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大変お待たせしました!
昨日一昨日と酷い頭痛で頭が働かず…すみませんでした。
「遅いじゃない。何をしていたのよ」
部屋を訪れたジェレミーに責めるような言葉を投げたキャスリンは、不機嫌に聞こえる言葉の割には楽しげな様子で視線を送った。
ジェレミーはキャスリンの不機嫌な様子を想像していたのだが、当てが外れたようだ。
ただ、ここ最近キャスリンは楽しげな様子ではある。
侯爵家に行ったあの日、いや正確には帰りの馬車で、恐らくキャスリンは何かを思いついたのであろう。馬車に乗り込む際には途轍もなく気分を害しているように感じられた表情が、帰路の中途からすっかり険が取れ緩んでいたのだ。
そして今現在も、キャスリンはとても機嫌が良いようにジェレミーには感じられる。
責めるかのような言葉も愉悦を含んでいるかのように耳に響いた。
「お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません」
ジェレミーは扉の手前で立ち止まったまま、キャスリンに謝罪の言葉を述べる。
深々と頭を下げ、許可が出るまで静止しているジェレミーを、キャスリンは満足そうに眺めた。
「いいわ。入って」
キャスリンは、まるで笑い出しそうにも聞こえる楽しげな声でジェレミーを部屋に招き入れた。
「話があるの。座って」
と、ソファーにもたれたキャスリンはローテーブルの向こう側を指し示した。
「いえ、恐れながら私はこのままで」
ジェレミーはキャスリンが座する側まで近寄ったが、促されるままに対面に腰掛けることはなく、適度な距離を保って直立している。
返答を聞くとキャスリンは若干機嫌を損ねた様子で「良いから座りなさいよ」と語調を強めた。
躊躇いながらも、ジェレミーがキャスリンの真正面から少し外れた位置に腰を下ろすと、キャスリンは唇に弧を描いた。
「お姉さまから、連絡があったの」
「……え? エメラインお嬢様からでございますか?」
「他に誰がお姉さまだというのよ」
ジェレミーは気の抜けた面持ちでキャスリンに視線を合わせた。
キャスリンは呆れたようにジェレミーを見返している。
「それで、お姉さま、『あの場ではあのように言うしかなかった』と言っているの。本当は侯爵家で息が詰まりそうなんですって」
「――は」
(そんな馬鹿な)
ジェレミーは侯爵家に訪問した際のエメラインの様子を思い起こす。
殆ど人の隙間からしか確認はできなかったが、以前の窶れた状態が夢であったかのように色艶の良い肌や表情、つま先まで磨き上げられ幸せそうなあの様子を鑑みれば、キャスリンの言いは俄かに信じがたい。
「可哀想なお姉さま。でも、王太子殿下に見初められたのですもの、仕方がないわよね」
キャスリンは“可哀想”と言う言葉の内容に反して嬉しそうに笑う。
その様子は可愛らしい令嬢そのものなのだが、ジェレミーは発した言葉とそぐわない笑みに背を冷やした。
「それでね、もしも王太子殿下の婚約者となることが確定になったら、直ぐに王宮に居室を与えられる可能性があるのですって。そうなると、自由が効かないでしょう?」
「そう……言うものでしょうか」
「そうよ! それでね」
キャスリンは満面の笑みを浮かべ、両掌を合わせてその笑みの前へ置く。
「お姉様、その前に楽しいことを経験したいのですって。ほら、今までお姉様お仕事ばかりだったし、見た目も地味だったから、男性に囲まれるような華やかな経験をしたことがないでしょう? それで」
笑みを更に深めたキャスリンは、ジェレミーを強い視線で絡め取った。
ジェレミーはまるで何か強大な野生動物に狙いを定められ、身動きが取れない状態にさせられているかのように感じる。
