↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

第1章:【本能寺編PART2】

──天正九年、七月──



 安土城での、ナガ、十兵衛、弥助、そして南蛮の巡察師ヴァリニャーノ、宣教師ルイス・フロイスの五人による密談。


 時計の針は巡り、物語はあの決定的な決断の夜へと引き戻される。



「ナガ様、なりませぬ! あそこは王城鎮護の禁地とご承知のはず。


 怒りにまかせた責め立ては、何卒お控えくださりませ! 神罰のみならず、晩廷との絆が完全に断たれまする!」


 十兵衛は畳に額を擦りつけ、必死に声を絞り出していた。 



 だが、魔王の決意は微塵も揺るがない。


「神罰だと? 糞を喰らえ!!」


 ナガは傲然と吐き捨て、広間を見下ろした。


「クク……仕上げは武田の滅亡を遂行するのみじゃ」




:天下布武と黒き密約



──天正十年、三月──



 遂に、信玄の後継・勝頼を自害させて、武田の名を歴史から完全に消し去る。


 天下布武の終わりが、目の前まで迫っていた。



──天正十年、五月初め、安土──



 焦り狂った晩廷からの使者が、ナガの機嫌を窺うように、


 太政大臣・関白・征夷大将軍


 の、いずれかの地位を約束する、最後の切り札である三職推任の最高栄誉を携えてやってきた。



──だが、安土城の最上階。



 ナガは薄暗い室内の御簾(みす)の向こうに身を置き、使者の前に姿を現すことすらしなかった。


 差し出された、千年の偽りのプライド、という、ガラスの密約に等しい書状に対しても、ただ冷徹な沈黙を守り、言葉を返すことなど無駄の極み。


 しかし、重苦しい場の空気を一変させたのは、ナガ自身による強烈な一言から始まる。



「……三職だと? 雅(みやび)な名分など、もはやこの余を縛る檻(おり)にもならぬわ!」


 御簾の向こうから放たれたナガの怒号は、拝跪(はいき)する使者の鼓膜を、容赦なく破らんばかりに響き渡った。



「御所に伝えよッ!!


 其の方らが、千年も座り続けてきたその椅子は、もはや古すぎて床が抜けておるぞとな……ククク」



「……な、なんと不敬な! 陛下は日の本の種を繋ぐ、現人神(あらひとがみ)にございますぞ!」


 使者が、ガタガタと震えながら声を絞り出すと、ナガは冷たく笑い、常に影のように従う巨漢・弥助を傍らに引き寄せた。



「神だと? 弥助に聞け。日の本の外には、これよりも遥かに古く、強大なる王の墓がいくらでもある。


 余は、堺の森の奥で確かに見たのだ。其の方らの祖が、どこから舟を出してこの島へ流れ着いたか、その剥き出しの証拠をな!!」



 ナガは使者を真っ直ぐに睨みつけ、地を這うような低い声で冷酷な嘲笑を浴びせた。



「左の目を洗った瞬間に産まれた? 何がだ!


 太陽神(アマノラス)だと? クク、笑わせるなッ! 


 女子(おなご)の胎内から血を流し、泥にまみれて産まれる民を『汚れた存在』と見下しておるのか?


 其の方らは、男の目から産まれた綺麗で高貴な神の末裔だと、千年も民を騙し、その椅子に座り続けてきたわけだ!


 正気の沙汰にも程があろうぞ!! 


 サカイ社の地下を見よ! 舟で流れ着き、光る皿(オーパーツ)で民を惑わした、ただの始祖(ヒト)である、剥き出しの無惨な死体がそこにあるではないか!!」



 ナガは、ゆっくりと立ち上がると、使者の目の前で、南蛮より渡来した世界地図を、片足で激しく踏みつけた。



「この大地の広さを見よ! 日の本など、果てなき海に浮かぶ一粒の粟(あわ)に過ぎん!


 嘘で塗り固めた神話の時代は、比叡山の煙と共に消え去った。


 次は御所の番ぞ。陛下には、穏やかな隠居所を用意してやるわ。


──その座から、降りなさい。お辞めなさい!!」




 それは、千年の禁忌を粉砕する魔王の宣告であった。



「これからは『神』ではなく、『人』として、余の敷いた理(ことわり)の中で余生を過ごすが良い。


 神の衣を脱ぎ捨てて、ただの人間として幸福に生きよ!」



 神殺しの言葉を突きつけられた使者は、恐怖のあまり腰を抜かし、這うようにして広間から逃げ出していった。



 その光景を柱の影から見つめていた十兵衛は、己の心臓が音を立てて凍りつくのを聞いていた。



(な、ナガさんは、マジだ!


 始祖と云われる太陽神を撃ち落とし、そ(・)も(・)そ(・)も(・)を終わらせようとしてるんだ……


 あれは神への身勝手な怒りではないぞ。


 千年の嘘に縛られ、命を弄ばれる民を救おうと、めちゃくちゃ純粋すぎる人間への救済なんだ。


 でも、それを今、許せばどうなるんだ?


 日の本の形そのものが崩れ去っていくかもな……


 民は、拠り所である神を失い、ずっと暗黒の中で彷徨うことになるはずだ……)




──天正十年、五月──


 苦悩の淵にいた十兵衛の元に、晩廷の使者から一通の密勅が届けられた。


『ナガ、神の域を侵し、禁忌を暴かんとす。其方、十字架を背負う覚悟あるか』



「!!!……」


 激しい稲妻が十兵衛の脳天を突き刺した。



(たしか、ナガさんは……近々、京での所要のため、本能寺へ寄るはずだったな……)



 十兵衛の瞳から、一瞬にして迷いが消え失せる。


 彼は、千年の嘘の守護者として、自らの魂を売る決断を下した。



 一方、ナガは西のサルからの執拗な応援要請を受けていた。


 タヌキへの接待を終えたのち、備中高松の戦場へと向かうべく、京への進軍開始の準備をしていた。


 その胸中には、冷徹な勝利への確信があった。



「クク……先の使者ども、今頃は晩廷へ恐怖の報告をしておろうな。


 京の都で、その震え上がった顔を直々に拝んでやろうぞ。


 嘘で塗りつぶされた闇歴史を白日の下に晒し、完全に仕留めてやろうぞな」




──同じ頃、京の都、晩廷の奥深く。


 薄暗い御簾の向こうで、老いた公卿たちが冷ややかな目で盤面を見下ろしていた。



「ナガ、ついに一線を越えたか。あやつは『闇のサカイ社』の中身を、全て公にする気でおる」


「案ずるな。すでに十兵衛には種を蒔いてある。


 あやつは教養がありすぎるゆえ、この国の形が壊れることを我ら以上に恐れておるのだ。


 十兵衛に『掃除』をさせよ……」


「……しかし、その後の十兵衛はどうするのだ?」


「……すでに、西のサルに和睦の文を出してある。


 十兵衛にナガを討たせたのち、サルに十兵衛を討たせる。


 ナガの遺体は、十字架族に命じて永久に地底へと封印させるのだ。


 サルには天下という甘い蜜を舐めさせておけば、晩廷の秘密を暴くような危険な真似はすまい。


 こうして、また新しい千年の嘘が始まるのじゃ……」




:晩廷の傲慢な戯曲と十兵衛の十日間



──天正十年、五月四日、夜──



 三職推任を、ナガからの完全な反故により、安土城から泥まみれで京へと這い戻った使者の報告を受け、晩廷の奥深くは、底冷えのするような醜悪なパニックに包まれていた。



 陽光の届かぬ京都御所の最奥。


 薄暗い御簾の向こうから、金持ちを気取った、しかし酷く耳障りな「呪われた象徴」のような嫌らしい声が、十兵衛の鼓膜を不快に叩いた。



「いやはや、ナガという男は本当に下品で、救いようのない生意気な田舎者でおじゃりますわねえ。オホホホ!」



 扇子で口元を隠しながら、老いた公卿がねっとりとしたおぞましい口調で十兵衛を見下す。



「象徴様が直々に三職を与えて差し上げようと仰いましたのに、姿も見せずにシカトだなんて……


 あんな下賎な輩に神の衣を着せようとした、私たちが大間違いでおじゃりましたわ。


 あやつの椅子の床、さっさと踏み抜いて、底の底まで叩き落としてしまえばよろしくてわ?」



 十兵衛は床に深く平伏したまま、怒りと侮蔑で奥歯が割れんばかりに噛み締めていた。


(くッ! 相変わらずだな、そのムカつく声は……)



 だが、晩廷の言葉はさらにいやらしく、十兵衛のプライドを逆撫でする。



「十兵衛殿? あなた、明智家は教養のある名門だと自惚(うぬぼ)れておいででしょう?


