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第2章:【関ヶ原編PART1】

【プロローグ】



:新生の産声と比叡山の呪詛



──天正十年、六月──


 雨の山崎。



 天下の覇王・織田信長を本能寺の業火に沈めた明智光秀は、羽柴秀吉の前に無残に敗れ、小栗栖の鬱蒼とした竹藪でその命を落とした──


 後世、日本の歴史の教科書には、そう無機質に記されることとなる。




 だが、隠された真実があった──



 その凄惨な戦場の片隅、叩きつける泥水にまみれた十兵衛の亡骸──否、微かに息を繋ぐ肉体を、密かに拾い上げる黒衣の集団がいた。



 京都の公家、すなわち、この国の歴史を裏から操る「晩廷」が放った隠密たちであった。



──数日後



 そこは、比叡山延暦寺の地下深く、日の本の光も届かぬ禁域

 

 陽光の死に絶えた薄暗い一室。



 満身創痍で横たわる瀕死の十兵衛の耳奥に、格調高い、しかし血の通わぬ冷徹な声が降ってきた。


「明智十兵衛光秀。お前は我が晩廷の『闇』を守るため、ナガをよくぞ消し去った。


 なれど、用済みとなったお前をそのまま日の本に生かせておくわけにはゆかぬ。


 お前は今日、この世界で死んだのだ」



 十兵衛は、薄れゆく意識のなかで冷たく自嘲の笑みを浮かべた。


 やはり、自分はただのトカゲの尻尾切り。


 千年の嘘を守るために使い捨てられる哀れな犬であったか、と。



 しかし、闇の中から響く声は、意外な言葉を続けた。


「……だが、お前ほどの英知と調略の才、ここで完全に失うのは日の本の損失。


 サルの後に必ずや台頭するであろう、東国の巨頭・タヌキ。


 次はその男の懐へと滑り込むのだ」


 一着の衣服が、十兵衛の顔の横に落とされた。


 「『天海』──それが、其方の新生なる名だ。新たな呼び名をもって、タヌキを内側から監視し、我が手の内にコントロールせよ」


 差し出されたのは、血に染まった明智の過去をすべて覆い隠す、漆黒の法衣であった。



「……ぎょ、御意」


 十兵衛は、喉の奥から地を掻き毟るような声を絞り出した。


 晩廷の犬として一度死に、晩廷の影として泥の底から生き返る。


 その筆舌に尽くしがたい屈辱に耐えながらも、十兵衛の瞳の奥には、自分という人間を、そしてナガの夢を狂わせた


「晩廷そのもの」


 を、未来永劫叩き潰すための、底冷えのする復讐の炎が静かに、しかし、決して消えぬ業火となって灯っていた。



「今は、その弱りきった身体を休めよ。これより、過酷な鍛練が待っておるぞ。


 頭髪身なり、声、筆跡から所作に至るまで、すべての十兵衛の痕跡を消し去り、真の『天海』へと成り代わるのだ。


 今しばらく……眠れよ……」


 十兵衛は、黙って眼を閉じた。



 だが、あの小栗栖の竹藪で絶望と共に閉じた眼とは、もう違う。


 薄れゆく暗黒の意識の中で、彼はこれまでの数々の生き様を、出会った漢たちの熱を、ゆっくりと、ただ深く、復讐の記憶として脳髄に刻みつけていく。




──そして、三月(みつき)ほどの時が流れた。



 かつて、自らが総指揮を執り、業火の如き炎で地獄へと変えた聖域──比叡山延暦寺。


 その、人目に付かぬ地下深くに、男の姿はあった。



「この暗闇以上の修行場は、他にはあるまい……」


 ひび割れた唇で、男は我に言い聞かせるように呟いた。



 己が焼き尽くした死者たちの呪詛が渦巻く暗闇。


 それだけが、己の復讐心を研ぎ澄ます最高の砥石であった。



 それから、長い、あまりに長い、精神をすり減らす過酷な擬態の修行が、何年も、何年も続くこととなる。



 自分の声を殺すためにあえて喉を潰し、光の届かぬ暗闇の中で、男はただひたすらにお経を唱え続けていた。



──いや


 お経の皮を被りながら、彼は暗黒の底で、晩廷への呪いを、激しい怒りを、ただ狂ったように叫び続けていたのだ。




:命のウインクと最強の相棒



「十兵衛……薬、塗りマス」


 音を失った比叡山の暗黒から、深い地鳴りのような声と共に現れたのは、漆黒の肌を持つ巨漢──弥助であった。



 潰れた喉を庇いながら、男は闇の中で静かに身を委ねる。


 そう、かつて弥助の命をこの世界に繋ぎ止めたのは、他でもない十兵衛であった。




──記憶は、あの忌まわしき本能寺の夜へと巻き戻る。



