026_聞こえた戦場
奈緒の指が、同じページを二度戻った。
『午前零時の異常対策課』。
参加一覧から開いた原作の画面には、暗い廊下が描かれていた。
奥の扉から、何かを叩く音がする。
細いコマを三つ使って、登場人物が扉へ近づく。次の大きなコマでは、開いた部屋に誰もいなかった。
音の文字だけが、まだ部屋の中にある。
「ここ、同じ場所だよね」
奈緒が言った。
哲史は隣から画面を見た。
「扉は同じだ」
「うん。でも、入る前は誰かがいると思った」
奈緒は音の描かれたコマと、無人の部屋を並べた。
最初のコマには、人がいるとは一言も書かれていない。扉と音しかない。それでも、読んだ瞬間には扉の向こうへ誰かを置いていた。
「描いてない人を、こっちが勝手に足してる」
千景が身を寄せた。
「試合でも、それをやります」
別の画面に、公開されている対戦映像を出す。
住宅の並ぶ細い道だった。
画面の左で剣戟が鳴る。映っている四人の選手は、角の手前で止まった。前の二人が武器を構え、後ろの一人が左を指す。
四人は角へ入らず、右の路地へ向かった。
映像を送ると、右の出口で別の選手が待っていた。
奈緒は再生を止めた。
「戦ってるところを避けた?」
「音がするところを避けた」
哲史が、止まった画面の左端を指す。
「戦ってたかは、まだ映ってない」
奈緒は再生位置を戻した。
剣の音。走る足音。短い叫び声。
角の向こうは、映像でも見えなかった。
「呼び声、ですね」
千景が原作の別のページを開く。
先に場所を仕込む場面と、離れた場所から同じ声が聞こえる場面があった。
記録した音を、仕込んだ地点から再生する。
その場で会話を作る能力ではない。仲間同士の通信へ入り込んで、好きな返事をするものでもなかった。
「でも、剣の音なら返事はいらない」
奈緒が呟いた。
「そこに戦闘があると思わせれば、こっちが道を変える」
「一位を取りたいなら、毎回知らない戦闘へ入るわけにもいきません」
千景が、右へ曲がった四人を見る。
「避ける判断自体は、普通です」
哲史はその先を再生した。
出口にいた相手が下がる。
四人が追って角を曲がると、映像の視点が変わった。最初に見た左の道は、画面から消えていた。
「これだけじゃ、どこから仕込まれたか分からないな」
「試合の最初から見よう」
奈緒が言った。
画面を閉じかけていた指を止め、再生位置をいちばん手前へ戻す。
二位の結果は、端末の隅へ小さく残っていた。
◇
次の公式戦までに、三人は原作と映像を何度も行き来した。
奈緒の手元には、五つの怪異の名前と、確認したページが並んでいた。
その下へ書き足しかけた文章を、奈緒が消す。
「試合中に全部読み上げるのは無理だね」
「全部、毎回は起きません」
千景が答えた。
「いま何を確かめたのかだけ、分かれば動けます」
奈緒は新しい行へ、三つに分けて書いた。
聞こえた音。
見た敵。
まだ見ていない場所。
「足音だけなら、敵が来たとは言わない。左から足音が聞こえた、まで」
「姿を見たら、場所と人数を言います」
「見えなかったときも、どこまで見たか教えて。路地の入口にいなかったのと、奥までいなかったのは違うから」
哲史が端末へ指を置いた。
映像の角から、少し手前まで線を引く。
「千景がこの角を見るなら、奈緒はここに残る」
「曲がった先までは、追わない?」
「一度戻ってから決める。お前が見えないところまで行かせるなら、その前に俺たちも動く」
千景は画面の道幅を見た。
「確認しに行くときは、自分の足です。戻る道が空いていれば、帰りは速くできます」
「行った先で誰かに立たれたら?」
「帰還加速では通れません。だから、角を越える前に止まります」
奈緒は、千景の線を角の手前で止めた。
前の試合では、五番の剣までの道は見えた。
その先を確かめるために曲がって、千景は壁の前へ入った。
いま引いた線は、壁を見つけてから戻るためのものではない。確かめる千景自身が、どこまで離れるかを先に決める線だった。
「千景が離れてる間、哲史は私の前にいて」
「いる。敵を見つけても、千景が戻るまでは追わない」
「全部の音を疑ってたら、遅くなるよね」
奈緒は映像を止めたまま、二人を見た。
千景がすぐには答えなかった。
哲史が口を開く。
「遅くなる。だから、道を変える前に見る」
「聞こえるたびじゃなくて?」
「聞こえただけなら、構えておけばいい。その音で行き先を変えるなら、何がいるか確かめる」
奈緒は三つの行の横へ、短く書き足した。
進む場所を決める前に。
千景が、もう一度映像の角を指した。
「相手が見つかったとき、すぐ倒しに行かないでください」
「俺に言ってるのか」