 でしたら、お分かりになりまして?


 あやつはサカイ社の地下の『秘密』を日の本中にバラす気でおじゃる。


 そんな真似を許せば、この国が千年も守ってきた美しき秩序が、一瞬でガラクタになりますわ。


 そうね……ほら、あなたお得意の『茶番』で、お上品にナガの掃除をなさいな。


 これは、十字架族のあなたにしか出来ぬ、絶対の聖務でございますのよ? オホホホホ!」



 密勅。


 それは、愛する主君を殺せという、悪魔の戯曲ともいえるシナリオであった。



 安土城の自邸に戻った十兵衛を待っていたのは、地獄のような「十日間の猶予」であった。


 五月五日から、タヌキが安土城に到着する十五日までの間、十兵衛は部屋に引きこもり、血の涙を流し続ける。


 そして、ある一つの「シナリオ(脚本)」を決死の覚悟で練り上げていた。



(ナガさん……私は、あなたを討ちます。


 世界の形を、晩廷の嘘の揺り籠を守るために、あなたの首を跳ねるぞ。


 だが……ただの私利私欲の裏切者として、あなたを殺したくは無いんだ……!)



 十兵衛はガタガタと震える手で、筆を走らせる。



 大軍を、一万三千も動かすためには、世間が「十兵衛が謀反を起こすのも無理はない」と完璧に納得させなければならない。


 そんな、強烈な【動機】を今すぐ自作自演で作り出さねばならない。



(……タヌキ殿の接待の場か。ううむ……


 そこで、わざとナガさんが本気でブチ切れるような、致命的な不始末を仕込むか。


 そうか……わざと腐った魚を、諸大名の目の前で出すんだ。


 そうすれば、完璧主義のナガさんは、私の顔を形が崩れるまで殴り飛ばし、折檻するに違いないぞ……!)



 それは、下手をすれば謀反を起こす前に、ナガの怒りによってその場で首を跳ねられる、死線を彷徨うリスクしかない博打。



(ナガさん、どうか……私の命がけの狂言(ショー)に、本気で騙されてください。


 あなたに殴られ、泥水をすするその瞬間こそが、私の本能寺へのカウントダウンだ……!)



 十兵衛は、十日の間、一睡もせず、ただナガへの歪んだ愛と絶望だけを胸に、完璧な「ボコられ茶番劇」のシナリオを書き上げ、静かに微笑んだ。


 その瞳からは、乾いた血のような涙が、ポツリと床に落ちていた。




──天正十年、五月十五日、安土城── 



タヌキ饗応(きょうおう)の広間。



 それは、十兵衛が十日間寝ずに書き上げた悪魔のシナリオが、ついに現実の舞台へと放たれる運命の当日であった。



 長きにわたり明智家を、そして日の本を揺るがすことになる「タヌキ饗応」の舞台が、ここに幕を開けようとしていた。 



 表向きの名分は、長年、ナガ家の防波堤として武田の猛攻に耐え抜いたタヌキ。


 彼への、駿河拝領(サンキュー)を労う祝い。



──だが、その本質はまったく別のところにあった。 



 晩廷からの三職推任を反故にした直後のナガにとって、この大接待は「もはや朝廷の権威など不要。


 これからはナガ家とタヌキの武力同盟だけで新たな理(ことわり)を敷く」という、晩廷への冷酷なデモンストレーションに他ならなかった。



(タヌキよ……お主の功への褒美は、余の本心だ。


 しかしな、お主という存在、晩廷の阿呆どもへの牽制として利用させてもらうぞ……クク)



 ナガの脳裏に、わずか一ヶ月前、武田を滅ぼした帰路の道中に、タヌキや十兵衛と共に仰ぎ見た、あの雄大なる富士の白雪が鮮明に蘇る。


(かつての源頼朝(かまくらどの)が、あの富士の裾野で巻狩りを行い、己の天下を世に知らしめたようにな。 


 神の衣を剥ぎ取ったのち、余があの富士の山のように、揺るぎなき、強大なる新たな日の本の土台(システム)となってやろうぞ……!)




──広間にはタヌキをはじめ、ナガ家の重臣や諸大名がずらりと顔を揃えている。 



 そしてナガの背後には物言わぬ顔で佇む弥助と、相変わらずお上品な澄ました表情のクソガキ・蘭丸が並び、張り詰めた静寂が空間を支配していた。 



 一座の最前列(特等席)に座すタヌキは、笑みを浮かべながらも、その奥にある冷徹な目でナガの「神殺しの狂気」の熱量を、


 そして饗応役である十兵衛の動向をじっと値踏みしていた。 



 十兵衛は額を床に擦り付けながら、自らが用意した膳がナガの目の前に運ばれていくのを、心臓が破裂せんばかりの緊張の中でじっと見つめていた。


(──さあ、ナガさん、気づいてくれ……来いっ!)



 膳の上に載せられているのは、十兵衛が密かに仕込んだ、微かに異臭を放つ「腐った魚」である。



「ん? ……十兵衛よ」



 ナガの低く、地響きのような声が広間に響いた瞬間、十兵衛の背中に冷たい汗が噴き出した。


 ナガは膳を見下ろし、その目が一瞬にして、凍りつくような凶暴な光を宿す。



「何だ、この凄まじい悪臭は。……うぬは、我がナガ家の威信をかけたタヌキ殿の接待の席に、このような腐った生魚を出したというのかッ!」


(──き、来た。耐えろ、私……!)




 バァアアンッ!!



 ナガは怒りのあまり膳を激しく蹴り飛ばした。


 器が派手に砕け散り、広間に凄まじい怒号が轟く。



「この大莫迦者(ばかもの)がッ!


 貴様のような無能に接待を任せた私が間違いであったわ! ナガ家の面目に泥を塗る気かッ!!」



 ナガは激昂した鬼神の如き形相で立ち上がるや否や、平伏する十兵衛の髪を強引に掴み上げ、その顔面を容赦なく拳で殴り飛ばした。



 ズガッ……!!!



 激しい衝撃と共に、十兵衛の身体が畳の上を数畳分に渡り転がった。


 口内が裂け、真っ赤な鮮血が畳に飛び散る。


 だが、ナガの怒りは収まらない。



 ナガは十兵衛に歩み寄り、諸大名の目の前で、その背中や腹を何度も何度も、骨が軋むほどに激しく踏みつけ、折檻を続けた。



「無能めが! 今すぐ接待役を解任だ! 貴様の薄汚い顔など二度と見たくないわ!


 毛利攻めのサルの元へ援軍に行き、泥水をすすって死んでこいッ!」



「ぐ、う……っ! 申し訳……ございませぬ……っ!」



 十兵衛は畳に血の海を作りながら、何度も、何度も平伏して謝罪の言葉を絞り出した。


 周囲の大名たちの冷ややかな嘲笑と、憐れみの目線が十兵衛の全身に突き刺さる。



 そして、その背後に立つ蘭丸。


(クスッ……


 名門の明智様が、実にお見苦しいですね。


 タヌキ殿への大事な接待、それすらお上品に出来ぬとは、やはり形だけの無能だったというわけだね)


 鼻で笑う気配も、確かに感じ取っていた。



──だが、殴られ、蹴られ、床の血を舐めながら、十兵衛の胸の内(本音)は、狂おしいほどの歓喜に震えていた。



(……クク、ハハハ! 素晴らしい! 見事な怒りっぷりだ、ナガさん! スゴいぞッ!


 さすがは完璧主義の魔王だ、私の仕込んだ罠に、これ以上ない満点の狂暴さでハマってくれたな……!)