 ナガの壮絶な最期を見届けたのち、弥助は主の影としての最後の義務を果たすべく、ナガの嫡男、信忠が籠城する二条御所へと遮二無二走った。


 明智の軍勢を前に、彼は盾となり、猛然と剣を振るって戦った。


 しかし、奮戦虚しく信忠は自害。


 拠点を失った弥助は、あえなく十兵衛の部隊に捕らえられたのである。



 明智の本陣へ引き出され、十兵衛の前に打ち据えられた弥助は、静かに頭を垂れた。


 抵抗する素振りすら見せず、ただじっと怯える巨躯の男、自らの死を完全に悟っていた。



 だが……その姿を見つめる十兵衛の瞳は、冷徹な勝者のそれとは異なっていた。


 つい先ほど、自らの手で殺めてしまった、魔王・ナガ。


 その傍らで、牙城を支え続けてきたこの南蛮の男に対し、十兵衛の心には寛大なる情が兆していた。



 彼には、この日の本の戦を汚したという罪の意識などないのだ。


 イエズス会の教えを信じる弥助にとって、自死によって潔く散るという日の本の精神は、あまりに相容れない異文化であった。


 彼らの拝むデウスの理において、自ら命を絶つ者は「神から与えられた人生の放棄」という最大の大罪を犯したことになり、死後も永遠に報われないとされる。


 十兵衛は、その信仰の深さを、誰よりも正しく理解していた。



 しかし、周囲を固める明智の兵たちは「覇王の飼い犬など、即座に処分されて当然だ!」と、血の気の多い敵意で殺気立っている。



 十兵衛は一瞬にしてその場の空気を読み、あえて傲然と、冷酷極まりない声を張り上げた。


「此奴は黒き動物と同じ。


 思考など無いも同然の獣なれば、武士道なぞ論じる値打ちはないわ! ……よって、わざわざ我が刀を汚して処分する必要など無し!


 京の南蛮寺へ送り込むが良い。その後は、インドのパードレの聖堂にでも繋ぎ止めておけ!」



 痛烈な侮蔑を浴びせながら、十兵衛は床に伏せる弥助をじっと見つめた。


 侮辱されたはずの弥助はふと違和感に気づき、十兵衛の顔を泥水の底から上目遣いに見返した。


 その目は恐怖で泳ぎながらも、十兵衛の言葉の裏にある微かな意図を必死に探っていた。



──その瞬間であった。

 


 周囲の兵たちには、決して、絶対に勘付かれぬ絶妙な角度で──十兵衛は、ほんの一瞬だけ、弥助に向けて左目をパチッと閉じてみせた。



 決死の合図(ウィンク)であった。



(──生きろ、弥助)



 南蛮の巨漢は、ハッと息を呑むと同時に、その真意を察して再び深く頭を垂れた。


 十兵衛はそれを確認するや否や、さらに声を低め、きつく冷たく命令を下した。


「……目障りだ、連れて行け!」



 明智の兵に両脇を無造作に抱えられ、引き摺られていく弥助の脳裏で、張り詰めていた思考の糸がプツッと切れた。


 十兵衛の放った決死のウィンク──その意図を完璧に理解した男は、一瞬にして自らの役割を演じきった。



「ウァ……ウ……ウアアアァァァ……!」


 弥助は、まるで言葉を持たぬ獣が恐怖に狂ったかのように、嗚咽混じりの咆哮を上げて泣き叫び、そのまま本陣から連れ去られた。



 こうして十兵衛の機転によって命を救われた弥助は、京の南蛮寺へと極秘裏に送り出されたのである。



──数日後。


 辿り着いた南蛮寺の内部は、何やら慌ただしく物騒な空気が漂っていた。


「この大男こそが、最も適任でございます。身体も頑強、何より、あの明智十兵衛の目から生き延びた強運がある」


「よし、明朝直ぐに発たせよ!」



 息を吐く間もなく、弥助は「晩廷」の密かな指示により、比叡山延暦寺へと送り出されることとなった。


 当時は激しく対立し、血の気の多い揉め事の絶えなかった南蛮のイエズス会と、伝統ある仏教の総本山・延暦寺。


 その両者の間に晩廷が黒幕として仲介に入り、秘密裏に外交交渉を進めた結果、一枚の「生きた駒」として弥助が配置されたのだ。



──比叡山における、弥助の新たな役割。



 彼は表舞台では、異形の「黒き僧兵」として比叡山の堅牢な山門を護り、夜になれば人目を盗んで地下深くの暗黒へと降り、十兵衛の世話を焼き続けた。


 弥助は、己の命の恩人のために、ただ一生懸命に尽くした。



 十兵衛の裂けた喉にそっと薬を塗り、手に入りうる限りの質素な飯を差し出し、時には天海の纏う「十字架族」の不気味な経典を、暗闇の中で二人して静かに唱え合わせた。



(ナガさん……私はまだ、死ねぬ。この喉が裂け、血を吐こうとも……私は、あの美しき嘘を護る側に回ると決めたのだ……)



