008_戻るのは俺じゃない
五つの訓練標的が、乾いた舗装路を挟んで並んでいた。
畑側の出口には、大盾、大型弩、槍を持つ三体。
市街地側には、短弓と幅広の剣を持つ二体。
初戦の最後に、哲史たちを止めた配置だった。
違うのは、奈緒の前にアンハナがいることだ。
前日の試験では、千景が一人で前へ出て、一人で奈緒へ戻った。
今日は哲史と並んでいる。
小盾は奈緒へ向けず、左半身を前方の槍へ向けていた。守る相手の横に立ち続ける姿勢ではない。哲史を前へ進ませ、そのあとで奈緒へ帰るための立ち方だった。
奈緒も、それを直そうとはしなかった。
前日、奈緒の原稿から初めて他人の身体へ渡ったアンハナが、今日は千景の判断で位置を選んでいる。
久瀬千景が正式に加わった翌日。三人は、前日と同じFICTA登録施設の訓練区画へ来ていた。
石床の上には舗装路を模した灰色の帯が延び、その先に安全圏の白い境界が引かれている。開始後は、市街地側から赤い収縮線が追ってくる。
「あの五人を再現したんですか」
アンハナの姿をした千景が、槍の標的を見た。
「武器と配置と攻撃順だけだ」
哲史は答えた。
標的がなぞるのは、初戦映像から入力した動線だけだった。相手の能力も判断も再現しない。
哲史は、英雄王ハウの手にある槍で白い境界を示した。
「倒す必要はない。三人であそこを越えれば成功だ」
「前と同じなら、今度は私が奈緒さんへ戻ります」
「それで通れるかを見る」
奈緒は龍姫マリの姿で、二人の後ろに立っていた。
哲史と千景の間には一歩半。千景と奈緒の間には、その倍の距離がある。
開始音が鳴った。
前方の大盾が、舗装路を塞ぐ。
その右から槍が伸びた。
哲史は盾の縁で穂先を外へ流す。千景の鉤剣が槍の柄へ掛かり、引き戻そうとする腕を止めた。
二人で進めば、槍は自由にならない。
哲史は大盾の持ち手へ間合いを詰めた。
「後ろ、弓が上がった」
奈緒の声が飛ぶ。
市街地側の短弓が、奈緒へ向いていた。
千景が鉤剣を外した。
舗装路を蹴り、奈緒へ向かう。
守護対象へ戻る間だけ、その足が加速した。輪郭が消えることはない。石床を蹴る音を狭い間隔へ詰めながら、実際の道を駆け戻る。
千景が離れた瞬間、自由になった槍が横へ払われた。
哲史は盾で受けた。大盾の持ち手まで、あと二歩。
そこへ届く前に、槍の石突が舗装路へ落ちた。進路を横断する柄へ大盾が重なり、出口が閉じる。
背後で弦が鳴った。
千景は奈緒の前へ滑り込み、小盾を傾けた。矢が盾面を擦り、二人の右へ逸れる。
奈緒には届かなかった。
だが、前も開かなかった。
大型弩が哲史へ向く。大盾と槍が並んだまま、赤い収縮線が三人の足元を追い越した。
白い境界へ入れた者は、一人もいない。
『課題失敗』
標的が停止した。
千景は奈緒を背にしたまま、小盾を下ろした。
「矢は防げました」
前日の試験では、奈緒へ戻る判断そのものを評価された動きだった。
奈緒は傷ついていない。千景にも損傷表示は出ていない。それでも、三人の誰も安全圏へ入れなかった。
千景は止まった収縮線と、閉じたままの出口を見比べた。
「戻るのが早かった」
哲史は、槍先で大盾までの空白を示した。
「あと二歩、前にいられた」
「遅らせれば、奈緒さんへ矢が届きます」
「いつ放たれた?」
千景が短弓の標的を見る。
「私が戻り始めたあとです」
壁面に、一回目の映像が表示された。
奈緒が停止位置を動かす。
弓が上がる。
弦が半分まで引かれる。
引き切ったあと、矢が放たれる。
三つの動作の間に、千景が前方で使えたはずの時間が残っていた。
奈緒には、一回目から全部見えていた。
