006_一試合だけの約束
奈緒が立つと、哲史は盾で背後を隠し、二人で黒土から乾いた舗装へ移った。
観客席からは、まだ『英雄王と囚われの龍姫』の名が聞こえていた。
奈緒は一度だけ、その声へ振り返る。
知らない誰かが、雨宮栞という名前を呼んでいる。
五人を倒した余韻は、そこまでだった。
右腕では、浅い火傷を示す警告がまだ明滅している。槍を持ち直すたび、盾の内側に熱がこもった。
三番のショートソードは、黒土へ刺したままだった。
取りに戻る道を、市街地の左から来た二人が塞ぐ。
右から回り込んだ三人は、そのまま畑側へ続く出口へ走った。
五人の肩には、同じ銀色の紋章がある。
二つのチームではない。
一つのチームが、二手に分かれていた。
黒土へ入る者はいなかった。三番の剣にも、その周囲の地面にも近づかない。さっきの小さな火を見ていたのだ。
左の一人が三番の剣を指す。
畑側へ走る三人のうち、最後尾だけがそれを見て、舗装の外縁を避けて中央へ寄った。
声を交わす必要もない。
五人は、同じ危険を避けていた。
畑側へ回った三人は、乾いた舗装だけを選んで出口を先に取った。
一人が全身を隠せる大盾を下ろす。その後ろで、大型の弩を持った一人が膝をついた。残る槍使いは、盾の外側から穂先だけを出している。
仕留めに来る気配はない。
待っていれば、安全圏の方から哲史たちを押し出してくれる。
背後では、《フレアクラウン》が残した炎が建物の壁を舐めていた。制御する者を失った火は広がらず、煙だけが路地へ残っている。
その煙と建物の角を使い、市街地側の二人が距離を詰めてきた。
一人は短い弓を構え、もう一人は幅の広い剣を盾のように立てている。
つがえた矢の先が、哲史ではなく奈緒を追った。
安全圏までの距離表示が減っていく。
哲史は、畑と植栽帯の間に残された一本の舗装路を見た。
「あそこを抜ける」
「前の三人は、私たちをここで足止めしてる」
奈緒は出口の三人を見て、すぐ背後へ視線を移した。
「後ろが私を狙ってる」
奈緒の視線が、幅広の剣へ止まる。
「剣の方は弓を守る。哲史が戻ったら、二人で時間を使わせる役」
前の三人は、哲史が来るまで動かない。
後ろの二人は、哲史が前へ出るまで奈緒へ届かない。
どちらも、二人のうち盾になれる者が哲史しかいないと知っている動きだった。
市街地側で弦が鳴った。
哲史は奈緒の前へ盾を戻す。矢が盾の中央へ当たり、乾いた音を立てて落ちた。
その間に、畑側の大盾が一歩だけ前へ出る。
舗装路の出口が狭くなった。
「前を開ける。俺の盾の角度だけ見ろ」
哲史は走った。
大型の弩が正面を向く。
大盾の右から槍が出る。左へ避ければ弩の射線へ入り、盾で弾けば踏み込みが止まる角度だった。
弩は撃たない。
槍使いも、穂先をそれ以上は伸ばさない。
哲史が進路を決めるまで、三人とも先に手を使わなかった。
哲史は左腕を上げた。
奈緒が選んだのは、槍を受ける瞬間の盾の傾きだけだった。
盾の縁が穂先の下へ入る。
槍は止まらず、上へ滑った。
哲史の足は止まらない。そのまま大盾の外側へ入り、持ち手の手首へ石突を返す。
届く。
その直前、背後で二度目の弦が鳴った。
矢は奈緒へ向かっていた。
哲史は石突を引き、振り返った。奈緒の前へ盾を差し込む。
矢が盾の縁で折れた。
奈緒には届かなかった。
前へ向き直ったときには、大盾が元の位置へ戻っていた。槍使いも半歩退き、大型の弩には次の矢が載っている。
開きかけた出口が閉じていた。
奈緒には、石突が大盾の持ち手へ届くところまで見えていた。
それでも「戻らなければよかった」とは言わない。
あの矢を放置すれば、自分が先に消えていた。
哲史は今度は市街地側へ踏み込んだ。
風で路地の煙を押し返す。白く濁った空気を顔へ受け、弓を持つ一人が一歩下がった。
幅広の剣が煙の中から横へ出て、弓を追う進路を塞ぐ。哲史は槍で刃を外へ払い、二人を建物の角の内側まで押し返した。
乾いた舗装でも、風は使える。
だが、青白い火を生んだ黒土は、もう敵の足元にはなかった。
それ以上は追わない。
畑側へ視線を戻す。
出口の三人は、その間に舗装路の中央まで進んでいた。大盾が植栽へ片側を預け、人一人ぶんしかなかった隙間をさらに半分へ削っている。
前へ出れば、後ろが空く。
後ろを押せば、前が閉じる。
一方向ずつなら、どちらも崩せた。
二方向は、同時には崩れない。
安全圏の境界表示が、黒土の帯を越えた。
三番の剣だけが、境界の外に残る。
炎の残る市街地も、壁のある路地も、もう使えない。
五人は急がなかった。
畑側の三人が出口を塞いだまま、市街地側の二人が歩幅を合わせる。