 それは、失った魔王への不敬であり、同時に彼なりの狂おしい情愛の告白でもあった。


 今はただ、晩廷の用意した冷酷な運命に身を委ね、地下の暗黒で牙を研ぐ十兵衛……




──そして、地獄のような十八年の歳月が流れた。


 時代は、移り変わっていた。




──慶長五年──



 暗闇の中で精神をすり減らし、疲れ果てていた十兵衛の元へ、一人の高徳な僧が静かに歩み寄ってきた。


「十兵衛……いえ、今は天海なる者よ」



 十兵衛は、その聞き覚えのある声の響きに、ハッと目を見開いた。


 薄暗い灯火に照らされた声の主は……


 そう、あの天正九年、燃え盛る比叡山の裏参道で、十兵衛が独断で救い出し、京の晩廷へと逃がしたあの襤褸(ぼろ)を纏った若者であった。



「あなたのお陰です。ここ延暦寺は、十年余りの歳月をかけてほぼ完全に蘇りました。


 これはすべて、あなた様が、ご自身で背負われた十字架の重さを、恐れることなく繋いで下さった、あの夜の慈悲の賜物でございます」



 若者の語る通り、現在の比叡山は生まれ変わった。かつてのような、民を貪る治外法権の凶悪な武装集団ではない。


 本来の厳格な「女人禁制」の聖域へと生まれ変わっていた。



 そして、感謝を伝えたかつての若者は、一瞬ののちに、厳格な十字架族の目へと戻り、天海となった十兵衛をじっと見つめた。



──室内の空気が、凍りつくように一変する。



「天海殿……世ではとうとう、天下を二分する大きな戦が始まろうと、激動の最中にあります。


 貴方に、晩廷からの重要な『任務』を伝えに参りました」



 僧の言葉は、冷徹な判決のようであった。


「厳しく申せば天海殿、貴方はあの夜から、既に我が十字架族の檻の中にありまする。


 公にその顔を出されては甚だ困ります故、すべては歴史の闇の中、秘匿にてお頼み申し上げます。


 それと、夜な夜な天海殿に付き添ってきた、この弥介を、ボディーガードとしてお供させますので、必要とあらば彼を頼ってください」



 十兵衛は、疲れ果てた目で、弥介の方へチラッと視線を向けた。



 待ってましたとばかりに、弥介は、ニカッと白い歯を見せた。


 それと同時に、左目をパチッと閉じて合図(ウインク)してみせる。



(──こ、此奴。


 フッ、ククク……あの時の、お返しというワケか。……こいつは一本取られたわ)


十兵衛もニヤリと笑い返す。

 


 それを見届けた十字架族の男は、ゆっくりと立ち上がった。


 十兵衛を、ここ延暦寺から世に送り出す為の、身支度、手続きを手際よく進めつつ、つかの間の休息を与えた。




──そして、十八年ぶりに、地上の眩い太陽の光を浴びた。


 肌を刺す夏の風が、あまりに懐かしかった。



「行くぞ、相棒よ」


 漆黒の法衣を翻す主の後ろで、黒檀の如き巨漢が、目を輝かせて笑顔で応える。


「ハイ、ボス!」



 天海(ボス)と弥助(あいぼう)。



 日の本の歴史を裏側からすべて書き換える、復讐の狂言回したちの壮大な物語が、今、ここに真の幕を上げるのである。




【CAST】



 ツナリ(真実一路の曲がらない剛速球の男。第2章の主人公):石田三成


 天海(十字架族の一員? で仕掛け人。十兵衛の魂を宿す):明智光秀


 タヌキ(選ばれし継承者。後の徳川幕府初代将軍):徳川家康


 ねね(サルの正室。絶大な影響力を誇る北政所):おねね


 お初(まだキャピキャピな外交官の卵。ナガマサ、お市の次女):お初


 弥助(殻を破りしフィジカルモンスター。最強のお供):弥助



【特別出演】



 利家(五大老実力No.1。病には勝てず……)



【友情出演】



 吉継(ツナリの良き理解者)


 正則(子飼い衆のその他)


 長政(同上。実は情け深い)


 清正(同上→控えめ)


 義宣(男気。ツナリを認めている)


 五助(吉継の側近。カッコ良い!)


 仁右衛門(藤堂隊の若き義士。武士道の塊で惚れそうになる漢。藤堂高虎の身内)


 忠興(超優秀だが、超サイコパス……残念)


 タマ(美しきキリシタン。自死!? 影のヒロイン)


 官兵衛(長政の父。九州で多忙につきセリフは免除だが影で大活躍)



【闇出演】



 比叡山延暦寺(相変わらず晩廷との親族経営)


 イエズス会(延暦寺と対立。頼れる組織で大活躍)


 晩廷(日の本の象徴。美しき嘘つきの十字架族)




※【気まぐれ出演】



 左○(第1章に出演交渉も、ギャラが高額な為に断念……重要なキャラでしたが出演見送り。第2章は、ツナリが出演の為に、OKを頂きました。彼への高額なギャラは、ツナリが半分負担してくれた経緯あり!?)



【LOCATION】



 比叡山延暦寺、佐和山城、京、京都新城、大阪、伏見、大津城、近江、松尾山、関ヶ原の泥濘、六条河原、日の本全域……



 そして──厳重に閉ざされたサカイ社



【プロローグ・完】




:巨星の落日とタヌキの眼光



 太閤サルがこの世を去り、豊臣の天下はその輝きを急速に失いつつあった。


 サルの遺言によって敷かれた、合議制を謳う


「五大老・五奉行」


 この合議システムは、東国の巨頭・タヌキの冷徹な政治力によって、瞬く間に骨抜きにされ、機能は完全にマヒしていく。



 タヌキの暴走とも言える、露骨なスタンドプレーの数々。


 その牙を抑え込める唯一のブレーキ役として君臨していたのが、加賀百万石の祖・前田利家であった。



 しかし、その利家は長年、自らの心身を蝕む病の影と静かに向き合い続けていた。


 サルの死後、派閥争いの調停ストレスが急激に彼の身体を悪化させ、やがて床から起き上がることすら叶わぬ状態へと追い詰められていったのである。



 巨星、まさに堕ちんとする──



その報せを耳にしたタヌキは、すぐさま大坂の病床へと足を運んだ。


 形ばかりの見舞いを装いながらも、その瞳の奥には、敵の命脈を測る冷酷な光が宿っている。


「利家殿。お身体の具合、このタヌキも心中察するに余りある思いですぞ。


 日の本の宝たる貴殿に、万一のことがあってはならぬ……」



 病床の利家は、落ち窪んだ眼窩から鋭い眼光を放ち、タヌキを見返した。


「ふん。心にも無い言葉よ……」



 掠れた声とは裏腹に、利家は布団の内に、こっそりと抜き身の太刀を忍ばせていた。


(いざとなれば、この場でタヌキを討つ。


 たとえ刺し違えようとも、豊臣の未来のために、この災いを根絶やしにする──)


 死を覚悟した漢の鬼気が、静かに寝所に満ちていく。



 だが、タヌキは、やはり化け物であった。


 唇の端を不気味に歪めると、利家の手元をじっと見つめた。



「利家殿。さ(・)っ(・)き(・)から、凄まじい殺(・)気(・)がムンムンと匂い立っておりますぞ……


 ところで、その布団の中に構えておられる物は何ですかな?」



 見破られたと知るや、利家は躊躇(ちゅうちょ)せずにガバッと布団を跳ね除けた。


 鋭い刃の光が、寝所の薄暗闇に閃き、タヌキの鼻先へと向けられる。


「コイツですかな……?