 下手をすればその場で首が飛んでいた死線を乗り越えた。


 これによって、諸大名の脳裏には「十兵衛は理不尽にボコボコにされ、プライドをズタズタにされた。謀反を起こすのも無理はない」という、完璧すぎる【怨恨の動機】が自然に植え付けられたのだ。


 だが……その一部始終を一座の最前列(特等席)で見つめるタヌキの目だけは、冷徹に細めているのである。



「……ふむ…………うむ」


 タヌキは腕組みしながら静観し終えると、一瞬だけ眉をピクリと跳ね上げた。


 そして組んだ両腕から右手だけをヌッと抜き上げて顎をスリスリしながら意味深に呟くのであった。



(これで……舞台は整った。ナガさん、あなたが死ねと言う通り、私は、サルと毛利の戦場へ向かいます。


 だが、それはフ(・)リ(・)だ。


 向かうと見せかけ、我が一万三千の兵と共に本能寺へ引き返します。……これぞ、世間を欺くための私の命がけの『茶番劇』だ……!)



 十兵衛は髪を振り乱し、顔を血で染めながら、自邸へと戻る道すがら、静かに、冷酷に微笑むのだった……


 タヌキの鋭い視線に一瞬ヒヤリとしながらも、十兵衛は自邸への帰路につく。



──天正十年、五月下旬──



 本能寺の変の直前、十兵衛が引き起こした「タヌキ接待のボコられ茶番劇」によって、明智家が不穏な空気に包まれていた頃。



 細川の屋敷の奥深く、陽光すらも届かない地下の冷たい一室に、タマは一人、幽閉されていた。



 ズダン……! と重い鉄格子の扉が開き、松明の灯りに照らされて現れたのは、夫の忠興であった。


 その手には、白刃が鈍く光る抜き身の刀が握られている。



「タマ。お前の父親が、安土城でナガ様にボコボコにされて泣き喚いたそうだな。一族の恥晒しめが!」



 忠興はクククと低く笑いながら、タマの美しい髪を強引に掴み上げ、その細い首筋に冷たい刃をピタリと押し当てた。



「お前は明智の血を引く『傷物』だ。汚れた裏切り者の娘だ。……だが安心しろ、わしはお前を殺しはせん。


 お前が絶望し、わしに泣きつき、わしの足元に平伏して縋(すが)るその顔が見たいのだからな」



 刃が微かに皮膚を擦り、一筋の赤い血がタマの鎖骨へと流れ落ちる。


 忠興はその血を見て、恍惚としたサイコパスの笑みを浮かべた。



「わしの出世のため、お前はここでジッと息を潜めていろ。キリシタンだのデウスだのという不気味な神に祈る真似をしてみろ、その時はこの屋敷ごと、お前を灰にしてやるからな」



 髪を掴まれ、首を刃で脅されながらも、タマの瞳から涙は一滴も溢れなかった。



 彼女はただ静かに、胸元に隠した小さな十字架を強く握りしめ、憐れみの目を夫へと向けた。



「殿……あなたは確かに大きな城をお守りですが、そのお心はあまりに狭く、醜うございます。


 私の拝むデウスは、あなたの信じ込んでいる『神の島』よりも、ずっと広く、誠実でございます。


 私をどれほど傷つけ、この暗闇の檻に閉じ込めようとも、私の魂まであなたの所有物(おもちゃ)には出来ませぬわ」



「黙れッ! 狂いおったか、この不気味な女めが!」



 激昂した忠興は、タマの顔を激しく殴り飛ばし、捨て台詞と共に扉を乱暴に閉めて去っていった。



 暗闇に取り残され、頬を腫らしながらも、タマは再び静かに立ち上がり、小さく微笑んだ。



(さあ……私は一足先に、この最低な男の檻から亡命する準備を始めましょう。


 官兵衛様……イエズス会のネットワークは、すでに整っておりますわね?)




:本能寺の灯と漆黒の未来



──天正十年、六月一日、夜──



愛宕山の麓、深い静寂が支配する軍列の中央で、十兵衛は馬上の人となり、吸い込まれそうなほどに漆黒の夜空を見上げていた。


 懐に忍ばせた、晩廷の使者から授かった十字の護符が、まるで彼の罪を咎めるかのように冷たく、深く、その胸を刺していた。



 十兵衛を信じ、世界の真実を、隠蔽されたサカイ社の地下を最初に見せてくれたのは、他でもないナガであった。


 人間の無限の可能性を誰よりも愛し、泥を走るような民の力を信じ抜いたのも、あの唯一無二のナガであった。


 しかし、そのナガが暴き出そうとした真実はあまりに鋭く、千年の秩序を保ってきた日の本を根底から滅ぼしかねない、猛毒の劇薬なのだ。



(私は、ナガさんを愛していた。いや、今も変わりはしないんだ……


 あの恐ろしくも美しい、人間が己の足で立つ世界を夢見た……御方を、誰よりも誇りに思っている……!)


 十兵衛はきつく瞼を閉じる。



(だが……これ以上ナガさんを歩ませれば、この国がすべて業火に燃える。


 神が死に、歴史が瓦解する。たとえそれが嘘の揺り籠(かご)であったとしても、まだ幼き日の本の民には、優しい眠りが必要なんだ。


 剥き出しの真実がもたらす、底冷えのする寒さに耐えられるほど、人は……人間は強くないんだ……!)



 胸を掻き毟るような絶望の果て、十兵衛の脳裏からすべての迷いが消え失せた。



(ナガさん、どうか……私を永遠に恨んでくれ。


 あなたの、壮大な夢を殺したこの大逆の業は、すべて、この私が地獄の底へと持っていきますよ……)



 十兵衛はゆっくりと、もう二度と引き返すことのできない、冷たい抜き身の刀を天に向けて突き上げた。


 その瞳から、決死の一筋の涙が溢れ、夜の闇へと静かに消えていく。


 激しい迷いのすべてを断ち切るように、十兵衛は腹の底からの咆哮を放ち、夜気を激しく震わせた。



「敵は、本能寺にありぃいッ!!」




──六月二日、未明の京都、本能寺──



 一万三千の明智の軍勢が、漆黒の夜を埋め尽くすように押し寄せた。


 白煙を上げる本能寺の周囲は、瞬く間に地獄の火の海へと化していった。


 その軍勢が本堂へ殺到したその時、蘭丸は血を吐きながら、裏切りの軍勢の前に立ちはだかっていた。



「なぜだ……? なぜ君のような臆病者が、ナガ様を裏切るんだ……ッ!」



 十兵衛の仕向けた圧倒的な武力の前に、蘭丸の自慢の知性も、美しい身体も、無残に切り裂かれていく。


 床に倒れ込み、燃え盛る炎を見上げながら、蘭丸の瞳から悔し涙が溢れ出た。



「ナガ様は私をいつも近くに置いてくださったのに……なぜ、あの人が見ていた世界の真実を、私は何一つ教えてもらえなかったんだ……ッ!


 ただの綺麗な人形で終わるなんて……私は、私は認めないぞ……ッ!」



 ナガは自分を信用してくれていなかったのだという、あまりに切ない誤解。


 ナガと十兵衛、そして弥助だけが共有していた巨大な世界の謎の前に、何も出来ずに置いていかれる圧倒的な無念。



 蘭丸は燃え盛る梁(うつばり)の下で、血の泡を吹きながら、その短すぎる生涯を、激しい悔恨の咆哮と共に閉じ、炎の中へと消えていった……




──数分後


 爆ぜる木々の音と兵たちの悲鳴が響き渡る中、ナガは燃え盛る本堂の最奥、崩れ落ちる御簾の前に泰然と座していた。



 彼は焦る素振りすら見せず、かつてサカイ社の地下から掘り出した、青銅器の歪な器に並々と酒を注ぎ、静かにそれを喉へと煽った。


 その背後には、漆黒の巨躯を揺らし、長大な槍を握りしめて最後まで付き従う未完成なる男──弥助の姿があった。




(……十兵衛くんよ。ついに余の首を取りに、その大罪の刃を向けにきたか。


 君は、神を殺して人間を解き放とうとする余の真の姿に……よほど怯えたと見えるな。


 やはり君は、人間に絶望しきれぬ優しき男ですね。


 表裏卑怯……ではないな。表裏比興(ひきょう)……か。クク、面白い男だ……な……)



 ナガは自嘲気味に笑い、手にした世界地図を燃え盛る炎の中へ投げ入れた。



「弥助よ、お前は生きろ。そして海を渡り、元の世界へ還れ。


 この日の本という小さな島国が、いかにして『美しき嘘』の上に成り立っていたか、誰にも語るな。


 ただ、余という男がそれを玩具にしようとしたことだけを、胸に秘めておけ」



「……ナガ様、私は、アナタの影。最後まで、共ニ」



 弥助の瞳に、炎の紅が反射して濡れていた。


 ナガは満足そうに頷くと、自らの腹に深く刃を突き立てた。



 ブシュンッ!!!



