028_確かめるための一歩
中庭の戦闘音が、また繰り返された。
大きな音が一つ。
軽い音が二つ。
奈緒は、もうそちらを見なかった。
建物の端に哲史が立っている。その一歩後ろに千景。奈緒はさらに後ろ、排水溝に面した壁の陰にいた。
前方には樹林がある。
入口の右に太い木。左には、低い石積みと細い木が並んでいた。
右の木の陰へ下がった相手は、まだ姿を見せない。左にいた一人は石積みの手前に残り、三人のいる出口を見ている。
「右の一人は、木の裏。左の一人は見えてる」
奈緒が声に出す。
千景は奈緒までの道を振り返った。
「後ろは、いまのところ通れます」
哲史は正面から視線を外さなかった。
「前の二人が動くまで、ここで見る」
相手は飛び込んでこない。
建物の陰から出るのを待っている。
奈緒は壁へ肩を寄せ、左の石積みから、その先へ目を移した。
木の間に、人が立っていた。
細い幹の横。
腕を下げ、こちらへ顔を向けている。
「左奥に、もう一人」
奈緒の声で千景が顔を向けた。
「石積みの向こうですか」
「うん。細い木の右」
人影は動かなかった。
前にいる選手と違い、構えがない。隠れようともしない。腕を身体の横へ垂らし、顔だけを三人へ向けている。
奈緒は、その足元を見た。
木の根と、白い石。
人影のつま先は、根の向こうにあった。
正面で、哲史の盾が動いた。
石積みの手前にいた選手が、一歩だけ出口へ近づいたのだ。
奈緒は哲史へ目を戻した。
「左の人、来る」
哲史が盾を前へ出す。
相手は、その縁へ触れる前に止まった。
踏み込むなら、哲史の槍が届く距離だった。
相手が半歩下がる。
奈緒は左奥を見直した。
人影が近くなっていた。
足が、木の根を越えている。
さっきつま先の前にあった白い石が、今は踵の後ろにあった。
「……人影が動いた」
千景の小盾がそちらへ向く。
人影は止まっていた。
奈緒は目を離さずに言った。
「細い木の横にいたのに、根の手前まで来てる」
哲史は正面を見たまま聞いた。
「誰が見てた」
「最初は私と千景。前の人が動いたとき、二人ともそっちを見た」
千景が短く息を吸う。
「振り返り、です」
奈緒は原作で読んだ条件を思い出した。
見ている間は止まる。
誰も見ていない間だけ、指定された相手へ近づく。
いま、人影の顔は奈緒へ向いていた。
◇
「私が見てる」
奈緒が言った。
「千景は哲史を見て。二人とも前を向いていい」
千景は、すぐには顔を動かさなかった。
「奈緒さん、あの人影を見ていますか」
「見てる。白い石の前で止まってる」
「では、前を見ます」
千景が正面へ向き直る。
奈緒は人影を見続けた。
目を瞬かせても、足は動かなかった。
原作で調べたとおりだった。瞬きのたびに距離を詰めるわけではない。顔を背けるか、間に何かが入って見えなくなったときに動く。
だから、見ていれば止められる。
奈緒の視界の端で、哲史の肩が動いた。
盾を擦る音がする。
人影を見たままでは、その盾へ相手がどんな角度で力をかけたか分からない。
「哲史、前は?」
「左が寄って、下がった。右は木の裏だ」
「今の動き、見られてない」
「分かってる」
奈緒は人影から目を離さなかった。
哲史の動作を正しく見るには、顔を向けなければならない。
視界の端に肩が映っているだけでは、足の位置も盾の接触点も分からない。どの一動作を補正するか、選べなかった。
正面で、また靴底が擦れた。
「千景、奈緒の前を空けるな」
「はい」
奈緒のすぐ前へ、小盾が入る。
千景が戻ってきたのだ。
奈緒はそれを横目で確かめたが、顔は人影へ向けたままだった。
敵が一人増えたように見える。
だが、増えたのは担当DANCERではない。
一人が設置した人影へ、奈緒の視線が取られている。
「近づいて倒すのは?」
奈緒が聞く。
「俺が左へ入れば、正面を空ける」
哲史が答えた。
「千景を行かせても同じだ。先に、三人で動ける道を見る」
奈緒は人影の後ろにある細い木を見た。
そこへ行くには、正面を押さえている相手の横を通らなければならない。
人影だけを相手にする距離ではなかった。
次の安全圏を示す表示が更新された。
樹林の、さらに内側。
この建物の陰で、ずっと人影を見ているわけにもいかない。
「左へ回れる道がある」
哲史が言った。
「石積みと建物の間。千景、入口まで見られるか」
千景が左を見る。
建物の外壁は、出口から左へ続いている。少し先で石積みとの間が開き、樹林へ向かう細い道になっていた。
「入口までなら。奈緒さんへ戻る道も、建物沿いに残ります」
「奥へ入るな。入口の先が見えなければ、そこで戻れ」
「はい」
奈緒は人影を見たまま、右手を壁へつけた。
千景が離れる。
哲史が自分の前へ戻ってくる。
誰がどこにいるか、今は声と足音でも確かめなければならなかった。
◇
千景は建物の外壁に沿って、左へ進んだ。
奈緒までの道には誰もいない。
哲史は出口の前に残り、盾を正面へ向けている。