 我が愛刀が、タヌキ殿の首筋に触れたいと激しく申しておりますぞ!」



 向けられた白刃に対し、タヌキは一瞬だけ眉をピクリと動かした。


 だが、すぐに恐ろしいほどの平静を装うと、ニヤリと低く笑ってみせた。



「クハハハ! それは恐ろしい。ですが……今のお主に、私を仕留める力はありますまい。


 そんなに殺気立つよりも、お身体を労りなされよ……」



 タヌキの目が、ふっと細くなった。


(利家よ、さすがの執念よの……しかし、これはもう長くはないぞ。そろそろ『アレ』の仕込みに備えねばな。


 ツナリ(小僧)よ、待っておれ……)



 腹の中で冷徹な計算を巡らせるタヌキに対し、利家は無念を堪えるように太刀をゆっくりと鞘へと収めた。



 そして、眼光鋭いまま、静かな口調で呟いた。


「タヌキ殿……我が亡き後は、どうか愚息のヤツを見捨てずに、前田を盛り立ててはくれまいか……」


 牙を失った敵の懇願(こんがん)に、タヌキは優しげな笑みを浮かべ、寄り添うフ(・)リ(・)をして頷いた。



「案ずるなかれ。利長殿のことは、我が家族同然に思っておりますぞ。


 タヌキ家と前田家は一丸となり、共に発展してみせましょう。このタヌキにお任せくだされ。」



 利家は、ゆっくり横になり、そっと目を閉じる。


(本心ではあるまい……しかし、タヌキの口から言わせる事こそが必要なのだ。


 ツナリ……見誤るでないぞ……  


 利長……耐えろ……)



 タヌキは、静かに利家の肩にポンと手を当て、力無き顔を見つめた。


「お主は良き武将であった……このタヌキの心に、しかと刻まれておる、決して忘れぬぞ。」



 タヌキは、ゆっくりと立ち上がり、そのまま振り返らずに部屋を後にする。




──カタン



 襖が閉まり、タヌキの足音が完全に遠のいた頃、利家は再び目を見開き、しわが寄った眉間を、ゆっくりと和らげていく。



 見上げた天井が徐々にボンヤリと歪んでいった。


──サルと共に命を懸けて駆け抜けた泥塗れの戦場。


 いつも優しく迎えてくれたねねの満面の笑顔。


 あるいは、まだ若く眩しいほどに真っ直ぐだったツナリたちの青き姿──



 激動の、しかし誰よりも深く愛おしい己の人生が、走馬灯の如く脳裏を駆け巡っていた……


 死を悟った男の顔に、微かな、しかし最高に安らかな笑みが浮かぶ。



 利家は、すべての宿命を受け入れたように、また静かに目を閉じた。


 その目尻から溢れ出た一粒の雫が、仰向けの肌を伝い、静かに耳の奥へと吸い込まれていく。



 それは悔しさでも悲しさでもない。


 荒波の如き我が人生をすべてやり切った男の、これが最後の、美しいカーテンコールであった。



 ──慶長四年、閏三月三日──


 前田利家、静かに息を引き取る。


 豊臣の唯一のブレーキ役であった巨星が病没した、まさにその夜。



──大坂城下の緊張は沸点へと達した。



 利家逝去の凶報が城下に伝わった直後、闇夜を裂いて、大地を揺らす怒号の地響きが押し寄せる。



「ツナリを仕留めよ! あやつさえいなくなれば、豊臣の天下は安泰だ!」


 福島正則、加藤清正ら、抜き身の刀を手にした武断派の七将が、狂気に目を血走らせてツナリの屋敷へと殺到した。



「オオオオオッ! 待ちかねたぞ、ツナリィッ!!


 利家様がお隠れになった今、貴様をかばう盾などどこにもないわ!


 積年の恨み、この場で骨まで噛み砕いてくれようぞ!!」




──その数分前、嵐の前夜のような静けさに包まれていたツナリ邸。


 利家の祭壇への拝礼を終え、一人静かに哀惜(あいせき)の深淵に沈んでいたツナリの背に、容赦なき殺意の咆哮(ほうこう)が迫っていた。



 バタン!


 と激しく襖が開き、左近が雪崩れ込んでくる。



「殿っ! 正則、清正ら七将の軍勢が、こちらに向かって猛進しておるとの報せにござる!」


「な、何だと!!」



 ツナリはカッと目を見開いた。


 その瞳に、燃え盛るような怒りが宿る。



「クッ!……無礼極まるヤツらめ!


 利家様のご遺骸に一礼の敬意も示さず、亡骸の血も温かいうちから私闘の刃を抜くかッ!


 悲しみの死を挙兵の合図とするなど、もはや人の仕業にあらず!