 半世紀に渡るナガの生涯……


 自らの天命を、自らの是非に昇華させ、最期の顔は、生涯最高に誇っていた。


 魔王の姿は、業火の彼方へと消え去った……



 本能寺が激しく燃え盛る中、ナガの遺体は、事前に配置されていた「十字架族」の手によって秘密の地下道から速やかに運び出される。


 そして、再びサカイ社(闇陵)の最奥へと運ばれていった。



──崩れゆく本能寺


 その中には、存(・)在(・)す(・)る(・)は(・)ず(・)のナガの遺体はおらず、存(・)在(・)す(・)る(・)は(・)ず(・)の(・)無(・)い(・)青銅器と、苦い煙だけが辺りを灰色に濁らせていた。



 ナガの、魂の呟きが、風と共に去ってゆく。



(十兵衛くん……君もまた、嘘を守る側に回るか。良いでしょう、余は真実と共に眠る。


 世界は広く、これほどに面白いというのに、君たちは未だ古き檻にしがみつくか。


 それが、抗えぬ余の天命と知る……とはな。是非に及ばず……か……)



 そののち、ほぼ焼け落ちた本能寺の前で、十兵衛は静かに佇んでいた。


 自ら下した決断の是非と、それでも愛した男への想いが交錯し、途方もない虚無感(きょむかん)が彼を襲う。


(……ナガさん、私は、これから……どうすれば……?


 うぐッ! もう、ナガさんは……いない)



 沸点を超えた感情は、もはや抑えつけることを許さなかった。



「ぐ……う、ぐぐ……ぐおおおおおぉぉぉぅ……!!」



 十兵衛の悲痛な咆哮が、まだ暗闇の空へと消えていった。




──本能寺が完全に崩壊し、夜が明けたのち



 黒煙が未だ立ち上る灰の海の中で、十兵衛は、兵たちが掘り起こした一具の亡骸の前に静かに歩み寄った。



 それは、激しい爆炎によって衣服も肌も炭化し、もはや名門の面影など塵(ちり)ほども残っていない、無惨に焼け焦げた死体であった。



 だが、その右手にきつく握りしめられた、血塗られた一本の刀だけが、かつてエリートコースをまっしぐらに突き進んでいた


「あの優等生」のものであったことを証明していた。



 十兵衛は、その炭化した死体を冷徹な瞳で見下ろし、低く、深く笑った。



(……フン、思い知ったか、クソガキが!)



 十兵衛の言葉には、敗者への哀れみなど微塵(みじん)もなかった。



「お前はあの時、襖の一枚をあざとく開け閉めして、ナガ様に『満点の回答』を出したつもりで悦(えつ)に浸っていたな。


 だがな、お前がチヤホヤされていたその完璧なエリートのレールなど、私の描いたこの本能寺という名の巨大な『茶番劇(ショー)』の前には、一晩で灰になるただの玩具に過ぎなかったのだ。


 ナガ様が、その身に宿した世界の真実の重みすら知らぬまま、綺麗な人形のままで死んでいけて、むしろ幸福だったな……」



 十兵衛はそう吐き捨てると、死体にはもう二度と視線を向けることなく、背を向けて歩き出した。



 千年の嘘を守るための生贄として、これから自分が背負う十字架の重さを噛み締めながら、十兵衛の背中は、朝焼けの灰色の光の中に溶けていくのだった──




:黄金の檻と、終わらない螺旋



 泥濘(ぬかるみ)の備中高松。


 戦況を覆す、一通の紙切れが闇に紛れて持ち込まれた。



 晩廷からサルの元へと届けられるはずだったその極秘の密書は、主の手に渡るより先に、一人の男の眼に触れていた。


 軍師・黒田官兵衛である。



 書状に並ぶ墨痕を見つめ、瞬時にその背後にある「巨大な図面」を察知した官兵衛は、音もなくサルの背後に歩み寄り、その耳元で昏(くら)い毒を注ぎ込むように囁いた。



「サル様……千載一遇の好機にございます。毛利とは、すでに晩廷の手引きによって和睦の筋が通っておりまする。


 小早川も、我らの背を追撃するような真似は絶対に致しませぬ。


 さあ、全軍を反転させ、山崎の地へ。


 フフ……その先には、関白の椅子が、大きく口を開けて待っておりまするぞ!!」



 信じがたい言葉を突きつけられたサルは、驚愕と興奮のあまり、全身をガタガタと震えさせながら引きつった笑いを浮かべた。



「……官兵衛、お前、どこまで知ってんねや。


 クク……まぁええか、あの恐るべき晩廷が、忠実な犬であったはずの十兵衛をも見捨てるとはな……」



──こうして、歴史に名高い『中国大返し』の幕が開いた。



 だが、それは戦国大名の執念による行軍などではなかった。


 晩廷と官兵衛、そして裏のネットワークによって完璧に整えられた、淀みのない「舞台劇」の進軍であった。



 大軍が駆け抜ける道中の町々では、不自然なほど手際よく給水所が設けられ、疲れ果てた馬を交換するための新鮮な駿馬が、まるで最初から用意されていたかのように並んでいる。



 だが……その狂気的な疾走の先頭を走るサルの心だけは、歓喜ではなく、あまりに出来過ぎたシナリオへの圧倒的な恐怖で震え狂っていた。



「官兵衛……! ワシらはホンマに、天の道を走っとるんやろな?


 そうやないなら、このまま地獄の深淵へ向かって落ちとるんか!?」



「どちらでも同じことにございますよ、サル様。……今さら止まれば、我らはただ死ぬだけでございます。


 行かねばなりませぬ! 走らねば、関白の座も、うぬ様の未来も、すべて一瞬で消え失せまするぞ!」



 軍師の酷薄な叱咤に、サルはただ前を向いて鞭を振るうしかなかった……




:覇王の敬意と割られた髑髏



──天正十年、六月──


 本能寺でナガを業火の渦に沈めた後。



 十兵衛は安土城に入り、次なる決戦の地である山崎へと向かう直前。


 かつてここ安土城で行われたある新年の強烈な出来事を、鮮明な記憶として脳裏に蘇らせていた。



──天正二年、正月──



 安土城の奥の間。



 天下布武の道程において、ナガが最も死を覚悟し、最も追いつめられた『ナガマサ・朝倉包囲網』が幕を閉じた最初の新年。



 広間の机の上に鎮座していたのは、金箔を厳かに塗られた、ナガマサ、久政親子、そして朝倉義景の三人の頭蓋骨であった。



 世間はこれを、魔王ナガの冷酷非道なる悪趣味、勝者の傲慢な宴のオブジェと噂し、恐怖に慄いた。


 だが……真実はまったくの逆であった。



「よいか、皆の者。この三人の男たちの顔を、死ぬまでその脳髄に焼き付けておけ」



 ナガは金箔に輝く三人の頭蓋骨を愛おしげに見つめ、広間に並ぶ重臣たちに向かって、低く、重々しい声を響かせた。



「これは見せしめではない。余を最も追いつめ、余の喉元に最も鋭い牙を突き立てた、気高き気概を持った強敵たちへの、最大級の敬意と礼節のカタチだ。



 この三人がおらねば、余の天下布武など、ただの傲慢な退屈で終わっておったわ。


 慢心を捨てよ! この三人の執念を忘れた瞬間、ナガ家の新時代は終わると思え」



 並み居る家臣たちが覇王の風格に平伏する中、部屋の隅でじっと座す十兵衛だけは、ナガのその孤独な合理性を誰よりも深く理解していた。


 十兵衛は、比叡山延暦寺の焼き打ちの裏で、主要な高僧たちを密かに晩廷の隠密ルートへと逃がし、歴史の裏のシステムを繋ぎ止めた張本人であったからだ。



 その夜、十兵衛は誰もいない広間に忍び込むと、金箔が塗られる前に密かに削り取っておいた、ナガマサの遺骨の小さき欠片を、白絹の布にそっと包み込んだ。


 近江の英雄──ナガマサ。


 その義心の尊さを、十兵衛もまた、心から愛してやまなかった。




──十兵衛は、ふっと懐かしむような穏やかな顔に戻りナガへの想いにしばらく浸っていた。


(ナガさん……私を恨んでますか? 私は弱き人間です。


 ナガさんを止める事が正しかったと……私自身に呪文のように問いかけ、胸に刻み込む事しか出来ない。


 私もナガさんのように止まれなくなったのかな……?)



