029_三人分の視線
哲史は槍を引いた。
穂先を当てた杭の側面に、傷がある。
根元は草に隠れているが、杭自体は動かなかった。
向こう側の杭も同じ位置にある。
哲史は二本を結ぶ線より手前へ、左足を置き直した。
槍を上から振り下ろせば、穂先が土へ入る。杭を抜くには、線へ近づいて柄を立てなければならない。
哲史は抜こうとしなかった。
槍の握りを変え、傷をつけた側面へ穂先を押し当てる。
右腕だけで突かず、後ろ足から身体を送った。
穂先が木へ食い込む。
そのまま柄を横へ倒した。
杭が根元から傾く。
木の繊維が裂けた。
折れた上半分が、草の中へ倒れる。
哲史は槍を引いた。
「建物側、折った」
千景が左へ顔を向ける。
奈緒は人影を見続けた。
「千景、杭を見ていい。こっちは止まってる」
「確認します」
千景は正面の相手との間を小盾で保ちながら、折れた杭を見た。
片方だけが、土から立っている。
建物側の杭は途中で折れ、上半分が横になっていた。
「一本、壊れています」
哲史は槍の石突を手前へ戻した。
向こうの杭は残っている。
だが、二本が揃っていた境界は切れた。
「奈緒はまだ動くな。先を俺が見る」
哲史は折れた杭の横から、道へ足を入れた。
足首は止まらなかった。
次の一歩を置く。
膝を曲げ、槍を前へ向けたまま、石積みの奥を覗く。
狭い道の先に、土の斜面がある。
斜面の上は次の安全圏へ続いていた。
その手前に、横倒しの太い木が見えた。
そこまで行けば、幹を奈緒の遮蔽物にできる。
「道は斜面へ続いてる。上に倒れた木がある」
哲史が振り返らずに言った。
「いま見える道に敵はいない。曲がった先はまだ見えない」
千景の小盾へ、また圧力がかかった。
正面の相手が近づき、千景が盾で押し返す。
それだけの動きだった。
相手は、千景を倒し切ろうとしない。
奈緒は人影を見たまま、奥歯を噛んだ。
ここへ視線を残している限り、哲史が見つけた道を自分では確かめられない。
千景が見るには、正面へ来る相手を離さなければならない。
道は開いた。
だが、三人が同時にそこへ向くことができない。
「哲史、一度戻って。千景を正面から離して」
「分かった」
哲史は道を引き返した。
折れた杭を踏まないよう避け、千景の左へ入る。
相手が足を止めた。
哲史の槍が、盾の横から出る。
相手は千景へ伸ばしかけた腕を引き、石積みの正面へ下がった。
哲史は追わなかった。
「千景、奈緒を左へ」
千景が奈緒の前から横へ移る。
「奈緒さん、壁に沿って四歩です。杭の手前まで一緒に動きます」
「人影から目を離さずに行く」
「足元は私が言います」
奈緒は壁へ指を添えた。
千景の声に合わせ、一歩ずつ横へ進む。
人影は止まっている。
距離が遠ざかるにつれ、細い木の幹とその肩が重なり始めた。
「この先、木で隠れる」
奈緒が言った。
千景が人影を見る。
「見えています。私が引き継ぎます」
「私は足元を見る」
奈緒は顔を下げた。
折れた杭が、靴の先にあった。
◇
奈緒は杭を跨いだ。
土の道へ入る。
千景がその後ろへ付き、斜めに身体を向けたまま人影を見ていた。
哲史は最後に下がってきた。
盾を正面の選手へ向け、槍を引く。
「杭のところ、誰も来てない」
哲史が告げた。
壊した杭を、その間に立て直した者はいない。
三人が入口を抜けるまで、建物側の折れた杭は見えたままだった。
「人影が、石積みで隠れます」
千景が言った。
奈緒は道の先を見た。
ここで止まって横を向き続ければ、いつまでも前へ行けない。
人影が来るとすれば、石積みを回って、三人の通った入口へ来る。
「千景、今度は後ろを守って。人影は壁を抜けられない。入口から来たら止めよう」
「はい」
千景が小盾を後方へ向けた。
奈緒がその前へ出る。
哲史は二人の横を抜け、先頭へ戻った。
槍で道の先を確かめながら進む。
背後で、足音がした。
千景が振り返る。
石積みの端から、人影の肩が出ていた。
顔を向けたところで止まる。
「入口まで来ました。見ています」
「そのまま下がれるか」
哲史が聞く。
「足元を教えてください」
奈緒は千景の踵の後ろを見た。
「右足の後ろに根がある。左へ半歩。そのあと真っすぐ」
