』



 一分の狂いもない、完璧な裏切りであった。




──慶長五年、六月──



 タヌキ率いる上杉討伐軍は、東海道を意気揚々と下っていた……


 道中、駿河の陣中にて、当時五十八歳であったタヌキの元に、二つの衝撃的な報せが同時に飛び込んできた。



 一つは、直江兼続からの完璧なる裏報告。



「兼続の奴め、やはり現実の見える男よな」


 タヌキは不敵にニヤリと笑った。



「上杉が絶対に動かぬと分かれば、我が背後の憂いはゼロ。


 ツナリの阿呆め、お前と上杉が、このワシをハサミ撃ちにしていると本気で信じ込んで、間もなく大坂から挙兵するじゃろうて」



 哀れなツナリは、自分が仕掛けたハサミ撃ちの罠に、自分自身がハメられていることすら気づいていない……



「ガハッ、ガハハハハッ~ッ! 見事じゃ、実に見事じゃぞ!


 目には目を、罠には罠で欺いてやるのじゃ! みておれ……ツナリ(小僧)よ……」




 そこへ、京都新城から息を切らせて走ってきた隠密が滑り込んできた。



「内府様! おねね様より、直筆の極秘密書にございます!」



 タヌキがそれを開き、目を通した瞬間、その老獪な顔がこれ以上ないほどの歓喜に歪んだ。


 そこには、天海が描き、お初と弥助が各地で完璧に実行に移した


 小早川の寝返り、毛利の引きこもり、島津の敵中スルーという、関ヶ原の必勝マニュアルが記されていたのだ。



「……が、ガハハハハハ! ハァ~ッ、ハハハハ八!」



 タヌキは陣幕が激しく震えるほどの、恐ろしい大爆笑を夜空に響かせた。


 側近たちが「殿、いかがなされました!?」と驚いて平伏する。



 タヌキはねねの密書を強く握りしめ、ギラギラとした覇王の目で西の空を睨みつけた。



「直江が背後を裏切り、ねね様が敵の頭脳をすべてハッキングしてくださった! 


 ツナリよ、お前がこれから始める戦は、最初から一歩も動けぬ死の檻の中よ!


 天下は……天下は完全に、このタヌキの元へ転がり込んできたわ!!」




 上杉討伐へ向かう行軍の真っ只中。


 タヌキはまだ始まってもいない関ヶ原の戦いの完全大勝利を確信し、人知れず狂喜乱舞するのだった。




──ほぼ同時期。



 そんなある日の夕刻。



 佐和山城、城主の間。



 ツナリと左近は、いつもと変わらぬ簡素な一汁一菜を前にしていた。



 ツナリは手元に置かれた、会津の直江兼続からの返書に目を落とす。



「直江殿からでございますか……?」


 左近が静かに尋ねる。



「うむ。 会津の軍備は整いつつあるようだ。


 タヌキの使者に対し、上洛を明確に拒絶する返書を送るとある」



 ツナリの目が、鋭い正義の光を帯びた。



「タヌキは必ず激怒し、会津討伐の兵を挙げる。大坂を、畿内を留守にする。


 左近……そこだ。


 そこしか、あのタヌキの野心を討つ機会はない」



 左近は箸を置き、じっと若き主君を見つめた。



「ツナリ様。 挙兵すれば、もはや引き返せませぬ。


 世の過半はタヌキに怯え、味方する者は少ないやもしれませぬ。


 それでも、おやりになりますか?」



 ツナリは膳の上の拳を、ガチリと固く握りしめた。



「私は、サル太閤に拾われた身だ。


 あの方が遺された秀頼公をお守りし、豊臣の天下を汚させぬためなら、この命、佐和山の土に還ろうとも悔いは一切ない。



 左近……私は人望がない。


 だからこそ、お前の、お前たちの智略が必要なのだ」



 左近は深く息を吐き出し、そして不敵に、しかし誰よりも優しく微笑んだ。



「承知しております。 その不器用な正義に惚れて、私はあなたの影となったのです。


 ここにいる他の武将も、頼郷も兵庫も、全員が同じ想いにございます。


 我が五体、いつでも関ヶ原の露と消える覚悟は、とうにできております」




──その時、廊下から急ぎ足の激しい足音が響いた。



 近侍の者が、息を切らせて襖を開け放つ。



「殿! 敦賀より会津征伐へ向かう途中の、大谷刑部様の軍勢が、城下に到着いたしました! 