 十兵衛は行き場のない彷徨う感情を、もうこの世にはいないナガへ向けて一人静かに想う。



「せめてナガマサ殿の魂だけは、愛する方の元へと迷わぬよう導いて差し上げたい」



 十兵衛は密かに一人の使いの者を動かしていた。


 行き先は、ナガの檻に囚われ、ナガマサ家の滅亡からずっと心を閉ざし続けている、ナガの妹・お市、そしてまだ幼き三姉妹(茶々、お初、お江)が身を寄せる奥御殿。


 使いの者は、十兵衛から託された白絹の包みを、静かにお市の前へと差し出した。



「……これは、明智十兵衛様からの預かり物にございます。


『あの正月の日、ナガ様が最大級の敬意を払ったナガマサ様の、魂の欠片にございます。お守りとして、どうか御身に』と」



 白絹を開いたお市は、そこに気高き夫の遺骨の一部を見た瞬間、ハッと息を呑んだ。


 彼女は一切の言葉を発しなかった。


 ただ、声も上げずに、大粒の涙をボタボタと白絹へと溢れ落とした。


 その涙は、十兵衛という男の、誰にも見せない底無しの優しさと『陰の義』への、無言の感謝であった。



 その後、十兵衛は安土を離れる際、ナガが宝物庫に大切に保管させていたナガマサら三人の黄金の頭蓋骨を密かに運び出させた。


 かつて自分が救った比叡山延暦寺の、静かな木々の根元へと深く、深く埋葬した。


 覇王が認め、愛した男たちの魂は、ようやく静寂の中へと還っていったのである。




──十兵衛は勘付いている。


 サルの異常な帰還スピードを。



「晩廷一族よ、私も駒の一部だと申すのだな。


 フッ、まるで千年の嘘の安(・)売(・)り(・)転(・)売(・)ときたもんよの。


 サルのヤツめ、私の屍を超えてゆくがよい! お前には、この重さに耐えれるほどの器はないッ!!」




:猿の狂言と泥濘の咆哮



──泥濘を叩く激しい雨の山崎



 晩廷の仕掛けた完璧なる罠に嵌まり、明智の軍勢は一瞬にして総崩れとなった。


 十兵衛はよろよろになりながらボタボタと血の滴る刀を杖代わりに、わずか数名の従者に囲まれ泥水の中に立ち尽くしていた。


 すでに満身創痍となった身体を容赦なく冷たい雨に濡らしながら、前方に現れた軍勢を見据える。



 その中央、勝者の下劣な笑みを浮かべて馬上から傲然と見下ろしていたのは──西のサルであった。



「サル……! お前も、あのサカイ社の石室を知る身でありながら……晩廷の犬に成り下がりおって!


 偽りの神話を、まだこの地に繋ぎ続けるというのか!」


(ハッキリ言って、お前如きには重すぎる! 絶対無理だ! そんな度量はない……)



 十兵衛の叫びは、内臓の血をすべて吐き出すかのように悲痛であった。


 だが、サルは下品な顔をクシャクシャに歪ませ、憎たらしくへらへらと笑い飛ばし、罵声を浴びせる。



「グケケケケッ! アァァン? ワイを誰や思てんねん、十兵衛ェ! キャンキャン吠えるなや、ワレェ。


 真実だの神の正体だの、そんな高尚なもん、ワイらみたいな泥を這うてきた猿にとってはな、一文の腹の足しにもならんのじゃ、ボケェ!」



 サルはそう言って、唾をペッと泥水へ吐き捨てた。



「ナガ様は確かに偉大な御方やった。


 せやけどな、あの人の夢はデカすぎて、ワイらみたいな凡人には寒気がするほど眩しすぎんねん。


 ええか! 十兵衛、この日の本という小さな島国はな、晩廷の作った『美しい嘘』と、ちょっとの贅沢を貪って、へらへら笑うとる猿が治めるくらいが、丁度ええ塩梅(あんばい)やねん!」



 サルの剥き出しの俗物根性と、ギラギラとした天下への野心が、激しい雨の音に混ざり合って十兵衛の脳髄を打つ。



「お前はな、晩廷のお偉いさんが書いたマニュアル通りに、綺麗な掃除を終えただけの操り人形や。


 ようやった、合格や! せやけどな、もう用済みやねん!


 大人しく、これから始まる新しい千年の嘘の、哀れな生贄(いけにえ)になって死んでくれやぁあああッ!!」



 サルのその冷酷な号令と共に、背後のサルの軍勢が一斉に十兵衛めがけて殺到する。



「ククク……! 関白の椅子が、ワイを呼んどるわ!


 晩廷のジジババどもめ、ワイに天下をくれるんやったら、なんぼでもその『嘘の片棒』担いだるがな!


 金を残して、美味い酒飲んで、天下人として死ねたらそれで大満足や!」



 勝鬨(かちどき)を上げるサルの醜悪な笑い声を背中で聞きながら、十兵衛は泥水をすする。



(サル……お前は確かに、この時代の、とりあえず勝者かもしれん。


 だがな、お前のような下劣な男に、ナガさんが命をかけて暴こうとしたこの世界を、ただの『おもちゃ』にさせるわけにはいかない……!


 お前は、嘘の継承者だ!!)



 数名の従者が十兵衛の前に立ちはだかり盾になると、十兵衛は最後の力を振り絞り、追手の槍をかいくぐりながら、小栗栖の鬱蒼とした竹藪の闇へと姿を消していった。


 その背中を、激しい山崎の雨が、すべてを覆い隠すように白く煙らせていた……




──従者達の懸命な盾により、その場から逃がされ泥にまみれ己の血を流しながら、十兵衛は息を切らして必死に逃げ延びていた。


 背後からは、追手の容赦ない足音がひたひたと迫っている。



「くそ……ここまで、か……」



 限界を迎えた十兵衛は、一本の巨木の根元に崩れるように倒れ込んだ。


 震える懐から取り出したのは、あの本能寺の炎の中から、辛うじて拾い上げた青銅器の小さな破片であった。



(ナガさん、私は……この国と、この国の民を、優しさで守ったのかな……?


 それとも、ただ、剥き出しの真実から臆病に目を背けただけなのか……?)



 泥と血に汚れた己の手のひらを見つめながら、十兵衛の脳裏に、かつて比叡山の燃える夜、襤褸を纏ったあの若者から言われた言葉の残響が蘇っていた。



『お主も、今日から我らと同じ、秘密を背負う十字架族の一員となったわけだ』



「フッ……。真に重きは、命などではなく……この『嘘』という名の、目に見えぬ十字架であったな……


 ナガさん? サルには吠えたが、私にも重すぎたのかな……?」



 十兵衛は静かに、すべての光を拒むように目を閉じた。


 そして、その身体はピクリとも動かなくなった。



──十兵衛の死!?