千景が槍を外へ引いた角度も、大盾の持ち手までの距離も、弓を持つ指が弦を引く速さも。
どれも必要な情報だった。けれど、全部へ補正を配る必要はない。
敵が弦を引く速さは、千景を帰す時刻を決めるために使えばいい。
いま先に決めるべきなのは、どの動作を直すかではない。
自分へ矢が届く直前まで、千景を前へ残せる時刻だった。
奈緒は、自分が狙われる映像を止めずに進めた。
「弓が上がっただけなら、まだ戻らなくていい」
奈緒は、千景が鉤剣を外した場面まで映像を戻した。
「ここから大盾が開くまで残っても、アンハナなら間に合う」
「間に合うと分かっていても、遅れた場合は――」
「帰る時刻は私が見る」
奈緒が言った。
「弓を引く速さも、前の二人が開けるまでの時間も。両方見て、最後の瞬間を選ぶ」
「外したら、奈緒さんが撃たれます」
「外さないために見るの」
強く言ったあと、奈緒は画面の矢先から一度だけ目を外した。
「千景が早く帰るんじゃなくて、私が帰す。だから、それまでは前をお願い」
千景は、停止した自分の右手を見た。鉤剣は槍へ掛かったままだ。
「私は、その時刻まで前に残る」
「そう」
奈緒の返事に、迷いはなかった。
「今泉さんは、いつ戻りますか」
「俺は戻らない」
哲史は前方の大型弩へ槍を向けた。
「戻るのは千景だ。俺まで戻ったら、また前が閉じる」
二回目の開始位置へ戻る。
哲史と千景が前。奈緒が後ろ。
立つ場所は一回目と同じだった。
ただし、誰がどこまでを受け持つかは違う。
哲史は、奈緒へ戻る余白を考えない。
千景は、弓が上がっただけでは鉤剣を外さない。
奈緒は、自分へ近づく矢を見ながら、二人を切り替える一瞬だけを選ぶ。
開始音が鳴る。
大盾が舗装路へ出た。
右から来る槍を、哲史が盾で受ける。
盾面が穂先へ触れる直前、奈緒の視線が哲史の左腕へ絞られた。
内側へ寝かけた盾が、哲史の狙った角度へ迷いなく立つ。
穂先が上へ流れた。
奈緒が消したのは、その一動作に混じる盾角度の誤差だけだった。
下を空けた槍の柄へ、千景の鉤剣が噛む。
右手を外へ引き、槍を持つ標的の肩を開かせる。
哲史はその横を抜けた。
「弓、構えた」
短弓が奈緒へ向く。
千景の右肩がわずかに後ろへ動いた。
「まだ半分。前を開けて」
奈緒が告げる。
千景は戻らなかった。
槍を外へ拘束したまま、小盾で標的の肘を押す。
大盾が、二人をまとめて舗装路の外へ押し出そうと踏み込んだ。
哲史は槍を短く持ち替えた。
石突を、大盾の内側へ差し込む。
狙ったのは盾面ではない。革の持ち手を握る手首だった。
石突が当たり、標的の指が開く。
大盾の上端が傾いた。
舗装路の先に、白い境界まで続く隙間が現れる。
「千景、今」
鉤剣が槍から外れた。
千景は大盾の脇を抜け、奈緒へ向く。
一歩目が舗装路を踏む。
二歩目から、守護対象へ戻る足だけが速くなった。
床も距離も消えない。開いた隙間を自分の身体で通り、三歩目を奈緒の手前へ置く。
同時に、短弓の弦が鳴った。
千景は小盾を前へ出した。
盾を大きく振らない。左手首を返し、斜めの面へ矢尻だけを当てる。
矢が奈緒の左へ外れた。
小盾は胸の前に残っている。
市街地側のもう一体が動いた。
幅広の剣が、小盾の外から奈緒へ振り下ろされる。
千景は肩を射線へ入れなかった。
右の鉤剣を上げる。
前方で哲史の盾を流した補正は、すでに終わっている。
奈緒の視線が、千景の右手へ移った。
「刃じゃない。鍔元」
鉤剣の内側が、幅広の剣へ向かう。
深すぎれば、相手の力を正面から受ける。浅すぎれば、刃が鉤を抜ける。
奈緒が消したのは、千景の手首に残った角度の誤差だけだった。
