030_見えていた敗北
千景が後ろを向いたまま、斜面へ足を掛けた。
踵が根に触れる。
奈緒は、その足を見てから哲史の背中へ視線を戻した。
哲史はまだ進んでいない。
上の倒木へ槍を向け、二人が足を置けるのを待っていた。
「千景、前を向いて」
奈緒が言った。
「人影は、入口にいます」
「うん。止めたまま進むのをやめよう」
千景の肩が少し動いた。
人影から顔を離さず、奈緒の返事を待つ。
「私が足元を見てると、哲史を見られない。千景は自分で前を見て、私の後ろについて。近づいてきたら、盾で止めてほしい」
「接触させないように、ですね」
「お願い。倒れた木まで行ったら、私が振り返る」
千景は入口までの距離を見た。
人影は腕を下げたまま止まっている。
その足と、自分が通ってきた土の道を確かめてから、斜面へ向き直った。
奈緒も前を見る。
背後で、土を踏む音が始まった。
見なければ動く。
分かっていても、首を戻したくなった。
「哲史、倒木の左端まで。私もついていく」
「右の木には寄るな」
哲史が槍の先をわずかに左へ振った。
「上の一人が、そこを下りてくる」
右上の立木にいた選手が、両手で短い棍棒を持ち直した。細い赤布が柄に巻かれている。
左の倒木裏にも一人。
こちらは片手で棍棒を持ち、空いた手を幹へ置いていた。腰に吊った四角い金具が光る。
哲史は二人の間へは進まなかった。
斜面の左へ足を置く。
右の選手が追おうとして、立木の根を回った。
その間に、哲史の盾が倒木の端へ届いた。
◇
倒木裏の選手が、棍棒を振り下ろした。
哲史は盾を頭上へ持ち上げなかった。
踏み込んで、振り下ろされる腕の内側へ盾の縁を入れる。
棍棒の先が盾を擦った。
相手は幹に置いた左手で身体を支え、外へ跳び退く。
哲史の槍が、その右腕を追った。
相手が棍棒で槍を横へ払う。
奈緒には、相手の肘が開くのが見えた。
槍の穂先は外へ逸れている。哲史の足は地面に残り、右手はもう柄を返し始めていた。
そこへ、棍棒が戻ってくる。
「返すところ」
奈緒は一つだけ選んだ。
哲史が槍を返す時刻。
棍棒が戻る前に、穂先が相手の上腕へ届いた。
相手が腕を引き、倒木の奥へ下がる。
青い格子は出ない。
まだ立っている。
それでも、先ほどまで相手の足があった場所は空いた。
「奈緒、上がれ」
哲史が盾を右へ向ける。
立木を回ってきた赤布の棍棒を、その盾で受けた。
奈緒は倒木の端へ走った。
幹を跨がず、哲史の通った土を踏む。
後ろで、鈍い音がした。
「受けています。前へ!」
千景の声だった。
奈緒は倒木へ肩を寄せてから振り返った。
人影の手が、小盾へ伸びていた。
指が盾の表面に触れている。
奈緒が見たところで、その腕が止まった。
「止めた」
千景は小盾を引き、人影の脇を離れて奈緒の隣へ上がった。
左足を地面へ置く。
右足も揃う。
三人とも、斜面の上にいた。
「腕は?」
「大丈夫です。盾で受けられました」
千景が小盾を上げ直す。
奈緒は、その縁が震えていないことを確かめた。
人影を止め続けなくても、ここまでは来られた。
哲史が棍棒を押し返し、倒木の外側へ半歩出る。
上腕を突かれた選手と、赤布の選手が並んで下がった。
その先には、木の間を真っすぐ抜ける道がある。
倒木の反対側にも、左へ回る細い道が見えた。
「千景、人影をお願い。先を見る」
「見ています」
奈緒は正面へ顔を戻した。
左の道の奥で、人が退いた。
◇
黒い袖。
握られた棍棒。
袖口に、細い白紐が巻かれている。
その人が木の陰へ下がると、枝を擦る音が続いた。
「左にも一人」
奈緒が言った。
哲史はそちらへ槍を向けなかった。
正面の二人を盾の向こうへ置いたまま聞く。
「どこまで見える」
「木の間。胸から下が隠れてる。今、奥へ下がった」
黒い袖がもう一度見えた。
奈緒は倒木へ添えていた手を滑らせ、少しだけ身体を横へ寄せた。
木の幹と、その向こうの枝がずれる。
黒い袖だけが、同じ狭い隙間に残った。
奈緒は足を止めた。
相手の肩が動く。
袖が左へ出かけ、まっすぐな縁で途切れた。
「左の人、木じゃないところで切れてる」
千景が顔を動かしかけた。
「待って。私が後ろを見る」
奈緒が人影へ向き直る。
斜面の上り口で止まっていた。
「見た。千景、左を確かめて」
千景は奈緒から二歩だけ離れた。
小盾を正面へ向け、倒木に沿って身体を低くする。
