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従者のジェレミーが馬の手入れをしていると、遠くから駆けてくるピンク色の女性が目に入った。
この家であの色を纏っているのはキャスリンしかいない。
キャスリンの方でもジェレミーに気づいたようで、ジェレミーが目を凝らすとこちらに来るように手を動かしている。
ジェレミーは手早く馬の手入れを終えると、小走りにキャスリンのいる方へ向かった。
できるだけ急いだつもりではあったのだが、キャスリンの表情が見える辺りまで近づくと、不機嫌な様子が見てとれた。
「貴方もついて来なさい」
「え、どちらかへお出かけでしょうか?」
「そうよ。ダンフォード侯爵家に向かうわ。お姉さまを迎えに行くの」
「エメライン様を、ですか?」
聞き返すと、キャスリンは『何か不満でも?』とでも言いたいかのように眉を片方上げた。
エメラインがスタンスフィールド子爵家に戻ってこないことで、使用人達の間では安堵混じりの噂話が密かに巡った。
ジェレミーはそれに積極的に加わることはなかったのだが、状況が耳に入るのは自然なことであった。
エメラインお嬢様は侯爵家で倒れたようだ
過労と栄養失調らしい
高い身分の方に見初められたと聞いた
一体どこから情報を入手しているのか尋ねると、使用人達には彼らなりのネットワークがあるらしい。
今現在、幸せに暮らしているようだという情報まで入って来ており、なぜそんな詳細な話までと訝しく思ったくらいだった。
ただ、ジェレミーも使用人達もそれらの話を安堵の気持ちを持って聞いていた。朝から晩まで働かされている、不遇なお嬢様を誰か救ってくれないかと誰もが思っていたからだ。
侯爵家という高位貴族の元で恐らく大事にされている、そして良い縁談の話もありそうだという話は、案じていた使用人達の気持ちをふんわりと温かくした。
だから、キャスリンから『エメラインを迎えに行く』という言葉が出て来たことは、ジェレミーにとって想定外だった。
(今は心静かにお過ごしだろうに)
ジェレミーも使用人ながらエメラインの身を案じるものの一人であった。
エメラインはどの使用人にも分け隔てなく優しく、スタンスフィールド家の中では最も使用人達から慕われていた。そんな彼女が朝から晩まで執務室で当主がすべき家の業務をこなしている。
貴族令嬢であれば、着飾り多少の贅沢を堪能するであろうに。
この、キャスリンのように。
「ジェレミー! 早く来なさい」
キャスリンは痺れを切らした様子でジェレミーに命じた。
時間的に急いでいるというよりは、気が逸っているかのような様子である。
「早く御者に馬車を準備させて頂戴」
ジェレミーは「畏まりました」とその場を離れた。
ジェレミーが馬車の後部のステップに足を掛けようとすると、キャスリンは「中に入っていいわよ」と言った。
「いえ、お嬢様それは……」
「わたしがいいって言ってるのよ」
「……畏まりました」
ジェレミーは遠慮がちに車内に入ると、おずおずと座席の隅に腰掛けた。
「何なの? そんな端じゃなくて向かいに座りなさいよ」
「いえ、それは……」
「いいって言ってるの。何度も言わせないで」
御者台から声がかかり、馬車はゆっくりと進んで行く。
「急いで頂戴」とキャスリンは強めの口調で御者に声をかける。
ある通りに差し掛かると、キャスリンはジェレミーに話しかけた。
「ねえ、ここ覚えてる? 貴方が行き倒れになっていたところよ」
キャスリンは窓から道の一箇所を指し示す。
石畳の道に商店が並んでおり、まだ午後の早い時間帯のせいか人通りも多い。
ジェレミーはキャスリンの一言で、もう少し薄暗くなる夕方近くであった嘗ての記憶を思い起こした。
「あのままだったら命を落としていたわね。良かったわね、わたしに拾われて」
キャスリンは得意げにふふんとジェレミーに笑いかけた。
ジェレミーはその出来事の少し前まで故郷で母親と住んでいたのだが、流行病で死に別れてしまった。
それから孤児院に入り、童顔の可愛らしい容姿が気に入られすぐに養子先が決まった。しかし養家の子供達と馴染めず、図られて置き去りにされたのだ。
そして数日彷徨った末、たまたま買い物帰りだったキャスリンに見つけられることになる。
キャスリンはその時感心した様子で、薄汚れた赤い髪の少年に言った。
「貴方、お人形さんみたいね。わたしの従者にしてあげるわ!」
そして周りの反対を押し切り、ジェレミーを馬車に押し込めた後、スタンスフィールド家に向かったのである。
到着すると隅々まで洗われ、身なりを整えられた。
与えられた食事の美味しかったことは、今でも忘れられない。
目の前の令嬢が嬉しそうに、自分の食べる姿を眺めていたことも。
命の恩人であるキャスリンは無作法で癇癪持ちなところはあるが、ジェレミーには優しかった。
使用人達はキャスリンの傍若無人さに辟易しているところがあったのだが、ジェレミーはキャスリンの、気が強いと思うとどこか自信がなさそうであったり、我儘でありながら心配そうに気遣ったりするところなどに可愛らしさを感じていた。
そのような可愛らしさを持つキャスリンはなぜ、こんなにも実の姉であるエメラインに対して執着するのだろうと、ジェレミーはいつも不思議に思っていた。