 刑部様がお一人、殿への御面会を求めておられます!」



ツナリと左近は顔を見合わせた。



 ついに、運命の歯車が激しく動き出そうとしていた……




──なお、この時ツナリを完璧にハッキングし、タヌキ側へと情報を横流しした直江兼続。


 その『お礼』は、戦後、江戸幕府公認の出来レースとして処理されることとなる。



 表向き、上杉家は米沢三十万石へと大減封され、左遷の憂き目を見る。


 しかしその裏側で、タヌキは兼続に対し、膨大な「裏献金」を隠密を通じて定期的に送り続けた。


 そのおかげで、領地を減らされた上杉家は、誰一人リストラすることなく家臣たちに美味い飯を食わせていくことができたのだ。



 さらに、タヌキは上杉領内における「キリシタン擁護」をも特例で見逃した。


 兼続は幕府に対し、「我が領内には、キリシタンなど一人も居りませぬ」



 という見え透いた大嘘の報告書を出したが、タヌキはお咎めなしとして、綺麗に黙認し続けたのである。



 すべては、ツナリという純粋な剛速球を嵌めるために、大人のリアリストたちが裏で結んだ、冷酷な密約の報酬であった──




:欺瞞の勝機と不純なき義心の誓い



──緊迫した重苦しい空気が満ちる、佐和山城の奥の間。



 左近は、部屋の最奥の濃い影の中にじっと身を置き、自らの気配のすべてを完全に殺して待っていた。



 若き主君であるツナリが、その生涯の唯一無二の友を口説き落とす、歴史の運命の一瞬を静かに聞き届けるために。



 重い病の悪化により、白い頭巾でその素顔のすべてを覆い隠した大谷吉継。


 親友であるツナリのあまりにも無謀な挙兵計画を聞かされ、激しく、痛切に首を振っていた。



「正気か、ツナリ……ッ! あのタヌキに、今のお前が勝てるはずがない! 無謀だ、狂気の沙汰だ!


