3-10 大正宵闇恋歌現世変身(たいしょうよいやみれんかうつしよのかわりみ)
高校二年生の遠山せなは、下校途中にトラック事故に遭い、気づくと読んだことのある和風ファンタジー小説「大正宵闇恋歌」のヒロイン・神農瀬奈に転生していた。原作知識でシナリオ通りに生き延びるつもりが、序盤から展開がおかしい。現れたのはヒーローではなく、ラスボスの月白透真。思わず「私に運命を預けてみませんか」と口走った瀬奈は、透真を悪の道へ向かわせないため、彼の手助けをすることにする。しかし、原作の強制力は思った以上に根深く、何ひとつ思い通りには進まない。前世では世の中を斜めから眺めてきた瀬奈は、大正の世を生き抜く中で次第に自分自身を問い直し、やがて透真との距離も変わっていく。何も知らなかった少女が、誰かのために本気になる大正転生ロマンス。
寒さで目が覚めた。遠くで鶏が鳴き、夜明けを告げる白い光と骨の髄まで染み込む隙間風で我に返る。気づくと私は、薄い板を打ちつけただけの六畳一間のあばらやに、紙のような布団を被って横たわっていた。
一体どういうこと? さっきまで学校からの帰り道を歩いていたはずなのに。慌てて飛び起き、紙のようなものに触れる。これは――歴史の資料集でしか見たことのない行灯だ。
(確か、バルザックを読みながら横断歩道を渡っていたら、大型トラックが――)
この景色はなぜか見覚えある。いや、読んだことがあると言った方が適切か。友人でもないのにやたら絡んでくるあの鈍臭い子――橋本夕美が貸してくれた、和風ファンタジーのライトノベル。確か漢字だらけのタイトル……
「大正宵闇恋歌!」
誰もいない空間で一人叫ぶ。その瞬間、大量の水が押し寄せるように、他人の記憶が脳内に入ってきた。
神代から皇を守護する役割を担う神農家。その本家の跡取り娘として、私、神農瀬奈は生まれた。しかし、三年前の十五歳の時、神下ろしの舞に失敗してから全てがおかしくなった。母は悲嘆に暮れたまま亡くなり、父は腹違いの妹、彩奈を後継に据える。私は家から追い出されたものの、行く当てがないので、母屋から離れたこの小屋で寝泊まりしつつ、下働きとしてこき使われる日々……
はっ、今「私」って言った? 私は高校二年生の遠山せなのはず、でもせなはトラックに轢かれ……
だんだん事情が飲み込めてきて血の気が引く。死んでも認めたくないが、私は「大正宵闇恋歌」のヒロイン、神農瀬奈に転生したらしい! いや、もう死んでるのか!
私は慌てて枕元の手鏡をつかんだ。鏡に映る顔はひどくやつれ、肌にはハリもツヤもなく、髪はところどころほつれている。おまけに、高校の制服を着ていたはずが、継ぎだらけでペラペラの着物姿……瀬奈だ。挿絵よりもひどい状態に思える。
「冗談じゃない!」
私は誰もいない空間に向かって一人叫んだ。こんな理不尽があってたまるものか!
教室で一人ドストエフスキーを読む私に「読書が趣味なの? 私も!」と夕美が声をかけたのがきっかけだった。それで貸してきたのがこの本。「せなちゃんと名前が一緒なんだよ」とか言いながら。
殊勝にも私は読んでやった。テンプレのご都合主義展開。過酷な運命を変えようともせず不幸に酔いしれるだけのヒロインが実はすごい異能持ちで、軍人のヒーローに見初められて溺愛される。本人は何もしてないのに、イケメンにちやほやされて、自分をいじめた愚かな敵は勝手に自滅してくれる。夕美はこんなものが好きなのか。バッカみたい!