「複数人の殿方と遊びたいのですって。少しばかり粗野な方でも良いそうよ。一晩、男性たちに傅かれる楽しい経験が欲しいのですって!――でも私、賛同してくれそうな方々を知らなくって。なので」
キャスリンは眉を下げ、まるで強請るような表情をジェレミーに向けた。
「貴方、協力してくれそうな男性たちを集めてくれないかしら?」
「協力」
「ええ! そうよ。皆でお姉さまを楽しませてあげてほしいの!」
ふふふ、と楽しげなキャスリンはうっとりとした様子を見せる。
まるで、エメラインを楽しませる妄想に耽っているかのように。
「あの、エメラインお嬢様が……そんなご要望を?」
「わたしが嘘を言っていると言うの? 貴方の命の恩人の、わたしが?」
言うや否やキャスリンは立ち上がり、ジェレミーの側に寄るとその顎を掴んだ。
そして目を合わせると暫し睨みつけ、「ふん」と弾くように顎から手を離した。
「だって、あなたも見たでしょう? 三人も貴公子がいらしたじゃない。本当は皆纏めてお相手したいのかも知れな」
「お嬢様、それ以上はっ」
「何よっ! あんたもお姉様の毒牙にかかったの? そうね、あんたも可愛い顔をしているもの!」
キャスリンはドスンという音を立ててジェレミーの隣に腰を下ろす。
ジェレミーが項垂れていると「お姉様だって年頃の女性ですもの」と楽しげな声が隣から聞こえてきた。視線をそちらに移すと、キャスリンはいやらしげな笑みを浮かべている。ジェレミーは思わず目を逸らした。
「突然お姫様のように連れ去られて、知らない場所で存分に楽しみたいのですって。――あっ、そうそう」
キャスリンは何かに気づいたように立ち上がり、キャビネットに近づく。そしてその扉を開けると、恭しく紫色の小瓶を取り出した。
「その時に、こちらを使って欲しいそうなの」
「これは?」
手渡された怪しげなそれをジェレミーは摘み上げ、怪訝な顔で見回した。
「気分が高揚するお薬ですって」
ジェレミーは瞠目し、改めてキャスリンを見た。
キャスリンは新月になる直前の三日月のように、愉楽を感じる様子で目を細めている。
その様子をジェレミーは恐ろしいとも蠱惑的だとも感じ、視線を逸らすことが出来ないでいた。
「お姉さまったら。拒否する素振りを見せるから、それを合図にこれを飲ませて欲しいそうよ」
「……そんな、馬鹿な……これは、どちらで」
「そんなことはいいじゃない! ――ね、お願い。お姉さまたってのご希望なの。婚約して身動きが取れなくなる前に一度でいいので思い出が欲しいのですって」
「……」
徐に、キャスリンは弱々しく首を振るジェレミーの手を握った。
それからその手を引き寄せ身体を近づけると、息を吹きかけるように耳元に囁く。
「うまく行ったら、わたしをあんたの自由にして良いわ」
キャスリンが引き寄せたジェレミーの手を自身の頬に触れさせた。
掌がキャスリンの柔らかく滑らかな皮膚に密着すると、ジェレミーの腹の奥からむず痒い何かが迫り上がる。
「ね、お願い」
キャスリンは上目遣いでジェレミーの表情の隅々を読んでいる。
自身の後ろ暗い望みがすっかり暴かれていることを感じると、ジェレミーは羞恥の海に喘ぐ無様な自分を見放した。
キャスリンが提示する、この甘美な汚らしさを飲み込んでしまったら。
その妄想に、ジェレミーは瞬時に夢中になったのだ。
「こんなことは駄目だ」ともう一人の自分が叫んでいると言うのに。
「一週間後までに準備を整えて頂戴」
ジェレミーはその声を背中に聞き、絶望と高揚を感じながら部屋を後にした。
その瞬間は、従わねばならない“絶望”の方が心を占めていた。
だが“高揚”が、じわり、じわりとその“絶望”を塗り込め始めている。
その時。
天井の隙間から二人を見ている人物がいた。
その者は、眼下で起こっている状況を把握し、何かの操作を行うと、その姿を消した。