 今すぐその兵を収めて、佐和山に引きこもって大人しくしていろ」



 生涯の友だからこそ、一切の綺麗事を排して突きつけられる、冷徹極まりない戦力の現実。



 だが、部屋の隅の暗がりに佇む左近は、ぴくりとも動かなかった。


 ただ真っ直ぐに吉継を見つめるツナリの瞳の奥に、常人なら正気を疑うほどの、純粋すぎる狂気の光がギラギラと放たれるのを、左近は静かに見守っていた。



 ツナリは吉継の前に激しく膝をつくと、その震える両肩を、ガシッと割れんばかりの力で掴みあげた。



「吉継……お前も、俺も、生まれはこの近江の地だ。


 覚えているか? 我らの遥かなる故郷の、あの偉大なる英雄のことを……!」



「……ナガマサ様、か」



──まだ幼く、ただ純粋に明日を信じていた頃。


 小谷城下町の塾の門前で、少年ツナリと少年吉継は、汗を流してチャンバラごっこに明け暮れていた。



「えいや! とお!」



「ツナリ、まだまだだ! いくぞ!」



 無邪気に木刀を振るう二人。


 だが、ツナリが渾身の力で放ったド直球の一撃が手元を滑り、塾の前を通りかかった頭巾姿の一人の若者の方向へと、真っ直ぐに飛んでいってしまった。



「あっ──」



 若者は、飛んできた木刀を、視線すら動かさずに片手でパシッ! と鮮やかにキャッチしてみせた。



「無礼者ッ! 城主であらせられるナガマサ様に向かって何を働くか!」



 お忍びで城下町を見回り中だったナガマサとお供の家臣たち。


 ナガマサの後ろに控えていた家臣たちが、目を血走らせて一斉に剣を抜く。



 身分を知った二人の少年は、恐怖のあまり息を詰まらせて、ガタガタと震えその場に平伏した。



 だが、若き城主・ナガマサは、抜かれた家臣の刃を、片手で構わん! と制すると、悪戯っぽく笑ってツナリの木刀を返してくれた。



「気にするな。身分など関係ない、ここは、ただの町の塾だ。


 少年よ、実に見事な、寸分もブレぬ真っ直ぐな剛速球ストレートであったぞ。


──どれ、このナガマサが少し稽古をつけてやろう」



 ナガマサは上着を脱ぐと、少年のツナリと吉継の前に立ち、優しく、しかし圧倒的な武の体幹を持って、二人に剣術の基礎を教えてくれた。



 汗を流し、ワハハと笑い合う、夢のような時間。



 別れ際、ナガマサはツナリと吉継の小さな頭を、その大きくて暖かい手のひらで、何度も、何度も優しく撫で回した。



「将来が楽しみな漢たちだ。お前たちのその真っ直ぐな瞳、私は大好きだぞ。


 いつか、この近江を、日の本を支える、気高き義のもののふになってみせよ」




──あの時、頭を撫でてくれたナガマサ様の、手のひらの圧倒的な温もり──



 そっと目を閉じるツナリの顔に、当時の少年のままの熱い涙がぬるりと伝い、畳へと溢れ落ちていく。



 吉継の頭巾の奥の双眸も、微かに、しかし激しく揺れ動いた。



 左近の胸の奥にも、かつてこの近江の国を震撼させ、覇王・ナガを最も追い詰めた若き驍将の、気高き記憶がありありと去来する。



「そうだ! ナガマサ様は、かつてナガという絶対的な巨悪を前にした。


 それが完全な負け戦になると最初から知りながらも、朝倉との『義』を貫き通すために牙を剥いた! 


 勝ち負けなどという浅ましい損得ではなかった! 


 漢には、命をドブに捨ててでも守らねばならぬ『正義』があるのだ!


 それを、あの御方は自らの尊き血を以て、この近江の我らに教授してくれたではないか!」




 ツナリの瞳から、大粒の熱い涙がボタボタと溢れ落ちる。



 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ……



 ツナリは、感情を爆発させ、吉継の胸元へ何度も己の拳を叩きつけた。



「今、豊臣の天下を我が物顔で蹂躙し、秀頼公を脅かすタヌキは、かつてのナガ公と何も変わらぬ! 


 誰もがタヌキの牙を恐れ、尻尾を振って阿諛追従するこの汚れた泥沼の中で、誰かが、誰かがナガマサ様にならねばならぬのだ! 


 誰かがその義の旗を掲げねば、日の本の正義は完全に死に絶える! 



 吉継ッ! ……俺と一緒に、あのナガマサ様の不滅の魂を受け継いでくれ! 


 負けると分かっていても、自分自身に嘘を吐かず、義を貫き通し続ける荊(いばら)の道を選ぼうじゃないか! 


 俺には、迷いなど欠片も無い。……俺に必要なのは、お前という、生涯の相棒だけなのだ!!」



 石をも穿つような、ツナリの魂の咆哮が、静かな奥の間に激しく響き渡った。



 左近はただ静かに、深く目を閉じてその叫びを聞いていた。


 この過酷な一年の佐和山の修練で、彼らが鍛え上げてきたのは肉体や兵法の数式だけではない。



 タヌキを必ず討つという気迫溢れる執念。



 そして、己の、真実一路な剛速球のストレートを放るための、絶対的なフォームの完成が、まさにこの瞬間に結実していた。



 吉継は、深く天を仰いだ。


 ツナリの語る理想主義は、あまりにも青臭く、あまりにも脆い。



 だが、これほどまでに美しく、狂おしいほどに愛おしい漢は、この日の本のどこを探しても、他には一人としていないのだ。



 吉継は頭巾の奥でふっと優しく微笑むと、白い手袋に包まれた自らの手を、肩を掴むツナリの手の上にそっと、力強く重ね合わせた。



「……相変わらず、お前はどこまでも馬鹿な男だな、ツナリ」


「吉継……!」



「だがな、その大馬鹿にどこまでも付き合ってやるのが、漢の『義』というものだ。


 故郷の英雄であらせられるナガマサ様が、あの世で泣くことのないよう、


 俺のこの残り短い命のすべて……お前のその、曲がらない正義に全部くれてやる。


 関ヶ原の戦場では、この大谷吉継が最前線で鉄壁の盾となり、タヌキの軍勢を死に物狂いで食い止めてみせよう!」




 二人の漢は、涙を流しながら、互いの背中を壊さんばかりに固く抱き合った。



 その熱すぎる抱擁を視界の端に入れながら、部屋の隅の暗がりにいた老将・左近。


 彼は、ただ静かに、深く深く、畳に額を擦りつけて平伏した。



 音も立てず、ただ主君とその友の気高き覚悟に対して、己の愛槍と、残された命のすべてを捧げる誓いを、内臓が焼け付くほどの闘志と共に新たに決意するかのように。



 二人の不器用な漢たちは、自分たちが、天海やねね様の仕掛けた巨大な出来レースの檻のド真ん中に立たされている。


 そんなことは、露ほども知らず、ただ美しく散るための不純なき義心の覚悟を決めたのだった。



 そして、背後に控える左近は、二人の固い絆を目の当たりにし、体内からドクドクと溢れ出す凄まじい現場の闘志に身を震わせていた。



 と同時に、甲冑の下、今も己の心臓の最も近い懐に潜んでいる、あの弥助から手渡された薄い紙切れを、破れんばかりにギュッと力強く握りしめた。



(──上の者たちが書いた、こんな薄汚い紙切れ一枚の筋書き通りに、我らの命が操られ、踊らされてたまるかってんだ。


 弥助、天海のジジイ、おい晩廷ども……ワシら現場の意地を、ツナリ殿の剛速球を、絶対にナメるんじゃねえぞ……!)