 世間がそう信じ込んだその瞬間、サカイ社の地下に眠る超古代の秘密も、渡来の真実も、すべては美しき嘘の底へと再び埋没していった。



 だが、これが「終わり」ではない。


 晩廷の隠密たちの手が、静かにその肉体へと伸びていた。



 比叡山の暗黒の地下で、名前を奪われ、姿を変えられた男が、「天海」という名の呪いとなって地上に這い上がってくるその日まで、千年の嘘は、不気味な静寂を保ち続けるのである。




──細川の屋敷の奥深く。



幽閉の地へと移されるタマを、夫である忠興は冷たく突き放した。



「傷物の娘めが。本来ならば生かしてはおけぬ筋合いだが、亡きナガ様とのこれまでの縁ゆえ、特別に命だけは救ってやる。


 わしのこれからの出世を邪魔するなよ」



 タマは静かに胸元の十字架を握りしめ、冷酷な夫を、憐れむような瞳で見つめ返した。



「殿……あなたは、確かに立派な城をお守りですが……


 その礎は、やはり真っ赤な嘘で固められておりますわ。


 私の拝むデウスは、あなたの信じ込んでいる『神の島』よりも、ずっと広く、誠実でございます。


 何度でも、何度でも言いますわ」



「黙れ! 相も変わらず狂いおったままのキリシタンめが」



 忠興の罵声を背に、タマは静かに、雨雲の垂れ込める空の彼方を見上げた。



(官兵衛様……私は一足先に、この檻から抜け出しますわ。


 いずれは、あなたも悟るでしょう。嘘の上に築いた天下など、ただの砂の城に過ぎぬということを……)




──天正十五年──



 サルの天下を決定づける、大規模な『九州平定』が終わりを迎えた頃のことである。


 南九州の雄として武力を誇った島津家であったが、サルの繰り出した二十万の圧倒的な大軍の前に、ついに力尽きて泰平寺にて全面降伏を余儀なくされた。



──大坂城の広間。


 サルは、漆黒の毛皮を敷いた椅子にふんぞり返り、生首を値踏みするような下衆な笑みを浮かべていた。



「グケケケッ……!


 島津の薩摩隼人どもめ、ワイの軍勢を散々手こずらせやがって。あいつら、生かしといたら絶対にいつかまた牙剥いてきよるわ。


 官兵衛、島津の一族郎党、一匹残らず『根切り(滅亡)』や! 


 薩摩の大地を血で真っ赤に染め上げたれ!」



 サルのその冷酷な大量虐殺の命令が下されようとした、その刹那。



「おやめなされ、サル様ッ!!」



 広間の襖を激しく開けて割って入ってきたのは、サルの正室・ねねであった。


 彼女の瞳には、かつてナガが焼き払おうとした世界の嘘を守るためではない。


 ただ「これ以上、無駄な命が失われるのを見たくない」という、母のような純粋な慈愛の涙が光っていた。



「ね、ねね!? お前、何しにきとんねん! これは戦の戦後処理や、女が口を出すな!」



「口を出しますッ! 島津の武者たちは、ただ自らの故郷と誇りを守るために必死に戦っただけ。


 彼らを根切りにすれば、薩摩の民の怨念は千年も消えず、あなたの豊臣の天下はいずれその血の海に沈みまするぞ!


 お願いでございます、島津の領地を安堵し、彼らを許してやってくだされ……!」



 ねねはサルの前に激しく平伏し、床に額を叩きつけて涙ながらに懇願した。


 サルの傲慢な妄執を力ずくで引き留められるのは、日の本で唯一、このねねだけであった。



「……チッ、しゃあないな。ねねがそこまで言うんやったら、命だけは助けたるわ。薩摩と大隅の領地もそのまま安堵や。


 その代わり、ワイに一生這いつくばって忠義を尽くせと御所に伝えぃ!」



──こうして、島津家は滅亡の危機を、間一髪のところでねねの『涙の助命』によって救われたのである。



 剃髪して降伏した島津の首脳陣は、大坂城の影でねねに向かって深く深く平伏し、その骨の髄まで消えない感謝の念を刻み込んだ。



「ねね様……この受けた大恩、島津の命がある限り、未来永劫忘れることはございませぬ。


 いつか豊臣が危機に瀕したその時は、我ら薩摩隼人が、命に代えてもあなた様をお守りいたします……!」


 九州平定を終えたのち晩廷から『天下人』の甘き蜜を与えられたサルは、瞬く間に日の本の頂点へと駆け上がっていった。



 だが、そのサルの築いた「豊臣の黄金期」とは、きらびやかな金箔で塗り固められた、血匂い立つ地獄の檻に他ならなかった。



「オホホ、サル殿。さすがは私どもの忠実な犬でございますわねえ。


 ナガが暴こうとしたサカイ社の秘密を完璧に覆い隠すための『檻』、じつに手際よく作ってくださって、よろしくてよ?」



 京都御所の最奥で、晩廷の公卿たちが下劣に笑う。


 サルはその足元に這いつくばり、いつものように下品にへらへらと応じた。



「ジジババ、安心しなはれ! ワイはナガ様みたいに『人間への愛』だの『真実』だのいう、腹の膨れん綺麗事は大嫌いねん。


 阿呆どもが二度と晩廷の嘘を暴こうなんて牙を持てんよう、根こそぎ奪い尽くしたるがな!」



 そうして始まったのが、日の本の歴史を欺く二つの大いなる非道


『太閤検地』と『刀狩り』であった。



「検地」とは、土地の豊かさを測るものなどでは決してない。


 民が隠し持つ富を一合の米に至るまで完全にハッキングし、京都の晩廷へと「黄金の滝」のように吸い上げるための冷酷な財産剥奪システムであった。



「刀狩り」とは、平和のためなどという美しい建前を被せた、最悪の牙抜きであった。


 民から刀や槍を、すなわち「おかしな世界の嘘の血族に対して立ち上がる力」を完璧に奪い去り、ただ贅沢を貪るサルの家畜へと変えるための非道であった。



 だが、嘘の上に築いたサルの栄華は、彼自身の老いと共に、救いようのない狂気へと変貌していく。




:サルの執着と檻を受け入れた雛(ひな)



──数年後、大坂城



 若い側室・茶々との間に、奇跡的に我が子(秀頼)が誕生した。



 かつて、ナガマサが自害し、お市と共に尾張の地で影の護衛に守られながら育った三人の娘たち。


 その長女である茶々が、美しき大人の女性へと成長した頃、天下人となったサルの執念深い目が、ついに彼女を捉えた。



「おい、官兵衛……! ワイはな、どうしてもあの茶々をワイの側室に迎えたいんや。


 ナガ様が誰よりも信頼し、お市様が愛したあのナガマサの血。


 それをワイのこの手で『所有』して、初めてワイはナガ様を超えて本当の天下人になれる気がすんねんわ! 


 ワイの愛に応えてくれへんかったお市様によう似て、べっぴんさんになりおったしな」



 大坂城の奥で、サルは下品な顔をギラギラと輝かせ、欲望を剥き出しにした。



「おやめなされ、サル様。彼女はナガ家とナガマサ家の誇り高き血筋。力ずくで檻に入れれば、その牙であなた様の喉元を食い破るやもしれませぬぞ」



 官兵衛が冷酷に忠告するが、一度火がついたサルの俗物根性は誰にも止められなかった。


 サルは膨大な黄金と、豊臣の権力を背景に、執拗なまでの名分を弄して茶々を大坂城へと召し抱えた。



 そして、サルは夢にも思っていなかった。


 大坂城の黄金の檻に自ら歩いて入ってきた茶々の瞳の奥に、ナガマサ譲りの「真っ直ぐな義」ではなく、伯父であるナガと同じ、世界を冷徹に見下ろす「魔王の光」が宿っていることを。



 そして、輿(こし)入れの夜。


 きらびやかな打掛を纏った茶々は、下劣な笑顔で自分を撫で回そうとするサルの前で、一切の表情を崩さず、静かに、しかし冷たく言い放った。



「サル様。私はあなたの側室(おもちゃ)になりましょう。


 あなたの築いたこの黄金の城で、あなたの望むままに豊臣の種を宿して差し上げますわ」



「おお! そうか、茶々! ワイの言うことを聞いてくれるか!」


 サルは歓喜して引きつった笑いを浮かべた。


 しかし、茶々が心の中で見つめていたのは、目の前の醜悪な野生の猿ではなく、京都の晩廷のジジババどもの姿であった。



(笑うが良いわ、サル様。あなたは自分の実力で天下を獲ったと自惚(うぬぼ)れているが、その実は晩廷の老人たちに献金を絞り取られるための『ただの金づるの操り人形』に過ぎない。


 私は……あなたのその傲慢な妄執を、誰よりも近くで利用してあげる)



 茶々は、自ら「若い側室」という名の呪いの衣を纏い、サルの檻を逆に自分の戦場へと変えた。


 彼女のその冷徹な『表裏』の覚悟を知る者は、まだ誰もいなかった。



 そして、この歪んだ婚姻ののち、大坂城に「あの奇跡の我が子(秀頼)」が誕生し、サルの老いた狂気が一気に暴走を始めるのである……



 サルの瞳から一瞬にして人間の理性が消え失せた。


 サルの脳裏を支配したのは、「自分が死んだ後、我が子から天下を奪う者は一匹残らず皆殺しにする」という、獣の如き妄執(もうしゅう)であった。



「ワイの愛するガキに仇なす可能性が、ホンマに僅かでもある奴は、誰であれ生かしちゃおかんぞ……!


