001_打ち切り漫画家の頼み
藤代奈緒の漫画は、終わったことになっていた。
少なくとも、世間では。
「これ、連載の続きだよな」
今泉哲史は、机の横に積まれた確認用の原稿を見下ろした。
いちばん上のページには、槍と盾を持つ男が描かれている。奈緒の初連載、『英雄王と囚われの龍姫』の主人公だ。
雑誌に載った最後のページなら、哲史も一度だけ見せられた。
目の前の原稿は、その先から始まっている。
「そうだけど」
奈緒は机へ向かったまま答えた。
振り返りもしない。左手でキーボードのショートカットを叩き、右手のスタイラスを液タブの上で走らせている。モニターの端には、担当編集から届いた「連載終了について」というメールが開いたままだった。
液タブの脇には、確認用に印刷された原稿の束がある。メール一通で終わったはずの続きを、紙の厚みだけが否定していた。
「載らないんだろ」
「載らないね」
「単行本の描き下ろし」
「そんな予定、ないよ」
「じゃあ、なんで描いてる」
液タブの上で、スタイラスが止まった。
奈緒はようやく顔を上げた。寝不足らしい目で哲史を見て、当たり前のことを聞かれたように言う。
「終わってないから」
答えになっていない。
哲史にとっては。
けれど奈緒は、それで全部答えた顔をしていた。
「それで」
哲史は壁に背を預けた。
「五分だけでいいから来て、って話は?」
「いまからする」
奈緒はスタイラスを置くと、机の端のスマートフォンを差し出した。
画面には、見慣れた競技ロゴが表示されている。
FICTA。
漫画の登場人物を自分の身体へインストールして戦う、国民的な競技だ。興味のない哲史でも、そのくらいは知っている。
画面の中央には、選手登録という文字があった。
「やらない」
「まだ何も頼んでない」
「選手登録を見せながら言う台詞じゃないだろ」
「話だけ聞いて」
「聞いたら断りにくくなる」
「そう思うなら、先に引き受けて」
「もっと嫌だ」
奈緒が露骨に眉を寄せた。
昔から、頼みごとをするときだけ目つきが悪くなる。断られる可能性を考えるほど、相手を睨んでしまうのだ。
「哲史に、ハウをやってほしい」
「ハウ?」
「うちの英雄王」
「名前くらいは覚えてる」
「いま疑問形だった」
「確認しただけだ」
奈緒はスマートフォンを引き戻し、画面を何度か払った。
選手への招待履歴が並ぶ。
表示されている返答は、上から下まですべて辞退だった。
「何人に声をかけた」
「頼めそうな人には全員」
「全滅か」
「一人だけ返事がまだ」
「誰だ」
「あんた」
哲史は帰ろうとした。
「待って。なんで帰るの」
「最後の候補に期待をかけるな」
「順番の問題じゃない」
「じゃあ、最初に頼め」
「最初に頼んだら、引き受けた?」
「断った」
「でしょ」
背中の服をつかまれた。
振りほどくほどのことでもない。哲史はため息をつき、机の横へ戻った。
足元に、確認を終えた原稿の束が崩れかけている。踏まないよう、いちばん上の束を拾い上げた。
そのまま何気なく、最初のページをめくる。
英雄王が、全身鎧の兵士と向かい合っていた。
敵の剣が上がる。
英雄王は槍を突かない。穂先とは反対側、石突で剣を握る手首を打っている。
次のコマでは盾を持ち上げていた。
攻撃を受ける位置ではない。盾の縁を相手の顔へ寄せ、視線だけを塞いでいる。
敵が嫌って上体を引く。その前に、英雄王の足が半歩だけ内へ入る。踵の逃げ道が消え、鎧の重さが片脚へ偏った。
最後に槍が動く。
狙いは鎧ではなく、崩れた膝の裏だった。
「これ、盾で防いでないな」
服をつかんでいた指が離れた。
「分かるの?」
「見れば分かる。先に石突で手首を潰して、盾で目を隠す。後ろへ下がらせて右脚に体重を乗せたところを崩してる」
「右脚だけじゃない。盾を避けるために首も――」
「左へ回してる。だから膝を崩したあと、槍を戻す線が最初から首の横を通る」
奈緒が黙った。
哲史はもう一度ページを見る。
派手な場面ではなかった。光も炎も、叫び声さえない。
しかも石突を返す動きも、盾を上げる動きも、足を入れる動きも、ほとんど同じ大きさのコマで描かれている。どこを見ればいいのか、奈緒は読者に教えてくれない。
それでも、全部つながっていた。
どれか一つでも抜けば、最後の一撃には届かない。
「そこまで気づいた人、いなかった」
奈緒の声から、さっきまでの勢いが消えていた。
「編集にも?」
「細かい、とは言われた。でも、何のために細かいのかまでは」
「言えばよかっただろ」
「漫画の横に説明書を置けって?」
それは嫌だろうな、と哲史にも分かった。
奈緒は原稿を取り返さなかった。
代わりに、まっすぐ哲史を見る。
「だから、あんたしかいない」
さっきとは意味が違って聞こえた。
けれど、この四つの動きを、ただの地味な攻防として扱う選手がハウになっても、奈緒の漫画にはならない。
哲史は原稿の束を揃えた。
「大会で勝って、連載を戻してもらう気か」
「そんな話、誰ともしてない」
「じゃあ、優勝したい?」
「いまの私たちが?」
奈緒は一度だけ笑った。
自分で言って、自分で無理だと思っている笑い方だった。
だが、すぐに笑みを消す。
「一回でいい」
机の上に置かれた右手。その中指の側面は、スタイラスが当たり続けた跡だけ赤くへこんでいた。
「一回だけ、ちゃんと戦場で動かしたい。ハウがどう戦うのか、マリが何を見てたのか、最後まで見てもらいたい」
奈緒は、モニターに残る連載終了のメールへ目を向けなかった。
「この漫画は、つまらなくないって証明したい」
哲史には、続けたいことがほとんどなかった。
初めて触れたものでも、少し試せば大抵はできた。できるようになった瞬間には、もう興味が薄れている。
だから、載らないと決まった漫画を描き続ける理由は、やはり分からない。
分からないからこそ、机の横に積み上がった原稿から目を離せなかった。
終わったと告げる画面の隣で、奈緒だけが続きを描いている。
同情ではない。
ただ、そのしつこさが少しだけ面白くなった。
「一試合だけだからな」
奈緒が瞬きをした。
次の瞬間には、スマートフォンを哲史の胸へ押しつけている。
「ここ。氏名と生年月日」
「切り替えが早すぎる」
「気が変わる前に」
「変わりそうになってきた」
「もう遅い」
奈緒は哲史の手からスマートフォンを奪い、入力された内容を確認すると、迷いなく登録を進めた。
画面が切り替わる。
チーム登録。
そこに並んだ五つの枠を見て、哲史の指が止まった。
「待て」
「なに」
「一チーム五人って書いてある」
「うん」
登録済みの枠は二つ。
今泉哲史。
藤代奈緒。
残る三枠には、灰色の文字で未登録と表示されていた。
「残りの三人は?」
奈緒は答えた。
「いないよ」