 歴史の残酷な台本の裏側で、出来レースの檻を内側から粉砕せんとする、人間の熱い血の通った最後の反逆の火花が、佐和山の暗闇の中で激しく爆発した瞬間であった──




:ガラシャ生存トリックと崩壊する正義のメッキ



──慶長五年、七月──


 大坂・細川屋敷の奥。



 タヌキの呼びかけに応じ、上杉討伐へと出陣する直前の忠興。


 目をギラつかせ、重臣たち、そして、奥の間の物陰で、冷ややかにそれを聞いていた妻・タマへ向けて、吐き捨てるように言い放った。



「よいか。


 留守中、ツナリが不穏な動きを見せ、我が細川を西軍に引き込むために人質になれと迫ってきたら……


 細川の誇りを守るため、容赦なく屋敷に火を放ち、タマ共々全員その場で自害せよ! 


 敵の手に渡るくらいなら、跡形もなく爆破して果てるのだ!」



 愛なきサイコパスな夫の冷酷な言葉。


 奥の間で静かにひっそりと聞いたタマは、胸の奥で冷たい底知れぬ絶望を感じていた。



(私は、細川の家を飾るためだけの、出世の道具の人形ではありません。神の元に自由を許された、一人の人間です……! さあ、今こそ……)



 忠興が傲然と出陣していった直後、タマは長年培ってきたイエズス会の秘密ネットワークを使い、


 九州の智将・黒田官兵衛へと極秘のSOSを送った。



 官兵衛の洗礼名はドン・シメオン。


 タマは、南蛮のキリスト教界にとって、命に代えても守るべき「信仰の象徴」である。


 それを、彼も胸に刻んでいる。



 そんな彼女を戦火で無残に死なせるわけにはいかない。



 官兵衛はすぐさま裏のネットワークを動かし、大坂のイエズス会を通じて、ある爆破脱出トリックの綿密な仕掛けを細川屋敷のキリシタン侍女たちに伝授した。




 数日後、狙い通り、大阪へ向け挙兵したツナリの軍勢が「人質になれ」と細川屋敷を幾重にも包囲した。



「──トリックを始めるわ。神のご加護を」



 タマの静かな合図とともに、屋敷の奥に密かに仕掛けられた大量の火薬が、夜の帳を裂いて凄まじい轟音とともに大爆発を起こした。




 ドォオオオオオン!!!



 細川屋敷は一瞬にして烈火の炎に包まれ、粉々に吹き飛んだ。


 包囲していたツナリの兵たちは「ガラシャ様が誇り高く自爆された!」と大パニックに陥る。



 だが、崩落した瓦礫の底に残されたのは、事前に手配されていた、背格好の似た身元の分からぬ替え玉の遺体であった。



 タマの「死」は、日の本のすべてを欺いて完全に偽装されたのだった。




 爆発による混乱の、まさにド真ん中。



 激しい黒煙と炎に包まれる屋敷の裏口から、修道士の衣服を頭まですっぽりと被ったタマを、まるで羽毛のように軽々と小脇に抱え、闇夜を神速で疾走する巨大な影があった。



 力士であり、時には忍びでもある──弥助だった。



 弥助は、大坂城下町のイエズス会が極秘に管理する、人跡未踏の地下の隠れ家へと滑り込んだ。



 そこには、京都新城から弥助に呼び出され、静かに佇んでいる影がある。



「話とは何だ、弥助」



 薄暗い部屋で戸惑いながら、七十三歳の老僧・天海が待っていた。



 弥助は抱えていたタマをそっと床に下ろすと、白い歯を見せて不敵に笑った。



「天海サマ…… 


 いつも世界を裏からハッキングしてくださってる事と、


 そして、あの日ワタシの命を救って下さったアナタに感謝を込めて、ワタシからの最高のプレゼントデス」



 タマが、ゆっくりと修道衣のフードを外した。


 揺らめく松明の明かりが、その美しくも、どこか激しい見覚えのある、狂おしいほどに懐かしい面影を照らし出した。




 天海は、息が止まった……!