 恥を知れッ、この不忠者どもめがっ!!」



 奥の間で愛刀を掴み、多勢の敵に刺し違えんとするツナリの前に、左近がその巨躯を広げて立ち塞がった。


「殿、成りませぬ! ここは多勢に無勢にございます!」


 左近は主君の肩をがっしりと掴み、必死に説得する。



「この壁の薄い平屋の屋敷が、押し寄せる大軍に対する要塞になるとは思えませぬ!


 私がここを死守し、囮(デコイ)となります故、殿は今すぐ佐竹義宣殿のお屋敷の方へお逃げくだされ!


 既に裏で話はついております!」



 屋敷の裏口から、義宣の使いの者が必死の形相で叫んだ。


「ツナリ様! 我が主の屋敷は、既に門を堅く閉ざし、鉄砲隊を配備して万全の構えをとっておりまする!


 奥の間へとご案内いたします。さぁ、お早く!!」



「ぐっ……! むぅ……!」


 ツナリは悔しさに歯を食いしばり、愛刀を握る拳を震わせた。


 だが、左近の真っ直ぐな瞳に圧され、ついに頷く。


「……左近、其方にすべてを任せるぞ。


 左近……後で必ずだ! 私は待っておるぞ、死ぬなよ……!」



 左近はフン、と鼻息を荒く吐き出し、不敵な笑みを浮かべた。


「御意にございまする! 私の役目は、殿を完璧にお守り通すことにございます故、ご安心なされよ。


 後で必ずや、生きてお側へ参ります。さぁ、行かれよ!」



 主君の背中が闇に消えていくのを見届けた瞬間、左近の顔から笑みが消え、戦鬼のそれへと変わった。


 押し寄せる七将の怒号を正面から迎え撃つべく、彼は血の匂い立つ太刀を引き抜いたのである。



 直後、静寂を引き裂いて襲撃の足音が迫り、鞘から引き抜かれた刃の冷たい音が夜気を鋭く切り裂いた。



 ドォン!!


 門が破られ、七将の軍勢が雪崩れ込む。



──その刹那。



 世界が不自然なほどに音を失い、すべての光景がゆっくりとしたスローモーションへと変わっていった。


 刃を交えんとするその歪な空間の中で、ツナリ、正則、清正の三人は、ぐるぐると螺旋に迷い込む……



──かつて同じ豊臣の釜の飯を食い、同じ未来を夢見た三人の脳裏に、あの眩しかった少年時代の日々が、切ないほど鮮烈に蘇り、奇跡のようにシンクロした。



 逃げる闇の中で、ツナリはきつく目を閉じた。


(なぜだ……? なぜ俺たちは、こんな醜い場所で互いに刀を向け合っている……


 昔は……昔はみんなで、がむしゃらに前だけを見て、サルの親父の背中を追って走っていたじゃないか)


 脳裏に、夕暮れの大坂城の情景が浮かび上がる。


(悪さをすれば『お前ら、またか!』って、サル様に頭が割れるほどのゲンコツを落とされてさ。


 泣きべそをかくお前たちを、頭の固い俺がいつも必死に屁理屈をこねて庇って……


 夜はねね様に内緒で、安い酒を一つの器で回し飲みしながら、天下の行く末を熱く語り合って……


 あの賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ち取った日、俺たちは間違いなく、同じ勝利の雄叫びをあげて、肩を組んで笑っていたはずだ。


──なぁ、正則、清正。俺たちの絆は、一体どこで狂っちまったんだ?


 俺の、この真実一路な剛速球(ストレート)は……なぜ、お前たちに届かない……?


 なぜ、そんなに遠くまで離れちまったのか?)



 同じ瞬間、押し寄せる大軍の先頭で、正則と清正もまた、衝動に駆られたように足を止め、目をきつく閉じていた。


(クソッ……! なぜこんなことになっちまったんだ……?)


 胸を掻き毟るような無念が、二人の魂を震わせる。


(昔は……昔はみんなで泥にまみれて協力して、サルの親父の天下を必死に支えてきたじゃないか。


 猪突猛進しては周囲を怒らせる俺たちの前に、『バカ共が。俺が言い訳してやるから大人しくしてろ』って。


 ツナリ……お前がいつもクールな顔をしながらも、頭では熱い知恵で俺たちを庇ってくれた。


 ねね様のお袋の味をみんなで囲んで、ガハガハと腹の底から笑い合って……


 賤ヶ岳の泥を舐めて柴田を倒したあの日、俺たちは共に拳を突き上げた。


『豊臣を、世界一の国にしよう』って誓い合ったはずだろう?


 お前が味方なら、俺たちの背中は世界一安全だって、本気で信じていたんだ。


──なぁ、ツナリ。なんで、お前はそんなに不器用なストレートだけで突き進むんだ?


 俺たちの、必死な言葉(変化球)は……なんで、お前に届かない?


 なんで、そんなに遠へ行っちまったのか……?)