哲史と奈緒に残されたのは、遮るもののない乾いた舗装だけだった。
大型の弩が奈緒の胸元へ向く。
同時に、市街地側の弓が哲史の背へ上がった。
奈緒には、二本の軌道が見えていた。
「前の弩が先。胸の高さ」
先に大型の弩が鳴った。
奈緒の診断は正しかった。
哲史は奈緒の前へ踏み込み、盾を上げる。
火傷の警告が走る右腕も、速くなった呼吸も、奈緒は追わなかった。
矢が届く瞬間だけを選ぶ。
盾が、遅れずに正面へ入った。
太い矢が表面へ食い込み、止まる。
奈緒へは届かない。
その結果を確かめるより先に、背後の弦が鳴った。
哲史は振り返れない。
細い矢が、盾の届かない右脇を貫いた。
青い格子が哲史の身体を包む。
継続不能判定。
手から槍が離れる前に、視界が光で埋まった。
◇
奈緒の前から、哲史の身体が消えた。
槍も盾も残らない。
前には大盾と槍、大型の弩。背後には弓と幅広の剣。
どちらへ動けば、どの攻撃が先に届くのかは分かった。
分かっても、止める手段がなかった。
奈緒は畑側へ走った。
大盾が舗装路の隙間を塞ぐ。
背後で三度目の弦が鳴った。
さっき後ろの矢を先に告げていれば、前の太い矢が奈緒へ届いていた。
奈緒が哲史のために選べるのは、一つの動作だけだった。
前の矢へ盾を合わせても、その盾を同時に背後へ置くことはできない。
攻撃の順番は読めた。
勝てる順番が、その中になかった。
振り向いた奈緒の視界へ、青い格子が開いた。
試合結果が、その上に重なる。
第7位/20チーム
撃破:5
数字を読み終える前に、視界が暗くなった。
◇
白い床が戻ってきた。
哲史は自分の右手を開いた。
指は五本ある。袖も裂けていない。
火傷はない。矢が貫いた跡もない。
それでも腕の奥には熱が残り、呼吸はすぐには戻らなかった。槍も盾もない自分の身体が、さっきまでよりわずかに重い。
遅れて隣の光が消え、奈緒も白い床へ手をついた。
接続区画の頭上には、同じ結果が表示されている。
第七位。五撃破。
二人の名前が並び、残る三枠は灰色のままだった。
二人で五人を倒した結果と、二人しかいなかった敗因が、一つの画面に並んでいた。
「前の弩を選んだの、間違ってないよね」
「間違ってない」
「後ろも見えてた」
「見えてても、盾は一枚しかない」
奈緒が唇を噛んだ。
正しい一動作を選ぶことはできた。
別の方向へ、もう一人ぶんの身体を置くことはできなかった。
区画の外へ出ると、通路にいた何人かが哲史たちを見た。
試合前と同じ視線ではない。
「あの二人だ」
「《フレアクラウン》を全員落とした」
一人の端末には、競技映像ではなく漫画のページが開かれていた。
「石突で手首を打つの、ここに描いてある」
その声に、隣の一人も画面を覗き込む。
笑う声はなかった。
奈緒のポケットで、スマートフォンが震えた。
一度止まり、また震える。
奈緒が画面を開いた。
表示されていたのは、『英雄王と囚われの龍姫』の公開ページだった。
更新する。
閲覧数が増える。
もう一度更新すると、また増えた。
新しい感想が、その下へ続いている。
『試合を見てから読み直しました。槍を突かずに石突で手首を打つ意味が、やっと分かりました』
奈緒の親指が止まった。
次の感想を開く。
『続きが読みたいです』
短い一行だった。
編集者の名前でも、奈緒が原稿を送った知人の名前でもない。
知らない誰かが、自分から公開ページを開き、読み進めたあとに残した一行だった。
奈緒は画面を閉じなかった。
何か言おうとして、先に息を吸う。返事が出るまで、少し時間がかかった。
「一試合だけの約束は、これで終わり」
哲史は壁の試合映像を見ていた。
自分が畑側へ踏み込み、奈緒へ向いた矢を防ぐため戻る場面が繰り返されている。
前の三人へは届いていた。
背後の一矢も防いだ。
そのたび、もう一方だけが残った。
「終わったな」
「付き合わせて、ごめん。ありがとう」
奈緒は哲史を勧誘しなかった。
スマートフォンを握ったまま、次の言葉を待ってもいない。
頼まれた一試合は終わった。
漫画がつまらなくないという証明も、知らない読者へ届いた。
ここで帰っても、約束は破らない。
哲史は結果表示へ目を戻した。
第七位。
五撃破。
できたことと、できなかったことが、まだ同じ画面に残っている。
哲史は、できるようになったことを繰り返したいと思ったことがない。
けれど、この試合はできたところで終わっていなかった。
前へは届いた。背後の矢も止めた。
同時にできなかった仕事だけが、空いた三つの枠と一緒に残っている。
「ここからは、俺が決める」
奈緒が顔を上げた。
哲史は、二つしか埋まっていなかった登録枠を思い出した。
「残り三人を探すぞ」