 関白の座を譲った甥の秀次も、その嫁も、まだ幼いガキらも、全員の首をハネて泥に捨てぇい!!」



 大坂の三条河原は、サルの命(めい)によって流された一族の血で真っ赤に染まった。


 罪もなき幼子や側室たち三十余名が、泣き叫びながら次々と首を落とされ、その遺体は一つの巨大な穴へゴミのように投げ捨てられた。


 民はサルのその残虐非道っぷりに、夜な夜な震え上がった。



 サルの狂気は、ついに日の本の海をも超える。



「日の本の大地だけでは物足りんわ! 海の向こうの明国も、朝鮮も、全部ワイの、ワイの子供のもんやぁあ!!」



 大義名分など一切ない、泥沼の『朝鮮出兵』。


サルの私欲のためだけに、何万人もの日本の兵たちが異国の冷たい泥の戦場へと送り込まれた。


 連日連夜、飢えと病、そこで繰り広げられる終わりなき殺し合いの中で、兵たちの死体が山のように積み上がっていく。



 その最前線で、血と泥にまみれて戦い続けていたのは、サルの子飼い衆に代表される、加藤清正や福島正則らであった。



「クソッ……! なぜ我らは、こんな地獄の戦場で無駄な血を流し続けねばならんのだ……!」



 異国の地で爪を剥がし、仲間を失い、精神を病んでいく子飼い衆。


 彼らの胸の中には、大坂城の奥でぬくぬくと美味い酒を飲みながら命令を出すだけのサルへの、強烈な不満と憎悪がバチバチと音を立てて溜まっていた。



 このままでは、サルの牙が身内に向けられる…



 そのサルの最大の危機をいち早く察知し、都合よく捻じ曲げたのは、裏で糸を引く晩廷の公卿たちであった。



「オホホ、子飼いの犬どもがサル殿を恨み始めておりますわね。


 これはよろしくなくてよ? ……そうだわ、あいつらの怒りの矛先、全部、あの生真面目で融通の利かん『石田三成』に押し付けてしまえばよろしいですわ。


 三成に『補給の手配をわざと遅らせている冷酷な男』の役を演じさせなさいな」



 晩廷の描いた不快な台本通りに、大坂城の書類仕事をつかさどる三成の元へ、意図的に歪められた情報が流される。


 三成はただ豊臣の『義』に従い、規則通りに戦況を報告し、兵糧を管理していたに過ぎなかった。


 だが、前線の清正たちの目には、それが悪魔の仕業のように映るよう、徹底的に仕組まれていたのだ。



「あの三成の野郎……! 戦場にも出んくせに、大坂の奥で綺麗に立ち回りやがって!


 俺たちがこれほど苦しんでいる報告をサル様に握りつぶし、俺たちの手柄を泥に塗っているのは、あの横着な文官のせいに違いないッ!!」


「許さん……! 石田三成、あの融通の利かん大馬鹿野郎だけは、この手で八つ裂きにしてくれようぞッ!!」



 朝鮮の冷たい戦場で、清正や正則らが三成に向かって激しい呪詛(じゅそ)の声を轟かせる。



 本当の悪者は、自分たちを使い捨てているサルと晩廷であることにも気づかずに……



 三成はただ一人、世界のすべての嘘と子飼い衆の憎悪をその背に集められながら、後に「ひとり相撲」の大舞台へとハメられていくことになる……




──その後、天下を掌握したサルが敷いた、確固たる現実主義に基づく冷徹な政治は、民から徹底的に牙を奪い去り、諸国の富を容赦なく中央へと吸い上げていった。



 そうして集められた莫大な金銀は、さながら黄金の滝の如く京都御所へと流れ込み、困窮していた晩廷の塀を、より高く、より強固なものへと変えていった。


 剥き出しの真実を永遠に覆い隠すための、眩い黄金の檻が、ここに完成したのである。




:ナガ様の隠れ家と十字架族




 民から牙を奪い、一族を皆殺しにし、異国に何万もの死体の山を築いた悪徳の化身・サル。


 次なる世界への呪いを遺したまま、大坂城の奥で、苦しみ悶えながら下劣な生涯を閉じた──



 サルの直系の血は十数年ののち、大坂の陣で完璧に絶え果て、歴史から永遠に消去される運命を辿る。


 それを知る者は、まだ誰もいなかった。




──慶長三年──



 激動の時代を揺るがした、サル没後……



 京都御所の最奥、陽光の届かぬ薄暗い一室で、老いた公卿が静かに筆を走らせ、一通の文を認めていた。


 その顔には、醜悪なまでの安堵が浮かんでいる。



「ナガは闇に消え、サルは金を残した。十兵衛の件も順調に進んでおる……」



 その傍らで、不気味に佇む影が頷く。


「……左様。この地の下に何が眠っているか、未来永劫、誰も知ってはならぬ。


 我ら一族は、この『嘘』という名の重き十字架を、永久に背負い続けねばならぬのだ」




──それから、四百年余りの時が流れた、現代。



 御陵の外では、歴史の真実を何も知らない市民たちが、今日も、厳重に閉ざされた「サカイ社」の鉄柵に向かって、平穏な祈りの手を合わせていた。


 その足元に、何が眠っているかも知らずに。



 だが、忘れてはならない……。



 あなたの生きるその町の下、闇陵で、今もナガ様は眠り続ける。


【隠れ家】の暗闇の奥底で、静かにずっと待っています。



 神殺しの炎を宿し、じっと目を見開いたまま……



【十字架族】による、呪縛の渦の中で永久に。



──この衝撃のラストを知ったあなたはどうしますか……?



<第1章本能寺編・完>




<第2章への布石>



:武闘派の血と、ハッカーの涙



 慶長の役、泥濘(ぬかるみ)の戦後処理が続く、大坂城の一室。


 部屋を包む空気は、戦場の砂埃と男たちのドス黒い殺意で、爆発しそうなほどに張り詰めていた。



「……言い訳は、それだけか。三成」



 低く地を這うような声で吐き捨てたのは、福島正則であった。


 その背後には、黒田長政や加藤清正ら、異国の戦場で泥水をすすり、命を削って戦い抜いてきた武闘派子飼い衆の面々が、目を血走らせて三成を睨みつけている。



 彼らが命がけで手に入れた戦功の数々は、三成の放った冷徹な査定書によって、すべて『無恩賞・減封』という非情な数字へと書き換えられていた。



「正則。これはサル太閤殿下の絶対なる決定だ。


 現在の豊臣の蔵入地(財政)には、お前たちすべてに満足な恩賞を配るだけの金銀など、一文も残されてはいない。


 数字の帳尻を合わせるには、こうするしかなかったのだ」



 三成は表情一つ崩さぬまま、淡々と、しかし一点のブレもないストレートな声で答えた。



 そのあざといほどに冷徹な優等生の態度が、正則たちの怒りの沸点を一瞬で臨界突破させる。



「黙れぇッ!!」



 正則は怒号と共に畳を激しく蹴り上げ、三成の胸元をガシッと掴みあげた。


 巨躯から放たれる圧倒的な武の覇気が、三成の細い身体を激しく揺さぶる。



「帳尻だと!? お前はいつもそうだ! 俺たちが戦場でどれほどの血を流し、どれほどの戦友の首を拾ってきたか、そのお上品な机の上で、ただの数字として処理しやがって! 


