015_一つの名前、三つの終わり
戻る。
残る。
前。
三つの言葉が、訓練区画の白い床に並んでいた。
「『戻る』と『残る』は、私への指示ですね」
アンハナの姿をした千景が確認する。
「うん。『前』だけは私が動く」
奈緒は、床へ表示していた長い動作説明を消した。
戻る場合は、千景が奈緒へ続く道を走る。
残る場合は、帰還せず哲史と前方に留まる。
前の場合は、奈緒自身が次の遮蔽物へ進む。守護対象の位置が変われば、千景が戻る先と道も変わる。
そこまで書けば、昨日までの奈緒なら、足を向ける角度も、合図を出す時刻も、そのあとに哲史が使う空白も続けていた。
床に残したのは三語だけだった。
短くした分、奈緒の中にしかない理由は増える。
漫画なら、前後のコマを足せる。試合では、矢が届くまでの一秒に説明を足せない。
三人が先に同じ意味を持っていなければ、短い言葉はただの省略になる。
「|《龍環》で始めるところまでは、三人とも分かってる」
英雄王ハウの姿をした哲史が、正面の標的へ盾を向けた。
「奈緒は、誰が動くかだけ決めればいい」
哲史と千景が前。
奈緒が二人を見られる壁の後ろ。
正面には盾を持つ標的が二体。左奥に射撃機が一基。千景と奈緒の間へ入る短槍の標的が一体いる。
三種類の動線だけを入力し、出る順番は伏せてあった。
成功条件は、三人が合流できる通路を残すこと。標的を倒しても、経路を完全に塞がれれば終了する。
開始音が鳴る。
盾の二体が哲史へ進んだ。
千景が右の盾へ鉤剣を掛ける。
左奥で、射撃機の弓が上がった。
「戻る」
千景が鉤剣を外し、奈緒へ向きを変えた。
一歩目を踏み、二歩目から加速する。
だが、矢は放たれなかった。
千景が離れた前方で、二枚の盾が閉じる。
哲史は槍を挟ませたまま、握っていた指を開いた。
引き合うものを失った二体が、前へ傾く。
哲史は盾で片方の肘を押し上げ、空いた右手を腰の剣へ伸ばした。
その横を、短槍の標的が通った。
千景が戻った通路へ入り、横向きにした柄を壁へつける。哲史と後ろの二人をつなぐ道が閉じた。
『課題失敗』
標的が止まる。
哲史は剣の柄から手を離した。二体の盾の間に残った槍を抜き取り、閉じた通路へ顔を向ける。
「弓は上がった」
奈緒が言った。
「まだ放ってない」
哲史は、引かれたままの弦を示した。
「先週の二本線の五人も、千景が戻るのを待ってた。弓を上げただけで戻ったら、また先に道を塞がれる」
奈緒は停止した四体を見た。
弓が上がったことも、千景を帰すか決めるための情報ではある。
けれど、まだ結果ではない。
二回目。
射撃機の弦が引き切られた。
矢が弦から離れる。
「戻る」
千景が奈緒へ戻り、小盾で矢を外へ流した。
三回目。
弓は上がったまま、放たれない。正面の盾だけが半歩開き、千景が離れるのを待っている。
「残る」
千景の鉤剣が盾の縁を引いた。
哲史が、開いた中央を抜ける。
四回目。
短槍の標的が、千景と奈緒を結ぶ直線へ身体を入れた。
「前」
動くのは千景ではない。
奈緒が腰の高さの壁に沿って、次の壁まで走った。
短槍は元の直線に残る。千景はその外側にできた新しい道へ向きを変え、移動した奈緒へ戻った。
標的を倒したわけではない。
四体が入力された順番しかなぞらないことも変わらない。
三回とも、哲史と千景が前に立ち、奈緒が壁の後ろから二人を見る|《龍環》から始まった。敵が矢を放てば、千景が奈緒のもとへ戻って防ぐ。弓を上げた敵が矢を放たず、千景が離れるのを待つなら、千景は哲史のそばに残って正面を崩す。帰り道を塞がれれば、奈緒自身が前へ動き、千景が戻る先を変える。同じ陣形から始めても、敵の動きに応じて三つの対応へ分かれた。
「合図が出るまでは、私は前に残ります」
千景が三語を見直した。
「弓が上がっても、経路に誰か入っても、奈緒さんが選ぶまでは動かない」
「うん。『前』なら私が動く」
「奈緒さんが動けない地形なら?」
奈緒は言葉を止めた。
短槍を外しに行くこともできる。別の道を探すこともできる。けれど、その全部をいま一つへ固定する必要はなかった。
「そのときは、三つのどれでもない。別に言う」
「全部を|《龍環》へ入れないんですね」
「入れない」
哲史が開始位置へ槍先を戻した。
「決めたのは始まりまでだ。終わりは、相手が動いてからでいい」
◇
その夜、奈緒は|《龍環》を描いたページを公開した。
更新ボタンへ指を置いたまま、一度だけ止まる。
「これ、次の相手も読むよ」
「名前がなくても映像は見る」
哲史は答えた。