『せなちゃん読んでくれたんだ! どうだった?』
『うーん……挿し絵が綺麗だったかな』
『やっぱり!? 人気の絵師さんなんだよ! そこに気づくとはさすが』
他に褒めるところがないから挿し絵に言及しただけなのに、夕美は、真面目に受け取っていた。
確か原作では、この後、ヒーローの春彦が助けてくれるはずだ。それなら私はここで待っていればいいんじゃない? 原作の通りなら、この後何が起こるか予想がつくが……
思った通り、数分後表の木戸がけたたましく叩かれた。
「何やってんだい! お天道様はとっくに出てるんだよ!」
女中のお加代だ。木戸には一応つっかえ棒をしてるが、少し力を込めて引っ張れば簡単に開いてしまう。ただでさえ寒いこの空間に、凍るような風がぴゅうっと入ってきて、私は思わず身を縮めた。
「のんきに寝坊なんざいいご身分だね、さっさと持ち場へお行き! 今日は飯は抜きだよ!」
お加代は土間に上がりこんでわめき散らした。自分より弱いものにしか強く出られないつまらない小物。ゾンビ映画なら真っ先にやられる役に違いない。私はそんなことを頭の片隅で考えながら、このみすぼらしい中年女を一瞥した。
「!」
お加代がびくっとして身をよじらせる。あれ? これでいいんだっけ? 私は首をひねった。原作では、確か……
(間違えた……)
本当は、ここは手をついて「すいません!」と謝る場面だ。瀬奈は反論もせずに平謝りする。どうせこの手の輩は、どんなことにも難癖付けるから、下手に出たって無駄なのに。スカートじゃなくスラックスを選択した私を陰で笑ったクラスメートとお加代は同類だ。
そんな気持ちがつい顔に出たのだろう。お加代は、私の様子がいつもと違うのを察したらしい。私も予想外の展開に冷や汗をかく羽目になった。お加代に屈するのは癪だが、かと言って、変な動きをしたらシナリオが狂ってしまう。そしたら、原作を知っているメリットもなくなってしまう。
そう考えたが後の祭り。お加代は、言葉に詰まる私を見て気を取り直したのか、不細工な顔を醜く歪めてこう言った。
「今日はずいぶん素直じゃないの。それなら、もっとかわいがってやろうかね。旦那様も、今や彩奈様にかかりきりで、あんたがどうなろうが知ったこっちゃない。悪い子は躾けないと」
頭が悪いくせに持って回ったような言い方をする。それでも、私は十分青ざめた。これは原作にないセリフだったからだ。原作から外れてしまったら、見知らぬ異世界に急に放り込まれた私は手も足も出ない。
どうしよう。今からでも謝った方がいいのか。でもそれはプライドが許さなかった。今はプライドとか言ってる場合じゃないのに。そう思いつつも体が動かない。しばらく双方睨み合ったままでいると、外から別の声が聞こえてきた。
「お取り込み中すまんが、朝から何やら騒がしいから来てみたら……若い娘さんが一人でこんな場所に? 一体どうなってんの?」
緊迫した状況に不釣り合いな、どこか間延びした声。ひょっこり顔を出した声の主を見た途端、私は全身が凍りついた。
(月白春彦……じゃない)
シナリオが違う。騒ぎを聞きつけて来るところまでは合っている。でも、今目の前にいるのは、瀬奈をかどわかし春彦を陥れようとするラスボス、月白透真だった。朝から濃紺の軍服姿で帯刀もしている。
春彦が黒髪の正統派イケメンならば、透真は、西洋風の顔立ちをした茶色がかった巻き毛の優男だ。おそらく、ヒーローと敵役で差別化を図ったのだろう。ライトノベルだけあって、主要キャラはみな美男美女だ。
私は思わず顔をしかめた。夕美に「他にどこが良かった?」としつこく聞かれ、強いて言うなら春彦より透真の方が好みかもと答えたのだった。首を傾げる夕美にこう説明した。
『でも、作中で努力したのそいつだけじゃん。瀬奈も春彦も天賦の才能に恵まれただけだけど、透真は、能無しと言われた不遇な運命を変えようと抗ったし。確かに手段は褒められないけどガッツは認めてやりたい』
つまらん話と思ってたくせに、やたら饒舌に語った気がする。それはともかく、今は目の前の現実に向き合わなければ。お加代は、突然の透真の登場に目を白黒させた。
「月白様。お見苦しいところをお見せしました。これはうちで預かってる者でして――」
「失脚した先代の跡取りが下働きをしてると聞いたけど、もしかしてこの子なの?」
ぎくりとしたお加代と私を見て、透真は木戸に寄りかかったままの姿勢でにやりと笑った。
「やっぱり。噂は本当だったんだ。神農家もなかなかアコギなことをするね。何も下働きまで貶めなくても――」
「失礼ですが、この件はどうかご内密に……」
「この俺に指図するのか?」
透真が鋭い視線を投げかけると、お加代は固まった。
「あはは、冗談だよ。でも、面白そうだから二人きりで話がしたい。お前は下がってろ」
お加代は、透真の言う通りにそそくさといなくなった。彼女が去ったのはいいが、二人きりも十分気まずい。だが、疑問が膨らんでいた私は思い切って口を開いた。
「あのっ、なぜ透真様が――春彦様ではなかったのですか?」
透真は姿勢を正し、目を丸くして私を見つめた。
「どうして俺のこと知ってるの? 春彦が来るはずだったことも?」
「いえ……そんな会話を耳にしたものですから……」
私はしどろもどろになって言いつくろう。とても本当のことなんか言えやしない。幸い、透真はそれ以上追及することはなかった。
「春彦じゃなくてがっかりした? あいつは急な風邪で俺が代理で来たってわけ。神農彩奈の能力を見極めるために――」
私ははっと息を呑んだ。原作でもそうだった。義妹の彩奈と春彦の結婚話が出て、春彦はその下見に来たのだ。でも、今回は透真が来た。代理らしいが、彩奈と彼が今度は結ばれるのか。それだとまずい展開になりそうな気がする。透真も最初から悪の道に進んだわけではない。あの性悪の彩奈と会わせないほうがいいのでは……
私は必死に頭を巡らせた。ここで月白透真に会ったのも何かの縁かも。もしかしたら、彼を悪役にさせない道があるかもしれない。それを模索するのが私が転生した意味だとしたら――。
「あのっ、私に運命預けてみませんか? 悪いようにはしないので!」
自分でもアホな物言いだったと思う。案の定、透真は、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべて動かなくなった。あ……また間違えたかも。
沈黙がじりじりと身を焦がす。遠くで雀の囀る声がやけに目立つ。私は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。この上なくいたたまれない気持ちになったところで、透真が豪快に笑った。
「こいつぁ面白い! よし乗った! 俺なんかでよければ煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」
これが全ての始まりだった。