 お前には、人間の血が通っていないのか、三成!!」



「……通っているさ。お前たちと同じ、豊臣を愛する血がな」



 三成は胸元を掴まれたまま、正則の目を真っ直ぐに見つめ返した。


 その双眸の奥にある『不純なき義心の光』は、微塵も濁ってはいない。



 だが、三成のその真っ直ぐすぎる瞳を見た長政が、自嘲気味に冷たく鼻で笑った。



「……もうよい、正則。手を離せ。


 こやつは最初から、サル様の飼い犬として、上からの図面を算盤勘定で実行しているだけの操り人形だ。


 俺たちの血の痛みなど、この天才官僚様には一生分かりはせんよ」



 正則は忌々しげに三成を突き放すと、背を向けて部屋を去ろうとした。


 その別れ際、吐き捨てるように冷たい言葉を残して。



「三成。お前のその曲がらない屁理屈が、いつか豊臣を根底からブチ壊す。


 俺たちはもう……お前の描く茶番劇には二度と乗らんぞ」



 バタンッ! と激しく戸が閉まり、静寂が戻った奥の間。



 一人残された三成の拳は、爪が肉に食い込むほどに強く、強く握り締められていた。



(……すまぬ。すまぬ、正則、長政。お前たちの流した血の価値など、私が一番分かっている。


 だが、こうして泥水をすすり、豊臣の財務官として悪名を背負わねば……この天下は一晩でタヌキに食い荒らされるのだ……!)



 三成の瞳から、ボタボタと大粒の熱い涙が畳へと溢れ落ちる。



 漢たちの絆が、豊臣という巨大なシステムの軋みの中で、残酷にボタンを掛け違えて引き裂かれていく。


 この泥沼の戦後処理の夜こそが、のちに関ヶ原で東軍と西軍に分かれて殺し合うこととなる、すべての『悲劇の悪戯』の始まりであったのだ……




:黄金の残像と暴君の失恋



──時計の針は、大坂城の泥沼の戦後処理の夜から、さらに十数年ほど過去へと遡る。


 それは、若き日の三成と子飼い衆たちが、まだ『豊臣』という名のひとつの家族として、最も眩しく笑い合っていた黄金の記憶。



──天正十一年──


 魔王・ナガが本能寺の業火で消え去ったのち、日の本の覇権は二つの巨頭へと引き裂かれていた。



 ナガ家の長老であり、北陸の与力(よりき)を束ねる絶対的な古参・柴田勝家。


 そして、山崎の戦いで十兵衛を討ち、凄まじい執念で成り上がってきたサル。



 両者が日の本の主導権を奪い合うのは、歴史の必然であった。



 だが、その対立を決定的な血の決戦(賤ヶ岳の戦い)へと引きずり込んだのは、サルが心底から異常なほどに執着した、一人の気高き絶世の美女──お市の方であった。



 お市の方は、かつてサルが「神」と崇め、そしてその野望について行けなくなった、ナガ家の血を引く、ナガの妹。


 そして、ナガの右腕であったあの優しき近江の英雄・ナガマサの妻であった。



 ナガ亡きあと、お市の方は三人の娘(茶々、お初、お江)を引き連れ、サルの歪んだ求愛を冷徹に拒絶すると、あえてサルの宿敵である柴田勝家のもとへと輿入れしたのだ。



「……なんでや? なんであの北陸の無骨な古狸の腕の中に飛び込むんや!


 ワイはこれほどの出世を遂げたんやで! 近江のサルから、日の本の天下人へとなって見せる男なんやぞ!!」



 広間で独り、サルは顔を真っ赤に沸騰させ、畳を血が出るほどに掻き毟って狂い吼えた。



 振られたのだ! 完璧に、完膚なきまでに。



 そのプライドの崩壊と激しい失恋のショックが、サルの脳髄を暴君へと覚醒させる最後の引き金となった。



「許さへんで……柴田勝家、ワレと一緒に、あのナガ家の誇り高い女を業火で焼き尽くしたるわ!!」



 そうして幕を開けたのが、賤ヶ岳の戦いであった。



 その戦場には、まだ若く、不純なき義心と情熱だけを抱いていた若き日の男たちの姿があった。



「ええい、引くな清正! 正則に先を越されるぞ!!」


「言われずとも分かっているわ、長政! 俺の槍が、東海の武の体幹を見せつけてやる!」



 福島正則、加藤清正、黒田長政ら、若き子飼い衆の武者たちが、戦場を一本の槍の如く激しく駆け抜ける。


 彼らの放つ突撃のキレ味は、柴田軍の防衛線を次々と粉砕していった。



 そして、前線で命を懸けて突っ込む彼らの背中を、後方の陣から必死に支えていたのが、若き日の三成であった。



「正則、右だ! 敵の伏兵がそちらの林に向かっている! 清正、そのまま真っ直ぐ突っ込め、兵糧の補給ルートは私が完璧に確保してある! 行けぇッ!!」



 三成の放つ正確な差配と、子飼い衆の圧倒的なフィジカルが完璧に噛み合い、彼らは『賤ヶ岳の七本槍』として天下にその名を轟かせる大勝利を掴み取った。



 戦の夜、篝火の揺らめく陣幕の中で、男たちは泥まみれの顔を見合わせて、ガハハ! と豪快に笑い合っていた。



「三成! お前のあのタイミングでの物資の差し入れ、最高に痺れたぞ!」



 正則が三成の細い肩をガシッと抱き寄せ、自らの酒杯を強引に三成の口元へ押し付ける。



「そうだぞ三成、お前のあの真っ直ぐなクソ真面目さ、俺は嫌いじゃないぜ」



 長政も笑い、三成の頭を大きな手のひらで撫で回した。



「……よせ、私はただ、サル殿下の指示通りに数字の管理をしただけだ」



 三成は照れくさそうに顔を背けたが、その瞳の奥には、同じ『家族』として命を預け合える友への、純粋な愛おしさが満ち溢れていた。



 彼らの友情は、間違いなくこの夜、世界の頂点で美しく沸騰していたのだ。



 だが、その勝利の絶頂の裏で、サルの心は完全に暗黒の闇へと沈んでいた。



 敗北した柴田勝家は、北ノ庄城の本丸に火を放ち、お市の方と共に自害して果てた。


 お市の方は、城を包むサルの軍勢を冷徹に見下ろし、最後までサルの手を掴むことを拒絶して、勝家と共に業火の檻の中へと笑顔で消え去った。



 焼け落ちた城の灰の中から、生き残ったナガマサ家の三姉妹(茶々、お初、お江)だけがサルの前に連れて来られた時、サルは生気を失った恐ろしい目で、彼女たちの血脈をじっと見つめていた。



「……お市。お前は死んでもワイを拒むんか? もうエエわ。


 お前らの、そのナガ家の血、ナガマサ家の血……ワイが豊臣というデカい檻の中に閉じ込めてな、未来永劫、都合よく献金だけを絞り取る泥沼のシステムにしてやるわ……!」



 このサルの失恋したショックの呪いこそが、のちに豊臣家を狂わせるすべての元凶となった。



 十数年後、あの泥沼の朝鮮出兵(慶長の役)が始まり、サルは老いさらばいた狂気の中で、子飼い衆たちを異国の戦場へ投げ捨て、血を流させ続けた。


 そして三成は、混迷を極めるサルの財政を支えるために、冷徹な管理者として友たちの戦功を削らざるを得なくなった。



「……お前には、人間の血が通っていないのか、三成!!」



 大坂城の一室で、正則の怒号が再び響き渡る。



 あの賤ヶ岳の夜、肩を組んで笑い合い、三成の頭を優しく撫で回してくれた長政の温かい手のひらは、いまや冷酷に三成を突き放す刃へと変わっていた。



 あの眩しかった黄金の残像が、非情な国家システムの軋みの中で、残酷に引き裂かれていく。


 男たちがそれぞれの正義でボタンを掛け違い、殺し合うこととなる関ヶ原へと向かって、螺旋の歯車は音を立てて狂い出していく……

次章から【関ヶ原編】に突入します。


すぐに続きをどうぞm(_ _)m

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。