005_半歩ぶんの隙間
聖女の爪先、そのすぐ横だった。
爪の先ほどの火だった。
芯だけが白く、その縁に透けるような青がまとわりついている。土を焼く音はしない。靴を焦がす熱も届かない。
聖女の瞳に、青白い点が映った。
組んだ両手は解かない。支援を切らさないまま、足だけで避けようとする。
前を向いていた爪先が、わずかに外を向いた。
膝がそれを追う。
踵が、本来踏むはずだった場所を外れる。
女騎士の足跡から半歩ずれた泥へ、聖女の靴が沈んだ。靴の縁から、水を含んだ土がゆっくりと押し出される。
腰が外へ流れた。
前へ進む女騎士と、斜めへ逃げた聖女。
二人の肩の間に、細い隙間が生まれる。
槍の穂先が一本だけ通る、ほんの半歩ぶんの隙間だった。
小さな火は誰も焼かなかった。
ただ、五人を一つにしていた距離から、その半歩だけを奪った。
「一歩」
哲史の声が、引き延ばされた時間を断ち切った。
足音も、炎の爆ぜる音も、止まっていなかった実況も、一斉に奈緒の耳へ戻る。
奈緒は、ほかのずれを見なかった。
哲史の右足が止まってから、槍を返すまでのタイミング。その一つだけへ、マリの力を絞る。
哲史が女騎士の剣へ盾を当てた。
剣を止めず、外へ滑らせる。
同時に一歩だけ内側へ入り、開いた間へ槍を通した。
哲史の右足が、湿った土を踏み締めて止まる。
その瞬間に槍が返る。穂先は揺れず、聖女の胸元へ届いた。
青い格子が、聖女と穂先の間へ割って入る。
継続不能判定。
聖女の身体が光へほどけた。
◇
支援が切れた。
残った四人の顔へ、熱が一斉に押し寄せる。
女騎士が初めて炎から腕をかばった。砲撃役が煙を吸い、咳き込む。斥候の目にも涙が浮かぶ。
それでもIGNISは止まらない。
「聖女が落ちたら、カイルは火を片側へ寄せて道を作る」
奈緒が言い終えるより早く、IGNISが右腕を振った。
左右に広げていた炎が、通路の左側へ集まる。
熱の壁が片側へ寄り、右側に人一人が走れる幅の退路が開いた。
煙は残る。
IGNISは袖で口元を覆いながら、残る三人へ命じた。
「右の道へ。斥候が先頭。砲撃は出口を広げろ。騎士は最後尾」
支援役を失った直後の判断として、間違っていない。
安全圏へ抜ける道を確保し、索敵できる者を先へ出し、近接役をしんがりに置いた。
奈緒の「ありきたり」という声には、もう侮りがなかった。
定番の編成を知っているから、聖女を失ったカイルが何を守り、誰をどこへ置くかまで読めた。
四人が一本の道へ並ぶ。
奈緒は、その順番を見た。
「斥候を先に倒して。出口で仲間を誘導されたら、五人がまた別々に動ける」
「一つに絞れ」
哲史の短い指示に、奈緒はうなずいた。
斥候の走る速さも、哲史の槍の角度も、炎の揺れも見える。
選んだのは、哲史が地面を動かす瞬間だけだった。
斥候の右足が退路へ入る。
その爪先の前で、黒土が手のひらほど盛り上がった。
早ければ斥候は避ける。遅ければ通り過ぎる。
土の縁は、足が着く瞬間にだけ現れた。
斥候の上体が前へ流れる。
哲史は槍を使わない。
盾の縁を肩口へ当て、そのまま地面へ押し倒した。青い格子が斥候の身体を包み、二つ目の撃破通知が上がる。
「切り替えろ」
「次は砲撃役。両腕が上がる前」
奈緒は、もう斥候の倒れ方を追わなかった。
砲撃役が退路を広げるため、火を作ろうとする。両腕が胸の高さへ上がる。
哲史の石突が、右の手首を下から打った。
片腕が跳ねる。
それでも砲撃役は左手だけで火を放った。
狭い通路を炎が走る。
哲史は盾を斜めに立てた。炎を正面で受けず、熱の流れを壁際へ逃がしながら間合いを詰める。
奈緒が消したのは、盾の角度に生じるわずかなぶれだけだった。
火が盾の横を抜ける。
哲史は懐へ入り、槍の柄で膝を崩した。倒れる前に穂先を胸元へ返す。
三つ目の青い格子が開いた。
「女騎士」
奈緒が先に告げた。
