第八話
「いぃぃぃやぁぁぁぁっっ!!!」
フランソワ侯爵家の屋敷に絹を裂いたような悲鳴が響き渡った。
「誰かっ!
誰か早く来なさいっっ!!」
「奥様っ!何が有ったので……きゃっっ?!」
ナルシッサの悲鳴を聞いた侍女が驚き、ノックも忘れて扉を開けば、小さな悲鳴をあげてしまう。
「痛いっっ……何をするのっ?!
この無礼者っっ!!」
侍女が手に持っていたトレーの上に有ったスプーンが、勢いよくナルシッサ目掛けて飛んで行ったのだ。
「申し訳ございません……!
で、ですが……その、スプーンが勝手に……!」
侍女の持っていたトレーの上には、ナルシッサが毎朝起床時に持ってくるように命令しているティーセット。
「意味がわからないことを言うんじゃないわよっっ!」
「ひっ……」
ヒステリックに叫んだナルシッサ。
怒りのままに投げた水差しが、侍女の横の壁に大きな音を立てて打つかり、砕けた。
「どうして寝て起きただけなのにっ!
私に向かって物が飛んでくるのよっっ?!」
頭を掻き毟り、目を血走らせたナルシッサが、衝動のままにベッドサイドのローテーブルを蹴り倒す。
「体に引っ付いて離れないしっ!
こんな姿では気分転換の買い物も出来ないじゃないっっ!!!」
何もかもが上手くいかない。
ナルシッサの大嫌いな女の血を継いだ小娘も見付からない……!
あの女が死んだから、小娘を甚振って気分を晴らすつもりだったのにっっ!!
「(いつもいつもいつもいつもいつも!!
私が欲しいものは全部あの女が持っていて!
社交界での注目は、あの女の方が上だった!
狙っていた男は、あの女の方が好きだという!!)」
だから……あの女の夫を誘惑したというのに!
あの女の持っているものを奪うためだけに、好みでも無い男と寝たというのにっ!!
「……っ……!」
ナルシッサは淀んだ瞳で、ガリガリと爪を噛む。
「…………ぃ……っ……」
その狂気に当てられた侍女が腰を抜かして、へたり込む。
外で事の成り行きを伺っている使用人たちも、巻き込まれたくなくて部屋に入らない。
「……奥様、失礼します」
開いたままだった扉から、静かな声が聞こえた。
「お前は下がりなさい」
ナルシッサの寝室へと入って来たのは、年嵩の執事ジョナサンだった。
ジョナサンは怯えきって動けない侍女の腕を掴み、寝室の外へと引きずり出した。
「……役立たずの年寄りが何の用かしら?」
ナルシッサは、この年嵩の執事が大嫌いだった。
亡き夫グランジスの信頼厚く、ナルシッサが買い物をしようとしても妨害する。
ナルシッサの可愛い一人娘であり、未来の王妃になるリリアーナの些細な我が儘を許さなかった。
間違うはずのない優秀なリリアーナを責めるような家庭教師を準備して、その肩を持つことすら有った。
だからこそ!
グランジスが死んだあと、すぐに執事長から外し、使用人の序列の最下位として扱えと命じてやったのだ。
「役立たずな年寄りから、最後の忠告でございます」
「あら、やっと辞める気になったのね」
「はい。
私は、フランソワ侯爵家に仕えておりました。
しかし、もうフランソワ侯爵家の行く末は見えました。
そして……恐らくは、この国も…………」
目元を隠す白い眉毛の影で、ジョナサンの瞳が悲しそうに翳る。
……ジョナサンが執事として長年仕えたフランソワ侯爵家。
このナルシッサという女狐に誑かされるような人が良すぎる男を、入婿に迎えるべきではなかったのかもしれない。
「(……人柄が良いだけでは、貴族は務まりませんね……)」
ジョナサンの考えが正しければ、正統なる血筋の持ち主であるミリアンナお嬢様の安全は確約されている。
「奥様、このフランソワ侯爵領には、口伝で伝えられる物語がございます。」
「は?」
何を言い出すんだ、この耄碌爺は。
そんな声が聞こえそうなナルシッサの表情に、ジョナサンは微かに笑ってしまう。
「百五十年以上は昔のこと。
当時、この国は雷が常に鳴り響き、落雷の無い日は無かったそうです。
そんな状況を憂いた国王の命令で選抜された貴族達が、雷を司る精霊様に謁見を求めた。」
「…………」
「そして、その貴族の中よりフランソワ侯爵家当主を精霊様がお気に召し、雷は止みました。
だからこそ、この国に於いてフランソワ侯爵家は国王陛下も一目を置く特別な貴族となったのです。」
「それが、何だというの?
精霊様の契約が本当に有るのだとすれば、私の可愛いリリアーナが引き継ぎ、王家の血筋へと差し上げれば良いだけのこと。」
お伽噺などくだらない。
確かに、精霊は居るだろう。
それは、この世界の常識だ。
だが、その精霊と契約できる人間は一握り。
大国ならばまだしも、小さな国に精霊と契約した人間などいない。
居たとすれば、その契約した人間の血筋全てを王家で囲うだろう。
「精霊様が求めているのはフランソワの名前を与えられただけの人間ではありませぬ。
正しくフランソワの血を受け継ぐ人間だけ。」
不愉快そうに顔を歪めるナルシッサを、ジョナサンは冷たく見据える。
「その血を絶やそうと、害そうとする輩に精霊様は大層お怒りなのでしょう。
……奥様は、すでにその片鱗をお受けになられていらっしゃる」
「っ……この状況は、精霊様の所為だというのっっ?!
ならば、その精霊とやらを連れて来なさいっ!
私が直々に会ってやれば、リリアーナの素晴らしさを説けば、すぐにあんな小娘など捨てるにきま……ひっ?!」
身を乗り出して叫ぶナルシッサの部屋に轟音が轟き、落ちた。
「ひっ……ひ……」
声にならない悲鳴を上げて、ナルシッサの怯えた視線が室内を見渡す。
「な……なん、で……」
ナルシッサの寝台の直ぐ側に開いた穴と焦げた匂い。
雷が落ちたとしか思えない様子に、室内に沈黙が広がる。
「…………」
怯えるナルシッサを横目に見て、ジョナサンはすぐに視線を逸らし、踵を返す。
ジョナサンは、背後で泣き喚く女の甲高い声を受けつつも、振り返ることはしない。
「……大奥様、奥様、ミリアンナお嬢様。
最後まで御守りできず、申し訳御座いませんでした。」
静かな廊下の窓の外。
微かに見えた気がした不可視の東屋。
「……年を取ると、涙脆くなっていけませんね」
静かに逸らした窓の外で、藍色の髪の少女が笑った気がしたのだった。