千景が足を動かす。
小盾を人影へ向けたまま、根を避けて下がった。
奈緒は次の段差を探した。
前では哲史が、斜面の上を見ている。
三人とも動いている。
だが、千景は人影から顔を離せず、奈緒は千景の足元から目を離せない。
哲史だけが、前を見ていた。
斜面の上で、枝が動いた。
「上に一人」
哲史が止まる。
奈緒も足を止めた。
横倒しの木の向こうへ、選手がしゃがみ込んだ。
先ほど道を見たときには、そこに姿はなかった。
右側の高い場所でも、一人が木の幹へ身体を寄せる。
斜面を上がる三人を、別々の角度から見られる位置だった。
「千景、そのまま後ろ。奈緒は俺の盾の後ろへ」
哲史が盾を上げた。
奈緒は千景の足元に平らな場所があることを確かめてから、哲史へ近づいた。
盾の陰から上を見る。
倒れた木。
その向こうの選手。
あそこへ奈緒が入るには、先に相手を動かさなければならない。
「さっきは、いなかった?」
「見たときはな」
哲史が答える。
「杭まで戻って、二人を連れてくる間に入られた」
奈緒は下を振り返りかけ、止めた。
千景が人影を見ている。
それ以上後ろを見る必要はない。
いま必要なのは、目の前の二人がどちらへ動くかだった。
◇
斜面の右上にいる選手は、息を整えていた。
正面の太い木の陰から、樹林の内側を回ってきたところだった。
三人が建物の出口で止まっている間に、左へ進める場所を確かめていた。
小盾の選手が杭を見つけ、引き返す。
槍の選手が左へ入る。
その動きを見て、斜面へ向かった。
相手の足が境界で止まれば、下へ戻って攻められる。
杭を壊して通れば、上で待てる。
建物前に残った味方が、三人を正面へ引きつけている。
その間に、高い場所を取った。
左では、別の味方が横倒しの木の裏へ身を沈めていた。
槍の選手が斜面を見たとき、その味方はまだ木の向こうを移動していた。
姿が見えなかっただけで、遠くにいたわけではない。
二人は下を見た。
槍と盾の選手。
その後ろに奈緒。
最後尾で、千景が斜面へ背を向けている。
誰がどこを見ているかが、上からは分かった。
◇
「人影は、まだ入口です」
千景の声がした。
「私が見ている間は止まっています」
奈緒は、返事をするまでに少し間が空いた。
「分かった。そのままお願い」
哲史の盾の縁を見る。
そこから先へ顔を出せば、斜面の右上からも見える。
奈緒は身体を低くし、倒れた木の向こうの相手を見た。
向こうも低く構えている。
こちらへ下りてくるつもりはなさそうだった。
次の安全圏は、あの位置のさらに奥にある。
「杭は壊した。こっちは通れる」
哲史が言った。
千景は後ろを見たまま答える。
「はい。入口は開いています」
「でも、次に隠れる場所を取られてる」
奈緒が続けた。
折れた杭を見つけたとき、自分たちは一つ正しく判断した。
踏み越えずに止まった。
千景が戻って報告した。
哲史が一本を壊した。
人影の監視も、声をかけて引き継いだ。
敵が視線を遮ったときには、奈緒が見直して止めた。
どれも、できた。
その間に、相手は斜面を上がっていた。
「私が杭を見てる間、上は見られませんでした」
千景が言う。
「俺が杭を壊してる間もな」
哲史が答えた。
奈緒は二人の言葉を聞いて、斜面の右上を見た。
そこにいる相手は、何かを見破った顔をしているわけではなかった。
ただ、自分たちより先に着いた場所から、こちらを見ていた。
「罠を壊すところまで、待ってたんだね」
「壊せると思ってたかは分からない」
哲史の槍が、少し上がる。
「壊してる間に、次を取ったんだ」
背後で千景の足が擦れた。
人影を見続けながら、小盾を持つ腕を少し下げ、また上げる。
前には高所の二人。
後ろには、目を離すと近づいてくる人影。
奈緒は哲史の盾の内側へ手を添えた。
地面を見れば、杭を見つけられた。
人影を見れば、止められた。
けれど、そのどちらかを見ている間に、敵は別の場所で動いていた。
哲史が、斜面へ向けて足を開いた。
「ここも抜けるぞ」
奈緒は頷いた。
今度は道を開けたあと、誰がその先を見ているのか。
それを決めなければ、また同じことになる。