湾曲した刃が、幅広の剣の鍔元へ噛んだ。
千景は右肘を畳み、剣の軌道を自分の外へ流す。
重い刃が石床を叩いた。
奈緒にも、千景にも届かない。
どちらの視界にも、損傷表示は開かなかった。
前方の大型弩が回転した。
開いた出口から、奈緒へ射線が延びる。
哲史は振り返らない。
大盾を手放した標的の脇へ入り、そのまま大型弩へ詰めた。
発射口へ自分の盾を斜めに押し当てる。
大型弩の向きが舗装路の外へずれた。
続けて、槍の石突で引き金へ伸びた標的の手を打つ。
弦は鳴らない。
「先に行って」
奈緒が千景へ言った。
二人が、開いた舗装路を走る。
千景が白い境界を越えた。
奈緒が続く。
赤い収縮線が、哲史の踵へ迫る。
哲史は大型弩を押さえていた盾を外し、最後に白い境界へ入った。
『課題成功』
赤い線が停止した。
三人の誰にも、損傷表示は出ていない。
千景は右肩を見た。
前日の試験では、そこへ二本目の矢を受けていた。
今度は何も刺さっていない。
小盾は左手にあり、鉤剣も右手に残っている。どちらかを失ったわけでも、奈緒の代わりに傷を負ったわけでもない。
「今度は、私も残りました」
「うん」
奈緒は、千景の小盾と鉤剣を順に見た。
「三人とも残った」
奈緒は、自分の右手を見た。
これまでの奈緒なら、哲史の盾、千景の帰還、矢を外す小盾、剣を止める鉤剣。そのすべてへ補正を配ろうとしていた。
二回目に選んだのは、前方では哲史の盾角度。そこが終わってから、後方では千景の鉤剣の角度。
二つを同時に直したのではない。
必要な一動作が終わるたび、次の一つを選んだ。
「直したの、二つだけだった」
奈緒が言った。
「一度には一つ。終わったから、次を選んだ」
千景は、自分の右手に残った鉤剣を見た。
「少ない方が、三人とも残ったんですね」
訓練区画が石床へ戻る。
壁面には、成功までの経路が三本の線で表示された。
「これで、初戦の負け方は解けましたか」
千景が聞いた。
「一つはな」
哲史は、市街地側に置かれていた短弓を指した。
「今回は、弓の位置も攻撃順も先に知ってた。通れる舗装路も、俺たちが入力した」
「実戦なら、別の場所から来るかもしれない」
奈緒が言った。
「剣が先かもしれないし、戻る道を塞がれるかもしれない」
千景は、壁面の三本の経路を見る。
「攻撃を見てから戻れても、見つけられなければ間に合わない」
「敵が射線へ入る前に見つける役が要る」
哲史の言葉を聞いて、奈緒が原作の五人を壁面へ表示した。
ハウ。マリ。アンハナ。
登録済みの三人の横に、二人が残っている。
奈緒の指は、老騎士シュガールを通り過ぎた。
止まったのは、斥候として戦場を歩くザナだった。
「なら、次はザナを使える人を――」
「探すのは、まだ先だ」
奈緒の指が止まった。
「必要じゃないの?」
「必要だ。でも三人でどこまでやれるかは、まだ分かってない」
哲史は三本の経路を見た。
「千景が知らない矢にも戻れるか。奈緒がその場で順番を選べるか。俺が後ろへ戻らず、前を開けられるか。まだ試してない」
「五人揃えてから、試合に出るんじゃないんですか」
千景が聞いた。
「五人いなきゃ勝てないなら、最初の試合で俺たちは五人倒せてない」
壁面には、ハウ、マリ、アンハナが並んでいる。
残る二人は必要だが、明日にも埋める枠ではない。
哲史は五人の表示を閉じた。代わりに開いたのは、次に参加できる試合の一覧だった。
「足りないまま、勝てるところまで勝つ」
奈緒が、選びかけたザナから手を下ろした。
「次は、人探しじゃない」
哲史は、三人で出られる試合を選んだ。




