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すみません、大変お待たせしました!
ジェレミーは周囲に誰もいないことを確認すると、溜息を吐きつつ頭を抱えた。
(俺はどうしたらいいんだ……)
頭を抱えたまま、ジェレミーは膝の方に身体を倒す。
何か重量のあるものを脳内に詰め込まれたかのように、ジェレミーは傾けた上半身を起こすことができずにいた。
✴︎
了承を告げキャスリンの部屋を出ると、ジェレミーは厩舎に向かった。
今日の馬の手入れはとっくに終わっていたのだが、今のジェレミーには自身を落ち着かせるための何らかの癒しが必要で、思い付いたものが普段世話をしている馬だったと言うだけのことだ。
だが、厩舎に向かう途中にある庭園に差し掛かった際に、ふと視界に入るものがあり足を止める。
そよぐ風に柔らかく揺れる草花、そしてその手前でふわふわと空を舞う蝶。
ジェレミーが思わず蝶の軌跡を目で追うと、蝶は右へ行ったり左へ行ったり、そうかと思うと花に止まってみたりした後、庭園の入り口から少し入ったあたりにある小さなベンチに落ち着いた。
ジェレミーは周囲を見回し、促されるようにベンチに腰を下ろす。蝶は隣にジェレミーが腰を下ろしても微動だにしない。
蝶の隣で、滾々と湧き出る黒い考えを追い出すように、ジェレミーは膝においた肘で前のめりの身体を支え、溜息を吐き出した。
孤児であるジェレミーはキャスリンに拾われて以降、人との交流はほぼこの邸内で完結している。
既に成人しているので稀に街の飲み屋に出向くことはあるが、特に知り合いがいるわけでもなく、一人で静かに飲み、程良いところで屋敷に戻るのが常である。知り合い、ましてや友人などは皆無だ。
一体誰に頼めると言うのか。
「何をしているのです?」
突然耳を打った声に、ジェレミーは飛び上がるように腰を浮かせた。
視線を上げると、この屋敷の女主人であるイライザが、面白いものでも見つけたかのように目を細めてジェレミーを見ていた。
「あっ、奥様、す、すみません! 決して業務を疎かにしていたわけではなく、その」
「宜しいのよ。体調が優れないのかしら? それとも、何か考え事でもしていたのかしら――例えば、エメラインの頼まれごとの件だとか」
ジェレミーは小さく息を呑んでイライザを見、「何故それを……」と驚愕の声を上げた。
瞠目するジェレミーを見て、イライザはふふと小さく笑みを溢す。
「エメラインから連絡があったと、キャスリンから聞きましたわ。その内容についても少し。――わたくしもまさかエメラインにそんな願望があったなんて驚いたのだけど……ずっと領地運営などを任されて、華やかなことから遠ざかっていた反動かもしれませんわね」
イライザは、首を傾げ、ほうと溜息をついた。
「婚約してしまったら、なかなか羽目を外す事なんてできませんもの。わたくしからもお願いしますわ。あの子の願いを叶えてあげて頂戴」
と、ジェレミーへ優しげな笑みを浮かべた。
だが、その微笑みを見たジェレミーは、何故だか背筋が凍る思いがした。
その思いを押し込め、何とか捻り出すように曖昧な返事を吐き出す。
「ああ、でも」
イライザはジェレミーの目をじっと見つめ、ジェレミーが目線を逸らせずにいると意味ありげに目を細めた。
「もし、お友達が用意できないようでしたら、わたくしにも声をかけられそうな方々がいるので、遠慮なく言って頂戴」
驚いて見ると、イライザは人差し指を頬に当て「何人くらいがいいかしら」などと無邪気な声で呟く。
その様子は大層楽しげに見えた――気味が悪い、と感じる程に。
「だっ、大丈夫です」
何とか一言返答を返すと、イライザは「あらそう」とつまらなさそうに言葉を吐いた。そして「では、よろしくお願いしますわ」と言葉を残し、ジェレミーの前を通り過ぎて行く。
去り行くその背中を、ジェレミーは呆然と眺め、姿が見えなくなると再びベンチに腰を下ろした。腰を下ろすと言うよりも、力が抜けて座るしかなかったのだが。
ジェレミーは暫く立ち上がることができず、目の前の景色を眺めていた。
風景が美しいとかそうでないとか、そんなことはどうでも良い。ただ、目に映り込むものが、まだほんの少しだけ残っている自分の中の良心をかろうじて繋ぎ止めてくれたらいいのに、と小さな期待を抱いた。
蝶はいつの間にかいなくなっていた。
ジェレミーが気づかないうちに、花の蜜でも探しに飛んでいってしまったのだろう。