 ほんの少しの想い、お互いが歩み寄れる言葉を交わし合えば、きっとまた、あの日のように、肩を組んで笑い合えるはずだった。


 互いの胸の奥底にある記憶は、今この瞬間も、寸分の狂いもなく響き合っていた。



 三人はその心底において、狂おしいほどにあの過去を愛おしんでいた。


 だからこそ、「なぜ、こうなってしまったのか」という、抗えぬ時代の巨大な濁流──タヌキの陰謀に、絶望し、鳴き声をあげていたのだ。



──だが、無情にも時は動き出す。



「ツナリッ! 出てきやがれぇええい!!」


 正則の引き裂くような怒号が、切ない記憶の静寂を容赦なくぶち破り、関ヶ原へと続く地獄の現実を引き寄せた。




:大坂城下脱出と具現化せし神速



 ツナリは左近の必死の説得と、佐竹義宣の男気に心を動かされる。


 これ以上の私闘を避けるべく夜陰に紛れて近くの義宣邸へと滑り込んだ。



 その直後、猛烈な地響きと共に突進してきた正則たちの軍勢が、主を失ったツナリ邸へと乱入した。


「いざぁ~っ! 覚悟せえ~ぃ!」



 屋敷の最奥、三成の居室には煌々と灯りがともり、障子越しに一人の男の影が所在なげに行き来しているのが見える。


 襲撃軍の包囲を指揮する正則が、勝利を確信してニヤリと笑った。


「ツナリのヤツめ、逃げ遅れて怯えておるわ。一気に踏み込め~ぃ!」



 だが、怒涛の勢いで部屋へ踏み込んだ正則勢が目にしたのは、主君の衣服を身にまとって悠然と酒杯を傾ける、左近の姿であった。


「なっ……ツナリではないと……? だ、誰だ貴様は!」


 不意の光景に混乱し、動きを止める正則の兵たち。


 左近は外の喧騒をあざ笑うかのように、腹の底からの大声を響かせた。


「グハハハハッ! よし、見事にかかりおったわい。正則も清正も、やはりただの猪武者よな。


 この左近がここにいる限り、殿がすでに義宣殿の屋敷へ移られたとは夢にも思うまい!」


 左近はグイっと杯を干すと、ツナリの小袖を乱暴に脱ぎ捨て、手早く自身の重厚な甲冑を身にまとった。



「殿、大義のための囮、見事に務めてみせましたぞ。


 者ども! 裏手より打って出る! 義宣殿と合流し、大坂城下を叩き抜けるぞ!」


「オオオーッ!」



 一歩遅れて騙されたと気づいた正則勢は、勢いが完全に空回り、行き場のない怒りに顔を歪めた。


「ぐっ……ぐぬぬ。探せ、探せぇい! 何処にいやがる! ツナリィ、出てきやがれぃ!」



──その頃、佐竹義宣邸の門内では、すでに馬上にあったツナリが焦燥に駆られて拳を握りしめていた。


「義宣殿、左近は……左近はどうした? 私を逃がすために、あの男をここで死なせるわけにはいかぬのだ!」


「案ずるな、ツナリ殿!」



 義宣は馬上で堂々と胸を張り、笑ってみせた。


「左近殿がそれほど柔な器量ではないことは、お主が一番知っているはずだ。私は左近殿の武勇を信じておりますぞ!


 今しばらく……おお、噂をすれば来ましたぞ!」



 裏門の闇を割って、数騎の騎馬が猛烈な勢いで駆け込んできた。


 先頭を走るのは、浴びた返り血を拭いもせず、不敵に笑う左近である。



「殿! お待たせいたしました! 敵の主力は我が屋敷に釘付けにございます。


 大坂城下を脱出するなら、今を置いて他にありません!」


「左近……! よくぞ無事で! さぁ来い!」



 ツナリは安堵の声をあげると同時に、胸の奥を熱い感情が突き上げるのを感じていた。


(左近よ、私はお主と共に歩めて本当に良かったぞ。お主がいなければ、確実に私は討たれていたであろうな……)



「よし、役者は揃った!」


 佐竹義宣の鋭い眼光が闇を射抜く。


「これより我が佐竹軍の鉄甲の陣を以て、大坂城下の包囲網を正面から突き破る!


 者ども、槍を構えよ! 豊臣の奉行を狙う不届き者どもに、常陸の武士の意地を見せてやれ!」


「オオオーッ!」



 数百名の地鳴りのような怒号が響き渡り、義宣邸の重い門扉が勢いよく開け放たれた。



──夜の大坂城下。


 灯りをあえて堂々と掲げた義宣軍の鉄壁の陣列が、凄まじい風を巻き起こして街道へ躍り出る。



 ツナリ邸に気を取られていた襲撃側の外囲の兵たちが、慌てて色めき立った。


「な、何事だ! 義宣の軍勢……? 中に誰かいるぞ……まさか、ツナリか!」



 行く手を阻まんとする敵の前に、義宣は最高のドヤ顔を浮かべ、威風堂々と言い放った。


「いかにも! ツナリ殿は、我が義宣軍が伏見まで責任を持って護送する!


 私怨に駆られて奉行を襲う愚か者あらば、この佐竹義宣が相手になろう!