女騎士は逃げなかった。
砲撃役の離脱光を横切り、哲史へ向き直る。IGNISを安全圏へ出すため、しんがりに残る。それも、最初から与えられた役割どおりだった。
剣が盾を叩く。
一撃目は重い。
二撃目は低く、哲史の膝を狙う。
哲史は槍を引き、盾で二つを受けた。
三撃目、女騎士は盾の外へ回った。
「次の一歩」
哲史が言う。
奈緒は、女騎士の剣を見なかった。
哲史が盾を返す、その一瞬だけを見る。
マリの力が一点へ集まる。
盾は剣を受け止めず、刃の腹へ沿って滑った。女騎士の視界を覆いながら、その身体を半歩だけ外へ押す。
女騎士の踵が、IGNISの寄せた炎へ触れた。
耐熱はもうない。
反射的に足が上がる。
哲史はその軸足を槍の柄で払った。
体勢を失った女騎士へ、石突を打ち下ろす。
四つ目の撃破通知が上がった。
哲史の盾は熱を持ち、右腕には浅い火傷の警告が出ていた。呼吸も、戦い始めたときより速い。
聖女の半歩が崩れなければ、ここまで連続して槍を振る余裕は生まれなかった。
奈緒は攻撃をしていない。
その手は一度も敵へ向かず、哲史の次の一動作だけを追い続けていた。
◇
IGNISだけが残った。
仲間四人の離脱光を見ても、足を止めない。
左へ寄せた炎を細く引き延ばし、哲史との間へ一本の帯を作る。右手を前へ押し出すと、炎の帯が哲史へ走った。
攻撃してから退く。
哲史が火を避ける間に、自分は開けた直線を安全圏へ抜ける。
追えば炎へ入る。待てば距離が開く。
順序に誤りはなかった。
哲史は追わず、炎の先端だけを見た。
火の帯が盾の前を通り過ぎる。
IGNISが背を向ける直前、必ず一度だけ炎の位置を確かめる。自分も耐熱を失った以上、制御を誤れば焼かれるからだ。
その確認で、右足が止まる。
「最後。右足が止まったあと」
奈緒が言った。
哲史はもう動き始めていた。
炎の尾が通り過ぎた直後へ踏み込む。
熱で揺れる空気の中、最後の一歩だけを奈緒が選ぶ。
靴底が地面を捉えた。
IGNISが振り向く。
哲史が来ると読んでいた。
残した火種を正面で着火する。赤い火が二人の間に膨らんだ。
哲史は盾で視界を塞いだ。
自分の顔ではない。
IGNISの目から、槍を隠すためだった。
盾の陰で槍を短く持ち替え、火が広がるより先に間合いへ入る。
IGNISは炎を引き戻そうとした。
正しい対応だった。
だが、右手が戻るより、哲史の一歩が早い。
槍の穂先が胸元へ届く。
最後の青い格子が、二人の間で弾けた。
『《フレアクラウン》、全員撃破!』
システム音声が市街地へ響いた。
哲史たちのスコア表示へ、五人分の撃破ポイントが続けて加算される。
IGNISの身体が光へ変わる。
消える直前まで、その目は哲史と、後ろに立つ奈緒を見ていた。
◇
一瞬、観客席が静まった。
次に上がった声は、さっきまでの嘲笑より大きかった。
『二人です! 二人編成の『英雄王と囚われの龍姫』が、優勝候補《フレアクラウン》を五人全員撃破! しかも二人とも残っています!』
中継画面の横で、作品名の検索表示が増えていく。
「原作、どこで読める?」
「作者の雨宮栞って、新人だよな」
奈緒が漫画を発表するときに使う名前まで、観客席から聞こえた。
「打ち切りって、何話まで出てる?」
「今の小さい火、原作にあったのか?」
声が次の声を呼んだ。
奈緒は、その場に立ち尽くしていた。
勝ったからではない。
知らない誰かが、自分の漫画を探している。
連載終了のあとも一人で描き続けた題名を、初めて見る人間が口にしている。
奈緒の唇が動いた。
声にはならなかった。
哲史は三番の剣を黒土へ残したまま、槍を持ち直した。
遠くで足音が重なる。
炎と撃破通知を見た別チームが、市街地の両側から近づいていた。
安全圏も、さらに畑側へ狭まり始めている。
哲史は奈緒を振り返った。
「立て。試合はまだ終わってない」