「隠すために付けた名前ではありません」
千景も、三コマの最初を見ている。
奈緒は更新を確定した。
一つの名前は、三人だけの暗号にはならなかった。
数分もしないうちに、新しいページへ反応が付いた。
『龍環って、この三人の連携名?』
『アンハナが戻るだけじゃなく、マリも動くから環なのか』
二つ目の反応は、奈緒が残した三コマだけを見ていた。
足りない説明を付け足そうとして、奈緒は返信欄を開く。
そこへ一文字も打たず、閉じた。
三コマで伝わった範囲まで、長文で言い直す必要はなかった。
◇
一週間後。
第三回《ウィークエンド・オープン》の第一試合。
三人は、大型倉庫が並ぶ区画へ降りていた。
開いた搬入口の中には、積荷を載せた棚が壁のように並んでいる。棚と棚の間には、二人が並べる幅の通路が延びていた。
『ありきたりな転生物語』の二本線を付けた五人が、その通路の反対側へ入る。
前には、丸盾と槍を持つ一人、長剣を持つ一人。
奥の高い足場に弓が一人。
残る短槍役と長柄役は、左右の棚沿いへ分かれた。
「前の試合では、前衛二人とも槍でした」
千景が長剣役を見た。
「棚の間では槍を二本並べにくい。長剣で俺と千景の間を切るつもりだ」
「|《龍環》だ。弓、マリを狙え。アンハナを戻させろ」
五人の一人が言った。
名前は、もう相手の口にある。
哲史と千景が前へ出た。
奈緒は二人を見られる積荷棚の後ろへ入る。
同じ始まりだった。
高い足場で、弓が上がった。
奈緒は、弓が上がった瞬間には呼ばなかった。
弦を引く指が止まり、また動く。
矢先が積荷棚の角を越える。
自分へ届く線が完成しても、まだ千景を前に残した。
前衛の盾役が、弓役より先に技名を口にした。その盾役は、『ありきたりな転生物語』の主人公を担当している。
「《テンプレ》!」
黒鉄色の光も、風も起きない。続けて、高い足場の弓役が叫んだ。
「《ウィンド・アロー》!」
矢が弦から離れる。後ろから風に押され、積荷棚の角を指一本分だけ避けて奈緒へ飛んだ。
「戻る」
千景は右の長剣へ掛けていた鉤剣を外した。
棚の間には、奈緒まで一本の通路が開いている。
千景の足が加速した。
奈緒の前で身体を止め、小盾を斜めに立てる。
矢は盾面を擦り、積荷の木箱へ刺さった。
飛んでいる途中で、矢の向きが不自然に曲がったわけではない。左右へ残っていたわずかな揺れが、棚の角へ当たらない側へ収まっていた。
奈緒の肩は、矢が刺さった音に遅れて強張った。
訓練で間に合うと分かっていても、実戦の矢が遅くなるわけではない。
それでも、弓が上がっただけで千景を帰さなかった。
千景が戻った間、前衛二人は哲史へ重なった。
盾役が、丸盾を正面へ立てる。
「《アイアン・ウォール》!」
黒鉄色の光が盾と前腕を固める。隣では長剣役が、両脚を踏み開いた。
「《フィジカル・ブースト》!」
赤い光が長剣役の肩から脚までを走り、その一人の踏み込みと剣を押す力を上げた。
哲史は下がらない。
左の盾へ自分の盾を重ね、右から来る長剣だけを槍の柄で止める。二人を倒そうとせず、千景が前へ戻る通路を残した。
千景は通常の脚で通路を走り直した。
前方へ戻ったとき、弓が二本目をつがえる。
前衛の盾が、わずかに外へ開いた。
千景が帰れば、二人で哲史の左右へ入るための隙間だった。
弓が上がる。
弦は引かれたまま止まった。
矢先も、奈緒が隠れた積荷棚の角から動かない。
まだ放たれていない。
「残る」
千景は振り返らなかった。
鉤剣を盾の上縁へ掛け、腰を落として引く。
黒鉄色に固まった盾と前腕が一緒に持ち上がり、盾役の脇が開く。
哲史は、その脇を抜けた。
槍の石突が胸元へ返る。
青い格子が一つ開いた。
長剣が哲史の背へ向く前に、千景の小盾が肘へ当たる。刃の軌道が外れ、哲史の穂先が二人目へ届いた。
二つ目の青い格子が弾ける。
弓は、そこで初めて二射目を放った。
奈緒は積荷棚の陰にいる。矢は角へ当たり、床へ落ちた。
帰る必要はなかった。
左右に残った短槍役と長柄役は奈緒を挟まず、弓役とともに収縮方向へ退いた。三人も無理に追わない。
安全圏が狭まったあと、北側の通路から別チームの槍二人が入ってきた。
千景が一人の穂先を鉤剣で壁へ寄せる。
奈緒は、哲史の盾が返る時刻だけを選んだ。
盾で二本目の槍が流れ、並んだ二人の胸元へ哲史の穂先が順に届く。
撃破は四まで増えた。
第一試合は三位で終わった。
結果表示の一番上には、二本の斜線が並んでいた。
前週、三人の帰還路を塞いだ五人だった。