「はい。戻る場所まで一緒に前へ行かれると、私が戻れません」
奈緒が笑い、哲史は引いた線を少し短くした。
「ここで待つ」
◇
接続先では、舗装の割れ目から草が伸びていた。
低い建物が続き、その先に樹林が見える。
三人は建物の外壁に沿って進んだ。道の向こうで一度だけ打撃音がしたが、姿は見えない。千景が聞こえた方向を告げ、哲史がそちらへ盾を向けたまま、次の石壁まで移った。
奈緒が壁の陰へ入る。
哲史がその前で止まり、千景が二人の横へ戻ってきた。
石壁は三人の背より高かった。
正面を向くと、左には壁に沿った短い道と曲がり角がある。その向こうは、中庭へ続いていた。
右には浅い排水溝が伸びている。溝の建物側に舗装が残り、樹林の方へ続いていた。少し先で建物の端へ沿って折れるため、出口までは見えない。
次の安全圏は、樹林側だった。
「左から、金属音」
千景が言った。
直後、強い衝突音が響いた。
一つ。
すぐ続けて、軽い音が二つ。
靴底の擦れる音と、短い声。
奈緒は左の角を見た。
画面越しに聞いたときより近い。
誰かが大きな武器を受け、そのまま後ろへ押されているように聞こえた。
だが、まだ誰も見ていない。
「中庭の方。人数は分からない」
奈緒が言い直した。
千景の小盾が左へ向いた。
哲史は右の通路を見ていた。
排水溝の縁に、折れた枝がある。その先の舗装には人影がない。建物の角までなら、足を置く場所を目で追える。
また、左で大きな音がした。
一つ。
軽い音が二つ。
奈緒が哲史を見る。
哲史は槍の石突を地面から浮かせ、音を聞いていた。
靴底が擦れる。
短い声。
「同じだ」
「音?」
「最初の一つと、次の二つ。そのあとに足が滑る」
奈緒は左へ顔を向けた。
先ほどと同じ間が空いた。
大きな音が鳴る。
今度は続く二つを、来る前から待っていた。
金属が鳴った。
二度。
「録音かもしれない」
哲史が言う。
「でも、本当に戦ってる横で流してるかもしれない。中庭を見る」
奈緒は石壁へ背を寄せた。
「千景、左の角まで。曲がった先へは出ないで。ここへ戻る道を確かめてから行って」
千景は左の道と、奈緒の足元を見比べた。
角までは壁沿いに走れる。途中に瓦礫はなく、奈緒のいる壁の切れ目も見えている。
「奈緒さんまで通れます。角から見えるところを確認します」
哲史が奈緒の前へ半歩戻った。
左の千景と、右の排水溝が見える位置に立つ。
千景が動いた。
帰還加速は使わず、壁に小盾を擦らない幅を残して走る。
角の手前で減速した。
左の盾を先に出し、その上から中庭を覗く。
◇
中庭には、四角い植え込みがあった。
草が伸び、縁石の一部が崩れている。奥の建物には二つの出入口があり、一方は扉が外れ、もう一方は半分閉じていた。
右奥には低い台がある。その裏と、植え込みの向こう側の地面は、ここからでは見えなかった。
千景は中庭へ足を出さなかった。
大きな金属音が鳴る。
小盾を握る指が固くなった。
目の前の石畳には、誰もいない。
二つの軽い音。
靴底が擦れる。
千景は音の方へ目を動かした。
植え込みの向こうか、奥の壁際か。音が建物へ返り、そこまでは絞れない。
だが、見えている石畳を走る足はなかった。剣を振る腕も、武器を受けて下がる身体もない。
「中庭の、見える範囲には敵はいません」
千景が報告した。
「戦闘音は続いています。植え込みの裏と、奥の建物の中は見えません」
石壁の方から、奈緒が答える。
「奥まで入らなくていい。音の順番は?」
「大きい音のあとに二つ。そのあと足音と声です」
また、大きな音。
千景は植え込みを見たまま待った。
二つ。
擦れる音。
短い声の終わりが、途中で切れた。
「声の切れ方も同じです」
奈緒は哲史を見た。
哲史が頷く。
「録音だ。千景、戻れ」
「奥に、本物が隠れているかは分かりません」
「そこは残していい。いまは戻って」
奈緒が言った。
千景は小盾を角へ向けたまま、足を半歩引いた。
壁の手前へ身体を戻す。
奈緒までの舗装を見た。誰も入っていない。哲史は約束した位置で盾を構えている。
そこから帰還加速に入った。
短い道を戻り、奈緒の前で減速する。
止まった千景の背後で、同じ衝突音がまた響いた。
「音源は壊せそう?」
奈緒が聞いた。
「場所を特定できていません。探すなら、中庭の奥へ入る必要があります」
「入らない」
哲史が答えた。
「音が偽物だと分かればいい。止めるために、見えてないところまで行く必要はない」
奈緒は頷いた。
誰もいない場所で、武器の音だけがする。
原作の、開いた扉のコマを思い出した。
さっきまで、そこへ戦っている人を足していた。
今は足さずに聞ける。