 さぁ、どうした! 恐れをなしたか! 命を賭ける覚悟を持たぬなら、そこをどけい! 道をあけい!!」


 義宣の放つ圧倒的な威圧感と、一分の隙もない槍ぶすまの壁に、襲撃軍の兵たちは完全に気圧され、立ちすくむ。



「そこをどけい! 殿の御前であるぞ! 我らの覚悟、受けてみよ!」


「どりゃぁぁぁっ!」


 左近が愛槍を豪快に振るい、立ち塞がろうとした敵の数人を一撃でなぎ倒す。



 その圧倒的な武勇と義宣軍の凄まじい突撃力により、大坂城下の包囲網は、まるで紙を破るかのように容易く突き崩された。



 馬の蹄が大坂の夜道を激しく叩き、砂塵が舞う。


 背後で慌てふためく敵の怒号を置き去りにしながら、ツナリ、左近、そして義宣を乗せた馬たちは、伏見へと続く暗い街道へと、堂々と駆け抜けていった。




:伏見街道の死闘とタヌキの裁定



──伏見へ向かう街道は、ツナリの命を執拗に狙う七将の追手によって、すでに血の海と化していた。



 先頭を駆けるのは義宣。


 鋭い眼光で闇を切り裂き、行く手を阻む敵を容赦なく撥ね退けて進路を開く。


 その直後、中央には馬上のツナリを壁のように幾重にも囲む、決死の護衛兵たち。


 そして最後尾、殿(しんがり)を担うのは、左近であった。



「おのれ、うろたえ者がッ!!」


 不意に、地鳴りのような怒号が響き渡る。



 左近は度々、猛然と駆ける馬の手綱をあえて引き絞り、強引に減速させていた。


 振り返ったその顔は、文字通り戦場の鬼神。


 返り血を浴びた凄まじい形相で大身槍をなぎ払い、迫る追手を肉塊へと変えていく。



「殿の御首級(みしるし)など、この左近の命を獲ってからにせよ! 命が惜しくば、退けぇいッ!!」



 その超常的な威圧感に、追手の馬たちが恐怖で狂ったようにいななき、たじろぐ。


 敵の足が止まった、まさにその刹那だった。



 遙か先頭を行く義宣が、バックミラーで後方を確認するかのように、鋭く首を巡らせた。


 血煙と怒号が渦巻く乱戦のなか、義宣の鋭い一瞥(いちべつ)と、敵を睨み据える左近の眼光が、一瞬だけ交錯する。


(──左近、引き付けたな。今だ、中央を加速させる!)


(──応よ、義宣殿。ここは俺が支える、殿を頼む!)



 言葉など交わす猶予は一瞬たりともない。


 しかし、二人の網膜に互いの姿が映った瞬間、確かにそんな「心の会話」が交わされていた。


 それは、アイコンタクトという抽象的な概念が、そのまま戦場に具体的な形を成したかのような──まさに具現化した神速の連携プレーであった。



 左近が敵を引き付けた瞬間に、義宣が全体の速度を爆発的に引き上げ、中央のツナリを安全圏へと引き離す。


 左近が再び馬を走らせて合流すれば、義宣がまた次の突破口を穿つ。


 離れていながらも、互いの動向を完璧に予測し、一つの生き物のように呼吸を合わせる二人。


 血煙のなかで繰り広げられるその神業的な連動の前に、七将の包囲網はなす術なく引き裂かれていった。



 護衛の兵たちに守られながら、その光景を間近で見ていたツナリは、胸の奥が熱く震えるのを禁じ得なかった。


(ま、マジか……す、スゲェな……)


 あの理路整然と言葉を紡ぐツナリの脳裏に、そんな粗削りな驚嘆が浮かぶ。


 言葉ではなく、ただ視線を交わしただけで、命がけの戦場を支配してみせる二人の武人。


 自分を守るために「鬼神」となって敵を食い止める左近。


 そして、迷いなく己を信じて前を切り開く義宣。



(これほどの漢たちが、この私を守るために命を張っているのだ──)


 ツナリの脳内で、この猛者たちの圧倒的な実力への驚きが、やがて絶対的な、これ以上ないほど頼もしい「信頼」へと変わっていく。


 ツナリは手綱を握る手にぐっと力を込め、二人への感謝と覚悟を胸に、真っ直ぐ前を見据えた。


 伏見の門は、もう目の前だった。




──伏見城へ滑り込んだツナリ一行。



 しかし、それを追ってきた正則、清正、長政、忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明、の「七将」の軍勢が、すぐさま周囲を完全に包囲した。



 伏見城下は、豊臣家始まって以来の、爆発寸前の緊張感に包まれていた。




──同時刻、豊臣家大老の屋敷。


「クハハハ!」


 漆黒の闇の奥で、タヌキが低く笑った。



「……来よったか!ツナリ(小僧) よ……


 しかしまぁ、よくぞこの伏見まで無事に辿り着けたものよ。まずは、見事な逃げっぷりとしようぞ。


 ここで、奴に引導を渡しておくべきであろうが、まだ生かしてはおく……このドタバタを最大限に利用せねばな……クハハ!」



 タヌキは使いの密者によって、ここへ至るすべての経緯をリアルタイムで把握していたのだ。



 タヌキの狙い通り、怒り狂った七将は決死の形相でタヌキの屋敷へと乱入するように詰め寄ってきた。


 彼らはタヌキを「五大老の筆頭、すなわち天下の裁判官」として頼ると同時に、ツナリの身柄引き渡しを激しく要求する。



 正則が顔を真っ赤にして叫ぶ。


「タヌキ様! もはや我慢の限界にございます!