千景は鉤剣を低く持ち、石積みとの隙間へ近づいた。
足元に草がある。
細い道の両側だけが少し高く、中央には土が見えていた。人一人なら、小盾を身体へ寄せなくても通れる。
道の奥は、樹林の中で右へ折れていた。
その手前。
建物側の草の間に、杭が一本刺さっていた。
千景は足を止めた。
低い杭だった。
建物の破片かと思うほど、地面に近い。だが、先端の形が整っている。折れて残った木片ではなかった。
反対側を見る。
石積みの根元にも、同じ形の杭があった。
二本の間を結べば、道を横切る。
「杭が二本あります」
千景は足を出さずに言った。
「左の道の入口。建物側と、石積み側です」
「境界か」
哲史の声が返る。
「配置は同じです。まだ踏み越えていません」
千景は身体を低くした。
建物側の杭の根元が、草に隠れている。
もう少し横から見れば、杭がどこまで続くか確かめられる。しかし、そのために右足を置こうとした場所は、二本の杭の間より奥だった。
千景は足を引いた。
杭を確かめるために、杭の線を踏み越えることになる。
「入口から分かるのは、二本あることまでです。奥の曲がり角は見えません」
「そこで戻って」
奈緒が答えた。
千景は奈緒の方へ身体を返した。
壁沿いは開いている。
短い帰還加速で戻り、奈緒の前で止まった。
「戻りました」
「人影は、白い石の前。まだ動いてない」
奈緒が先に状態を伝えた。
千景は人影を見て、その位置を確かめる。
「見えました」
正面で、哲史が一歩下がった。
相手もついてくる。
哲史が槍の穂先を盾の横へ出すと、相手は止まり、今度は石積み側へ身体を寄せた。
左の道が見える位置だった。
「杭を踏んだら、足を取られる」
奈緒は人影を見たまま言った。
「一本壊せば切れる。でも、壊したあとでまた置かれたら、別の境界になる」
「壊したところは、通るまで見ておく」
哲史が答えた。
千景が鉤剣の先を下げる。
「私が壊すには、もう少し近づく必要があります。槍なら、線の手前から届くと思います」
「俺が行く」
奈緒の指が壁を擦った。
哲史が左へ行けば、正面に残るのは千景だ。
奈緒は人影を見ている。
千景が人影を見張れば、奈緒は哲史の動作を見られる。だが、正面の敵へ小盾を向けながら、横の人影を視界へ残さなければならない。
「千景、人影を見られる位置まで、私と一緒に左へ寄って」
「はい」
「哲史は、まだ動かないで」
奈緒は人影へ顔を向けたまま、壁に沿って足を横へ送った。
千景が同じだけ動く。
小盾は正面へ向いたまま。
二人が止まると、人影と前の相手が、千景の視界へ同時に入った。
ただし、人影は左の端だった。
「千景、引き継げる?」
「見ています。白い石の前です」
「私、哲史を見る」
奈緒が顔を正面へ戻した。
目の奥が少し痛んだ。
哲史の全身が、ようやく見えた。
◇
「哲史、左の杭まで。千景が前を守る」
奈緒が言う。
「相手を追わないで。杭を壊して戻ってきて」
「一本だけだな」
「建物側。石積みの方へ身体を出さないで」
哲史が左へ動いた。
千景がその抜けた場所へ小盾を入れる。
奈緒は二人の後ろ、壁に近い位置で止まった。
哲史が建物沿いに進む。
杭は草の間に見えた。
線の手前へ足を置き、槍を短く送り出す。穂先を杭の横へ当て、根元の位置を探った。
石積みの前にいた相手が動いた。
哲史の方へ行くのではない。
千景の正面へ出てきた。
「前、来ます」
千景が言う。
小盾を上げる。
相手は盾へ手をかけようとせず、その手前で身体を左へ振った。
千景も半歩、盾を追わせた。
相手の身体が、人影との間へ入る。
「人影、隠れました!」
千景の声が上がった。
奈緒は哲史から顔を離した。
相手の肩の向こう。
細い木の横に、人影がいない。
白い石も見えない。
奈緒は壁へ寄せていた身体を起こし、千景の左肩越しへ視線を通した。
人影が歩いていた。
腕を下げたまま、奈緒へ向かっている。
奈緒が見たところで、動きが止まった。
前へ出た片足が土を踏み、もう一方の踵が浮いている。
先ほどより、明らかに近い。
「見た。止まった!」
奈緒が言った。
千景は人影を探すのをやめた。
正面の相手だけを見る。
相手が、その瞬間に距離を詰めた。
千景の小盾へ腕がぶつかる。
千景は身体を後ろへ倒さず、右足を半歩引いて受けた。鉤剣を相手の進む側へ置く。
押し込めば、刃の内側へ腕が入る。
相手はそれ以上押さず、足を引いた。
「前、止めました」
「そのまま。人影は私が見る」
奈緒は止まった人影の足元を見た。
白い石から、二歩ほど前。
こちらが監視を渡したことを、敵は見ていた。
そして、千景が人影を見づらくなる位置へ入った。
自分たちが視線を引き継いでも、相手はその間へ身体を入れられる。
左で、槍が木を叩いた。
奈緒はそちらを見なかった。
「哲史、今、人影を見てる。補正できない」
「いらない。杭は動いてない」
もう一度、音がした。