 十八年間、暗闇での過酷な修行中、いかなる時代の危機にもピクリとも動かなかった冷徹な怪物システムの脳髄が、完全に停止した。



「……た、玉……なのか……?」


 しわがれた天海の声が、小刻みに、激しく震える。



 タマもまた、目の前の老僧の深い頭巾の奥にある、あの優しかった父の目を見た。


 声は変わり、頭髪は失われ、老いさらばれていても、血の繋がりがすべてを瞬時に理解させた。



「お父様……!? ああ、お父様……! 生きて……生きておいでだったのですね……!」




「玉ぁあああっ!!!」



 天海は持っていた数珠を放り出し、なりふり構わずタマをその腕の中へと強く、強く抱きしめた。


 タマもまた父の胸にしがみつき、あの日以来忘れていた子供の頃のように声をあげて泣きじゃくった。



「すまぬ、すまぬ玉……! 


 本能寺の後、お前を独りにして、細川の家でどれほど辛い思いをさせたことか…… 


 父を許してくれ、お前を救うこともできず、地下の暗闇で生き永らえていた不甲斐ない父を……!」



「いいえ……いいえ、お父様。 私は神を信じ、今日、この日のために生きて参りました。 


 神は、私に最愛の父を返してくださいました……!」




 十八年分の空白を埋める涙が、父娘の頬を絶え間なく濡らしていく。



 その様子を部屋の隅の暗がりで見守っていた弥助は、腕を組み、静かに目元を拭っていた。



(ナガ様、天海サマ。


 ワタシは……あの本能寺の闇から始まった地獄が、今、小さな光に救われたヨ……)



 やがて天海は涙を拭うと、父親の顔から、再び天下を裏から操る黒幕の顔へと戻った。



「玉。お前の安全を確保するため、これより長崎へ下り、南蛮船で海外へ亡命するのだ。


 この日の本にいては、いずれ細川やタヌキに見つかる。


 世界へ羽ばたき、お前の信じる神の国で、どこまでも広く生きるが良い……う、うぐっ!」



 別れを惜しむ天海は、再びこみ上げてくる感情を抑えきれずに、黒幕の顔から再度十兵衛の顔に戻る。



「た、玉……決して忘れるな! お前の、お前の心の傍で、父はずっと生きている。


 お前をずっとこの国から想い続けているぞ!」



「お前は、お前を必要とする人々の為に……父がお前を愛するように、愛してあげなさい! 


 玉ならきっと大丈夫! 自分を信じなさい……」



 タマは、溢れ出す涙を拭いもせず、父、十兵衛の顔を瞬きもせずに見つめ返す。


 その潤んだ瞳は、愛する父を脳裏に焼きつけるように、目を決してそらさない。



 十兵衛はタマの頭を優しく撫でて、両手で頬を包み込んだ。


 その愛おしい眼差しから流れる涙を指でそっと拭い、ゆっくりと頷く。


 十兵衛の大きくて暖かい両手に包まれた中で、涙でずぶ濡れになったタマの顔は何度も、何度も力強く頷き返した……




 そんな僅かな幸せの時間も事態は許さない。


 この地から一刻も早く彼女を逃がさねばならないのである。



 彼女の旅路には、官兵衛とイエズス会が手配した有能な南蛮人宣教師、忠実な世話係、そして銃や剣を携えた屈強なボディガード数名。



 ピッタリと付き従い、未知の海へと向かう準備は完璧であった。



「ありがとう、お父様……ありがとう」



「私は、お父様の娘で幸せでした。


 私は、私自身を信じます。……お父様、お元気で……さようなら……」




──翌朝。



 大坂城内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。



「細川ガラシャ殿が人質を拒み、屋敷ごと爆死されただと……!?」



 報告を聞いたツナリは、頭を激しく殴られたかのように、目の前が真っ暗になった……



 この事件は一瞬にして日の本中に広まり、「ツナリは無抵抗な、高貴な女性を理不尽に死に追いやった大悪人だ!」


 と、世間や諸大名から凄まじい大バッシングを浴びることになる。



 ツナリが必死に掲げてきた正義のメッキは完全に剥がれ落ち、西軍の士気は戦う前からガタガタに崩壊寸前の危機に陥る……



「クソッ、なぜだ……! なぜこれほどまでに上手くいかない……! 


 どこで間違ったんだ…… 伏見の状況はどうなっておる!」


「兼続殿は気配すらない…… ま、まさか嵌められたのか?」


「殿。 兼続めはもうよいでしょう。 その問題はご心配に及ばず。


 伏見陥落は……きっと成功する手筈になっております故」



 ツナリは焦燥と怒りに身を震わせながら、自らの運命の終着駅である関ヶ原へと向けて、呪われた出陣の太鼓を悲痛に鳴らすしかなかった。



 すべては大人の書いた完璧な台本の檻の上であるとも知らずに──

すぐに続きをどうぞm(_ _)m

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