 ツナリの奴は、朝鮮の陣において我ら前線の将をそしり、サル太閤殿下に虚偽の報告をいたしました! あの最悪にヤな野郎を、今すぐ我が手で斬らせてくだされ!」



 清正もそれに続く。


「伏見城内のツナリ邸は、すでに我が兵が包囲しております。


 タヌキ様がもし『お咎めなし』とされるなら、我らは豊臣の法を破ってでも、これよりツナリの首をはねる覚悟にございます!」



 腕組みをして、じっと彼らの怒号を聞いていたタヌキ。


 すべてが自分の計算通りに進んでいることを確信しながら、あえて静かに、かつ圧倒的な威厳を持って彼らをなだめた。


「……お主たちのツナリへの恨み、そして朝鮮での筆舌に尽くしがたい苦労は、このタヌキが誰よりも知っておる。


 しかし、ここは秀頼公のおられる伏見城の膝元ぞ。ここで私戦を始めれば、お主たちは豊臣家に対する『謀反人』となってしまう。


 それはワシの本意ではないぞ」



「なれば、あのツナリをこのままお咎めなしと申されるか!」


 清正がなおも食ってかかる。



「慌てるな……」


 タヌキの声が低く響き、室内の空気を圧した。


「ツナリが五奉行として天下の調和を乱した罪は重い。このタヌキが、五大老の筆頭として、奴に『相応の処分』を下す。


 お主たちの面目は必ずワシが立てる。故に、今は兵を収めよ! 良いな……」



「……し、承知致した……タヌキ様のご意向に沿いまする……」



 タヌキの底知れぬ凄みに圧され、正則たちは不満を残しながらも「タヌキによる処罰」を信じて、ひとまず刃を収めた。




 その後、タヌキは中老の中村一氏や、自らの側近である酒井忠世を「使者」として、ツナリ邸に立て籠もるツナリの元へ派遣した。



 使者からタヌキの裁定を聞かされたツナリ、そして横に控える左近と義宣。


「ツナリ殿。タヌキ様からの通達をお伝えに参った。七将の怒りは凄まじく、今にもこの屋敷に攻め込まんとする勢いである。


 タヌキ様が命をかけて彼らを止められているが、これ以上は防ぎきれぬ。よって、以下の裁定を受け入れよ」



 使者は淡々と書状を読み上げる。


 ツナリは唇を強く噛み締めながら、その言葉を待った。



 一、ツナリは本日をもって五奉行の職を辞し、失職とする。


 一、直ちに伏見を退き、領国である近江・佐和山城へ帰って隠居せよ。



「これを受け入れるならば、タヌキ様が七将を抑え、お主の一命とツナリ家の領地はそのまま安堵すると約束される」



──あまりにも不条理な要求に、ツナリの全身が激しい怒りで震えた。


「ふざけるでない……!


 私は豊臣の法を何一つ破ってはいない! 朝鮮の陣での査定も、すべてサル太閤殿下のご意志に基づいた正当なものだ!


 なぜ正義を貫いた私が職を奪われ、中央から追い出されねばならぬのだ! タヌキ殿は、善悪の区別もつかぬお方か!」



 怒り狂うツナリの肩を、横にいた左近がその大きな手でガシッと制した。


 左近の目は、冷徹に未来を見据えていた。



「……殿、これまででございます。ここは、タヌキの条件を呑まれよ」


「左近! お前までタヌキに屈せよと言うのか!」


「屈するのではございませぬ! 今ここで意地を張れば、七将の軍勢にこの屋敷ごと圧殺され、殿の命は終わります。


 殿が死ねば、豊臣家は本当にタヌキの思うがままに乗っ取られます。……生きていれば、必ず勝機は戻ります。


 今は佐和山へ引き、力を蓄えるのです。殿の命があればこそ、我らは何度でも立ち上がれます!」



 左近の必死の眼光に、ツナリはハッと我に返った。


 自分がここで無駄死にしては、秀頼公を守る者が本当にいなくなる。



 ツナリは深くうつむき、血がにじむほど拳を強く握りしめた。


「……分かった。タヌキ殿の裁定、謹んでお受けいたす。奉行を退き、佐和山へ隠居しよう……」



 伏見退去が決定した翌朝、ツナリは伏見城の屋敷を出た。



 タヌキは、途中で七将が闇討ちをして合意を台無しにしないよう、自分の次男である結城秀康に厳重な護衛を命じた。


 門の外で待つ結城秀康の軍勢、および静かに付き従う左近。



 ツナリは伏見城の天守を振り返り、見上げながら、心の中で激しく叫んだ。


(──タヌキ、今に見ておれ。必ずこの中央へ戻り、お前のその薄汚い野心を、真っ向から叩き潰してやる……!)




 関ヶ原への不滅の炎をその胸に灯し、ツナリは佐和山への長い左遷の旅路についた。



 タヌキの、すべてをコントロールする冷徹さ。


 ツナリの、狙い撃ちされた悔しさと正義感。


 そして左近の、主君を生かすための大局観。


 それらが激しくぶつかり合う、歴史の決定的なターニングポイントであった……




 ──佐和山城への隠居を余儀なくされたツナリは、ジッと口を一文字に閉じ血眼の形相のまま、今日も机の上の地図を睨みつけていた。



「誰も彼もが、タヌキの前に尾を振る犬になり下がったか……


 だが、私は絶対に退かぬ。不義を正すことこそが、サル太閤殿下への本当の忠義だ!」



 地図を見つめるツナリの瞳は、あまりにも純粋で、あまりにも脆く、昏い光を放っていた。



──だが、希望がまったく、完全に潰えたわけではなかった。



 誰もが己の保身のために苦虫を噛みつぶしていくこの汚れた泥沼の中で。


 ただ一人、愚直なまでの真実一路で、豊臣への「義」を貫き通そうとするツナリ。


 そんな彼の馬鹿がつくほどの真っ直ぐさに、魂を揺さぶられた本物の漢たちがいた。



 不敵な軍師──左近を筆頭に、利害を捨てて「義」に殉じる大勢の同志たち、多くの猛き武将たちが、主君を守る鉄壁の盾となるべく、この佐和山城の元へと続々と集結しつつあった。


 敷かれた歴史のレールの裏側で、出来レースの台本を力づくで破り捨てんとする「現場の反撃」の火花が、静かに、しかし激しく熾り始めていたのである……

すぐに続きをどうぞm(_ _)m

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