哲史の盾を叩く音がした。
「ここはいい。見てこい」
千景が木の間を斜めから覗く。
薄い金属の枠があった。
腰ほどの高さの鏡が、二本の枝の間に立て掛けられている。
正面から見えた人の姿は、その面の中に収まっていた。
「鏡です」
千景は言った。
「左に見える人は、鏡の中です。本人のいる場所は、ここから分かりません」
正面で棍棒を受けた哲史が、短く息を吐いた。
「倒せるか」
「枠に届きます」
千景は線を踏み越えるような杭がないことを足元で確かめ、鉤剣を伸ばした。
刃の内側を金属の枠へ掛ける。
引いた。
鏡が枝から外れ、土へ倒れた。
黒い袖が消える。
それでも、枝を擦る音は残った。
千景が小盾を音の方へ向ける。
低い枝の下で、黒い布が動いていた。
人はいない。
外套の袖が地面を引かれ、枯れ葉を押している。
袖口が枝へ絡まった。
布が張る。
そこで音も止まった。
「引かれているのは、服です。枝に引っかかりました」
千景の声を聞きながら、奈緒は人影を見続けた。
鏡に映った人が退く。
その先で、枝を擦る音がする。
二つ揃えば、人がその道を奥へ逃げたように見える。
「|《遺失物》も、重ねてる」
奈緒が言った。
哲史の前にいる、腰の金具を鳴らした選手が、一度だけ左を見た。
倒れた鏡の方だった。
その選手が手を上げると、赤布の棍棒が倒木に近づいた。
「千景、戻れ」
哲史が盾を寄せる。
千景は鏡から鉤剣を外し、奈緒までの土を見た。
敵はいない。
短い帰還加速で戻り、奈緒の横に小盾を入れた。
「戻りました。左の曲がった先は、まだ見えていません」
◇
白紐を袖口へ巻いた選手は、伸ばしていた指を閉じた。
外套は戻ってこない。
自分で歩いて確かめた経路だったが、引かれてきた布の袖が枝へ絡んだ。そこで引く力を止めた。
外套を取りに行くには、相手の小盾が見えた道へ出なければならない。
選手は服を残した。
横に置かれた、もう一枚の鏡を見る。
先ほどまで、その前で身体を引いていた。対になる鏡へ、自分の姿を映させるためだ。
腰の金具を鳴らす味方が、二枚を運んで置いた。
映す角度を合わせてから、自分は外套に印を付け、向こうの道へ置いてきた。
両方とも、もう使えない。
正面で盾と棍棒がぶつかる。
白紐の選手は鏡の前を離れ、倒木の向こうを回った。
張り出した枝を手で押し、根を跨ぐ。
外套を追わせられなくても、相手の一人はその道を確かめに来た。
そして戻った。
いま、そこを見る者はいなかった。
斜面の下でも、一人が石積みの端を回っていた。
建物の前で三人を押さえていた選手だ。
折られた杭は、そのままにしてきた。
新しい境界を作るより、三人の後ろへ着く方が早い。
少し遅れて、もう一人が道へ入る。
こちらは両袖が黒く、紐を巻いていない。
上り口に止まっている人影へ近づいても、人影は消えなかった。
奈緒を狙うその仕掛けを置いた本人だった。
◇
収縮の表示が更新された。
奈緒は残り時間を見た。
地図の上で、次の安全圏は倒木の向こうへ寄っている。
来た道を戻れば、もう一度斜面を下りなければならない。建物を回って別の入口へ着くまでの道は、まだ見ていなかった。
「左を、もう少し見に行きますか」
千景が聞いた。
奈緒は人影から目を離さずに考えた。
千景が行けば、自分はここで待つ。
哲史が前を押さえる。
左の道を見て戻るまで、三人はまた動けない。
「……ううん。正面を抜けたい」
「二人いるぞ」
哲史が言った。
「うん。でも、二人の足と武器は見える。左は鏡を倒しただけで、道を見たことにはなってない」
奈緒は倒木へ手を置いた。
先ほどは、この幹に触れることもできなかった。
いま、ここにいる。
「一人を下がらせたところまではできた。今度は、その先までついていく」
哲史が正面の二人を見る。
棍棒が届くたびに盾を動かすが、相手は深く入ってこない。押し返すと離れ、哲史が下がれば同じだけ近づく。
「俺が腰の金具の方を崩す。右の一人は倒木の向こうへ回らせる」
「霧は?」
奈緒が聞いた。
「ここで広げれば、俺の槍も見えなくなる」
後ろには、見えない間だけ進む人影もいる。
奈緒は頷いた。
「今は、見えるままで行こう」
千景が小盾を人影へ向けた。
「近づかれたら受けます。奈緒さんは前へ」
「倒木を抜けたところで、私がまた見る」
奈緒が正面へ向き直る。
人影の足が、土を踏んだ。




